君が思い出になる前に

第52話 土曜日までの時間

 火曜日。

 葵は、朝から少しだけ機嫌がよかった。

 理由は、自分でも分かっている。

 土曜日に、悠真と海へ行く。

 それだけだった。

 仕事へ向かう電車の中で、葵は窓の外を眺めながら、週末のことを考えていた。

 どの海へ行こう。

 何時に待ち合わせよう。

 帰りにどこかで食事をしてもいい。

 そんなことを考えている自分が、少し可笑しかった。

 以前なら、もっと大きな未来を考えていた。

 結婚したら。

 一緒に暮らしたら。

 子どもができたら。

 そんな未来を当たり前のように想像していた。

 今は違う。

 土曜日の予定を考えている。

 それだけなのに、心が少し軽かった。

 会社に着くと、すぐに仕事が始まった。

 午前中は新しい案件の打ち合わせ。

 午後は企画書の修正。

 気づけば、時計は夕方を指していた。

「高橋さん、今日このあと残る?」

 上司から声をかけられる。

 葵はパソコンの画面を見る。

 まだ終わっていない仕事がある。

 以前なら、迷わず頷いていた。

「はい。やります」

 そう答えてから、葵は一度考えた。

 今日は火曜日。

 急ぎの仕事ではない。

「……すみません。今日は明日に回してもいいですか?」

 上司が少し驚いた顔をする。

「珍しいね」

「そうですか?」

「うん。高橋さん、いつも自分で抱え込むから」

 葵は苦笑した。

「最近、少しだけ考え方が変わったんです」

「へえ」

 それ以上、説明はしなかった。

 定時を少し過ぎたところで、葵は会社を出た。

 駅へ向かう途中、スマートフォンを見る。

 悠真からメッセージが届いていた。

『土曜日、朝から行く?』

 葵はすぐに返信する。

『うん。せっかくだから朝から行きたい』

『じゃあ、十時くらい?』

『いいよ』

 そこで一度、会話が途切れる。

 以前なら、ここから別の話題を探していた。

 今日は、それをしなかった。

 メッセージが途切れたことを、寂しいとは思わなかった。

 必要なことを話した。

 それでいい。

 そう思える自分が、少し不思議だった。

 家に帰る。

 夕食を作りながら、葵は冷蔵庫を開けた。

 以前なら、悠真が好きなものを自然と選んでいた。

 ビール。

 サラダ。

 肉料理。

 二人で食べることを前提に、買い物をしていた。

 今は一人分。

 けれど、そのことにも少しずつ慣れてきた。

 夕食を食べ終えたあと、葵はソファに座った。

 テレビをつける。

 けれど、あまり内容が頭に入らない。

 ふと、悠真との昔の会話を思い出した。

『海に行きたいね』

『行こうよ』

『いつ?』

『いつか』

 あの頃は、本当にいつでも行けると思っていた。

 だから、急ぐ必要なんてないと思っていた。

 けれど、「いつか」は自分から迎えに行かなければ、永遠に来ないこともある。

 葵はスマートフォンを手に取った。

 写真フォルダを開く。

 四年前の写真。

 悠真と初めて旅行したときのもの。

 二人で笑っている。

 葵はしばらくその写真を見つめた。

 以前なら、胸が締めつけられていたかもしれない。

 けれど今は、

「楽しそうだな」

と思った。

 それだけだった。

 その日の夜。

 悠真のほうでも、葵との土曜日を考えていた。

 実家の夕食を終え、父親の薬を確認する。

 母親と少し話をして、自分の部屋へ戻る。

 ベッドに腰を下ろし、スマートフォンを見る。

 葵とのメッセージ。

 土曜日、十時。

 海。

 その文字を見て、悠真は小さく息を吐いた。

 海へ行くのは、久しぶりだった。

 そして、葵と会うのも久しぶりになる。

 以前なら、会えることが嬉しくて仕方なかった。

 今も嬉しい。

 ただ、それだけではない。

 会ったら、何を話すのだろう。

 これから二人はどうなるのだろう。

 そんな考えが、頭の片隅に浮かぶ。

 けれど、悠真は答えを急がなかった。

 土曜日になれば分かる。

 今は、それでいい。

 窓の外を見る。

 こちらの街にも、夜の空が広がっている。

 遠く離れた場所で、葵も同じ空を見ているのだろうか。

 そんなことを考えてから、悠真は少し笑った。

 昔なら、すぐに電話をかけていた。

 今は、かけない。

 けれど、それは気持ちがなくなったからではない。

 相手の時間を尊重できるようになっただけだった。

 火曜日が終わる。

 水曜日。

 木曜日。

 金曜日。

 そして土曜日。

 二人が海へ行く日まで、あと四日。

 それは長いようで、きっと短い。

 葵はまだ知らない。

 その一日が、二人にとってどんな意味を持つことになるのか。

 ただ今は、

「土曜日になったら、海へ行こう」

 その約束だけを胸に、眠りについた。
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