君が思い出になる前に
第50話 話さなくても、わかること
日曜日の夜。
葵は、ソファに座って昨日買ったエッセイ集を読んでいた。
海へ行った翌日。
それだけなのに、少しだけ気持ちが軽い。
昨日の海の写真を見返す。
青い空。
波。
砂浜。
そして、自分の足元。
誰かと一緒に写った写真は、一枚もない。
それが、なぜか嬉しかった。
スマートフォンが震えた。
悠真からだった。
『今、電話できる?』
葵は少し考えてから返信した。
『うん』
すぐに着信が入る。
「もしもし」
『もしもし』
聞き慣れた声。
それだけで、胸の奥が少しだけ緩む。
「どうしたの?」
『特に用事はない』
「え?」
『なんとなく声、聞きたくなって』
葵は何も言えなかった。
以前なら、その言葉だけで嬉しくなっただろう。
でも今日は、少し違った。
嬉しい。
それは確かだった。
でも、それだけではない。
悠真もまた、自分と同じように、この時間を大切にしている。
そんな気がした。
「昨日、海に行ったんだよね」
『うん』
「どうだった?」
「思ったより、一人でも平気だった」
『そう』
「ちょっと寒かったけど」
『海ってそんなもんだろ』
「知らなかった」
『知らないこと、まだ多いな』
悠真が笑う。
葵も笑った。
「悠真は?」
『何が?』
「今日は何してたの?」
『午前中は父さんの買い物に付き合って、そのあと少し仕事してた』
「休日なのに?」
『少しだけ』
「ちゃんと休んでる?」
『葵に言われたくない」
「……それはそう」
二人で笑った。
昔なら、ここから仕事の話になっていた。
葵が会社の愚痴を話して。
悠真が聞いて。
そのうち二人とも眠くなって。
いつの間にか電話を切る。
そんな夜が多かった。
でも今日は、違った。
「お父さん、どう?」
『元気だよ』
「よかった」
『最近は、前よりよく話すようになった』
「そうなんだ」
『俺がこっちに戻ってきたからかな』
その声には、少しだけ照れが混じっていた。
「悠真」
『ん?』
「戻ってきてよかった?」
電話の向こうが静かになった。
葵は少し後悔した。
聞いてはいけなかったかもしれない。
けれど、悠真はすぐに答えなかった。
『……うん』
短い返事。
『よかったと思う』
「そっか」
『ただ』
「うん」
『東京にいた頃のことも、大事だったよ』
葵は目を伏せた。
「……うん」
それ以上、何も言えなかった。
しばらく沈黙が続いた。
でも、不思議と気まずくなかった。
以前なら、沈黙が怖かった。
何か話さなければ。
電話を切られてしまう前に。
そう思って、必死に話題を探していた。
でも今は違う。
話さなくても、電話は続いている。
それだけでよかった。
「ねえ、悠真」
『うん』
「私、最近ちょっと変わったと思わない?」
『思う』
「早い」
『分かるよ』
「どこが?」
『前より、ちゃんと自分の話をするようになった』
葵は黙った。
『前は、仕事の話ばっかりだったから』
「……そうだった?」
『うん』
「そんなに?」
『そんなに』
笑いながら言われて、葵も笑った。
「じゃあ、今は?」
『今は……』
悠真が少し考える。
『海に行った話とか、本を買った話とか』
「それだけ?」
『あと、今日は何食べたとか』
「そんなことまで?」
『そういうのが、葵の日常なんだろ』
葵は胸の奥が熱くなるのを感じた。
大きな言葉ではなかった。
愛しているとも。
ずっと一緒にいたいとも。
そんな言葉ではない。
でも。
自分の日常を知ろうとしてくれている。
それが、嬉しかった。
時計を見る。
もうすぐ十一時だった。
「そろそろ寝る?」
『うん』
「明日仕事だしね」
『そうだな』
以前なら、電話を切ることが寂しかった。
でも今日は違った。
「おやすみ、悠真」
『おやすみ、葵』
通話が切れる。
静かな部屋に戻る。
葵はスマートフォンをテーブルに置いた。
そして、ふと気づいた。
電話が終わっても。
自分は一人でも大丈夫だった。
寂しくないわけではない。
悠真に会いたいと思う気持ちもある。
声を聞くと、やっぱり嬉しい。
でも。
悠真がいない時間を、自分自身で過ごせるようになってきた。
それは、二人の関係が薄くなったということではない。
むしろ。
相手がいないと何もできない関係ではなくなっていくことが、本当の意味で相手を大切にすることなのかもしれない。
葵はそう思った。
窓の外を見る。
東京の夜は静かだった。
遠く離れた街にも、同じ夜がある。
悠真も今ごろ眠っているだろうか。
そんなことを考えながら、葵は灯りを消した。
明日も仕事がある。
でも、それだけではない。
自分の一日がある。
自分の時間がある。
そして。
その中に、悠真との時間もある。
