経理課・木下紬の恋のバグ
第36話 室井統括の急襲
「……室井、統括」
紬の喉の奥から、カサついた悲鳴のような声が漏れた。
五階のガラス張りの開発室の入り口に佇む室井恭一郎は、仕立てのいいチャコールグレーのスーツを冷酷にまとい、眼鏡の奥の切れ長の瞳でデスクの上の大量のIDメモをじっと見下ろしていた。
「瀬尾くん、それに木下さん。職務権限のない者が夜遅くにメインサーバーへアクセスし、他人のアカウントを不正に集中させている。これは我が社の就業規則に対する重大な利敵行為、すなわち明白なバグだ」
室井は高圧的な口調で、ゆっくりとデスクへと歩み寄り、スーツのポケットから自身の最新のスマートフォンを取り出した。
その親指が、画面の端にある真っ赤な「緊急シャットダウン」のアイコンへと静かにかけられる。
『しまっ……! ボタンを押されたら、すべての横領の証拠データが消されてしまう……!』
紬の背中に冷や汗がドッと噴き出した。
瀬尾のパソコン画面に映るプログレスバーは、まだ「八二%」を示したまま、乗っ取りの完了を待ってピコピコと点滅している。まだ足りない、室井の指を止めなければ私たちの負けだ。
「室井統括、お待ちください! 私は経理として、あなたがアベニールに入力した『海外仕入れルート完全自動化計画』の、致命的な原価計算のバグについて最終確認の報告をしていたところです!」
紬は一歩前に出ると、手元にある経理ノートを室井の眼鏡の前にこれ以上ないほど真っ直ぐに突きつけ、あえて大声でフロアに響き渡るように叫んだ。
「……何だと? 完璧なアベニールの計算に、バグなど存在しない。適当な感情論で私の時間を奪うな」
室井は不快そうに眉をひそめ、スマートフォンの上の親指を僅かに止めて、紬のノートを冷淡に一瞥した。
「感情論ではありません! あなたが推奨した海外ルートには、昨今の激しい為替の乱高下や、主要国による不当な関税障壁の引き上げといった、地政学的なリアルタイムのリスクへの引当金(予算)が、一円も計上されていません!」
紬はノートの数字を指先で強く叩きながら、一文字も噛むことなく、理路整然とした経理の弾丸を室井へ向けて撃ち込み続けた。
「この不当な関税を無視した計画を強行すれば、我が社の物流は一発で崩壊し、数百億円の特別損失が発生します。完璧なシステムがこんな素人以下の見落としをするはずがありません」
そこで、紬は焦りのあまり次の言葉に詰まった。しかし、勇気を振り絞る。
「その……つまり、あちら側のペーパーカンパニーへ裏金を流すために、人間の手で最初からデータを『改ざん』していたからですよね、室井統括!」
「何を言うか! 一経理課員が、分を弁えずに不敬な妄想を口にするな……!」
いつも能面のように冷酷だった室井の顔が、生まれて初めて、図星を突かれた悔しさと驚愕で歪み、真っ赤に激昂した。
その室井の醜い動揺の隙を見逃さず、隣のデスクに座る瀬尾の白い指先が、怒涛のハッキングのキーボードの音を「カタカタカタカタ!」とオフィスに響かせ始める。
「木下さんの言う通りです、室井統括。あなたの個人名義の海外口座への、巨額の隠しキックバックの計算数式、たった今、アベニールの裏ログから100%完全にハッキングして抽出を完了しました」
瀬尾はディスプレイの光を黒縁メガネに青白く反射させながら、不敵な勝利の笑みを浮かべて顔を上げた。
画面のプログレスバーが、鮮やかな緑色で『100%・OVERRIDE(乗っ取り完了)』と大文字で点滅する。
「なっ……バカな……! 私の緊急消去コードが、作動しない……!?」
室井は狼狽し、スマートフォンの画面を何度も乱暴にタップしたが、画面には『アクセス権限が拒否されました』という冷たいエラーメッセージが虚しく明滅するだけだった。
全社員のIDの力によって、室井の最高権限は完全に上書きされ、彼の私利私欲にまみれた消去ボタンは、ただの無機質なプラスチックの塊へと成り下がったのだ。
「これで終わりです、室井統括。あなたの仕込んだ醜い犯罪のバグは、僕たち現場の人間が、今ここで完全にデバッグ(消去)しました」
瀬尾がエンターキーを深く、力強く押し込むと、室井の不正のすべてを記録した弾劾データが、役員会のメインサーバーへと一括で送信された。
それは、データという冷たい物差しで人間の誇りを汚し続けた独裁者に対する、現場の人間たちの、知恵とプライドをかけた完璧な逆転勝利の瞬間だった。
紬の喉の奥から、カサついた悲鳴のような声が漏れた。
五階のガラス張りの開発室の入り口に佇む室井恭一郎は、仕立てのいいチャコールグレーのスーツを冷酷にまとい、眼鏡の奥の切れ長の瞳でデスクの上の大量のIDメモをじっと見下ろしていた。
「瀬尾くん、それに木下さん。職務権限のない者が夜遅くにメインサーバーへアクセスし、他人のアカウントを不正に集中させている。これは我が社の就業規則に対する重大な利敵行為、すなわち明白なバグだ」
室井は高圧的な口調で、ゆっくりとデスクへと歩み寄り、スーツのポケットから自身の最新のスマートフォンを取り出した。
その親指が、画面の端にある真っ赤な「緊急シャットダウン」のアイコンへと静かにかけられる。
『しまっ……! ボタンを押されたら、すべての横領の証拠データが消されてしまう……!』
紬の背中に冷や汗がドッと噴き出した。
瀬尾のパソコン画面に映るプログレスバーは、まだ「八二%」を示したまま、乗っ取りの完了を待ってピコピコと点滅している。まだ足りない、室井の指を止めなければ私たちの負けだ。
「室井統括、お待ちください! 私は経理として、あなたがアベニールに入力した『海外仕入れルート完全自動化計画』の、致命的な原価計算のバグについて最終確認の報告をしていたところです!」
紬は一歩前に出ると、手元にある経理ノートを室井の眼鏡の前にこれ以上ないほど真っ直ぐに突きつけ、あえて大声でフロアに響き渡るように叫んだ。
「……何だと? 完璧なアベニールの計算に、バグなど存在しない。適当な感情論で私の時間を奪うな」
室井は不快そうに眉をひそめ、スマートフォンの上の親指を僅かに止めて、紬のノートを冷淡に一瞥した。
「感情論ではありません! あなたが推奨した海外ルートには、昨今の激しい為替の乱高下や、主要国による不当な関税障壁の引き上げといった、地政学的なリアルタイムのリスクへの引当金(予算)が、一円も計上されていません!」
紬はノートの数字を指先で強く叩きながら、一文字も噛むことなく、理路整然とした経理の弾丸を室井へ向けて撃ち込み続けた。
「この不当な関税を無視した計画を強行すれば、我が社の物流は一発で崩壊し、数百億円の特別損失が発生します。完璧なシステムがこんな素人以下の見落としをするはずがありません」
そこで、紬は焦りのあまり次の言葉に詰まった。しかし、勇気を振り絞る。
「その……つまり、あちら側のペーパーカンパニーへ裏金を流すために、人間の手で最初からデータを『改ざん』していたからですよね、室井統括!」
「何を言うか! 一経理課員が、分を弁えずに不敬な妄想を口にするな……!」
いつも能面のように冷酷だった室井の顔が、生まれて初めて、図星を突かれた悔しさと驚愕で歪み、真っ赤に激昂した。
その室井の醜い動揺の隙を見逃さず、隣のデスクに座る瀬尾の白い指先が、怒涛のハッキングのキーボードの音を「カタカタカタカタ!」とオフィスに響かせ始める。
「木下さんの言う通りです、室井統括。あなたの個人名義の海外口座への、巨額の隠しキックバックの計算数式、たった今、アベニールの裏ログから100%完全にハッキングして抽出を完了しました」
瀬尾はディスプレイの光を黒縁メガネに青白く反射させながら、不敵な勝利の笑みを浮かべて顔を上げた。
画面のプログレスバーが、鮮やかな緑色で『100%・OVERRIDE(乗っ取り完了)』と大文字で点滅する。
「なっ……バカな……! 私の緊急消去コードが、作動しない……!?」
室井は狼狽し、スマートフォンの画面を何度も乱暴にタップしたが、画面には『アクセス権限が拒否されました』という冷たいエラーメッセージが虚しく明滅するだけだった。
全社員のIDの力によって、室井の最高権限は完全に上書きされ、彼の私利私欲にまみれた消去ボタンは、ただの無機質なプラスチックの塊へと成り下がったのだ。
「これで終わりです、室井統括。あなたの仕込んだ醜い犯罪のバグは、僕たち現場の人間が、今ここで完全にデバッグ(消去)しました」
瀬尾がエンターキーを深く、力強く押し込むと、室井の不正のすべてを記録した弾劾データが、役員会のメインサーバーへと一括で送信された。
それは、データという冷たい物差しで人間の誇りを汚し続けた独裁者に対する、現場の人間たちの、知恵とプライドをかけた完璧な逆転勝利の瞬間だった。