今は、それでいいと思えた。
葵は、ソファに座って昨日買ったエッセイ集を読んでいた。
海へ行った翌日。
それだけなのに、少しだけ気持ちが軽い。
昨日の海の写真を見返す。
青い空。
波。
砂浜。
そして、自分の足元。
誰かと一緒に写った写真は、一枚もない。
それが、なぜか嬉しかった。
スマートフォンが震えた。
悠真からだった。
『今、電話できる?』
葵は少し考えてから返信した。
『うん』
すぐに着信が入る。
「もしもし」
『もしもし』
聞き慣れた声。
それだけで、胸の奥が少しだけ緩む。
「どうしたの?」
『特に用事はない』
「え?」
『なんとなく声、聞きたくなって』
葵は何も言えなかった。
以前なら、その言葉だけで嬉しくなっただろう。
でも今日は、少し違った。
嬉しい。
それは確かだった。
でも、それだけではない。
悠真もまた、自分と同じように、この時間を大切にしている。
そんな気がした。
「昨日、海に行ったんだよね」
『うん』
「どうだった?」
「思ったより、一人でも平気だった」
『そう』
「ちょっと寒かったけど」
『海ってそんなもんだろ』
「知らなかった」
『知らないこと、まだ多いな』
悠真が笑う。
葵も笑った。
「悠真は?」
『何が?』
「今日は何してたの?」
『午前中は父さんの買い物に付き合って、そのあと少し仕事してた』
「休日なのに?」
『少しだけ』
「ちゃんと休んでる?」
『葵に言われたくない」
「……それはそう」
二人で笑った。
昔なら、ここから仕事の話になっていた。
葵が会社の愚痴を話して。
悠真が聞いて。
そのうち二人とも眠くなって。
いつの間にか電話を切る。
そんな夜が多かった。
でも今日は、違った。
「お父さん、どう?」
『元気だよ』
「よかった」
『最近は、前よりよく話すようになった』
「そうなんだ」
『俺がこっちに戻ってきたからかな』
その声には、少しだけ照れが混じっていた。
「悠真」
『ん?』
「戻ってきてよかった?」
電話の向こうが静かになった。
葵は少し後悔した。
聞いてはいけなかったかもしれない。
けれど、悠真はすぐに答えなかった。
『……うん』
短い返事。
『よかったと思う』
「そっか」
『ただ』
「うん」
『東京にいた頃のことも、大事だったよ』
葵は目を伏せた。
「……うん」
それ以上、何も言えなかった。
しばらく沈黙が続いた。
でも、不思議と気まずくなかった。
以前なら、沈黙が怖かった。
何か話さなければ。
電話を切られてしまう前に。
そう思って、必死に話題を探していた。
でも今は違う。
話さなくても、電話は続いている。
それだけでよかった。
「ねえ、悠真」
『うん』
「私、最近ちょっと変わったと思わない?」
『思う』
「早い」
『分かるよ』
「どこが?」
『前より、ちゃんと自分の話をするようになった』
葵は黙った。
『前は、仕事の話ばっかりだったから』
「……そうだった?」
『うん』
「そんなに?」
『そんなに』
笑いながら言われて、葵も笑った。
「じゃあ、今は?」
『今は……』
悠真が少し考える。
『海に行った話とか、本を買った話とか』
「それだけ?」
『あと、今日は何食べたとか』
「そんなことまで?」
『そういうのが、葵の日常なんだろ』
葵は胸の奥が熱くなるのを感じた。
大きな言葉ではなかった。
愛しているとも。
ずっと一緒にいたいとも。
そんな言葉ではない。
でも。
自分の日常を知ろうとしてくれている。
それが、嬉しかった。
時計を見る。
もうすぐ十一時だった。
「そろそろ寝る?」
『うん』
「明日仕事だしね」
『そうだな』
以前なら、電話を切ることが寂しかった。
でも今日は違った。
「おやすみ、悠真」
『おやすみ、葵』
通話が切れる。
静かな部屋に戻る。
葵はスマートフォンをテーブルに置いた。
そして、ふと気づいた。
電話が終わっても。
自分は一人でも大丈夫だった。
寂しくないわけではない。
悠真に会いたいと思う気持ちもある。
声を聞くと、やっぱり嬉しい。
でも。
悠真がいない時間を、自分自身で過ごせるようになってきた。
それは、二人の関係が薄くなったということではない。
むしろ。
相手がいないと何もできない関係ではなくなっていくことが、本当の意味で相手を大切にすることなのかもしれない。
葵はそう思った。
窓の外を見る。
東京の夜は静かだった。
遠く離れた街にも、同じ夜がある。
悠真も今ごろ眠っているだろうか。
そんなことを考えながら、葵は灯りを消した。
明日も仕事がある。
でも、それだけではない。
自分の一日がある。
自分の時間がある。
そして。
その中に、悠真との時間もある。
今は、それでいいと思えた。