君が思い出になる前に

第53話 楽しみなのは、海だけじゃない

 水曜日の朝。

 目を覚ました葵は、枕元のスマートフォンを手に取った。

 まだ六時半。

 いつもより少し早い。

 画面には、新しい通知はなかった。

 けれど、葵はなぜか笑った。

 土曜日まで、あと三日。

 海へ行く日が近づいている。

 そう思っただけで、少しだけ気持ちが軽くなった。

 キッチンへ行き、コーヒーを淹れる。

 窓の外は晴れていた。

「土曜日も晴れるかな」

 独り言を呟いてから、葵はふと考える。

 もし雨だったら。

 昔の自分なら、きっと残念がっただろう。

 せっかくの予定なのに。

 せっかく悠真と会えるのに。

 けれど今は、それほど気にならなかった。

 雨なら雨でいい。

 また別の日に行けばいい。

 そんなふうに思えるようになった自分が、少し嬉しかった。

 会社へ向かう。

 午前中は打ち合わせが続いた。

 新しい広告企画について意見を求められ、葵は資料をめくりながら話す。

「この方向なら、もう少しターゲットを絞ったほうがいいと思います」

「確かに。高橋さん、修正案を作れる?」

「はい。今日中にまとめます」

 仕事は嫌いではない。

 むしろ好きだった。

 以前は、仕事が好きだからこそ、どこまでも時間を使っていた。

 でも今は、仕事を好きでいることと、仕事だけで生きることは違うと分かってきた。

 昼休み。

 同僚と食事をしていると、ふいに週末の話になった。

「高橋さん、今週末って予定ある?」

「うん。ちょっと出かける予定」

「珍しい。どこ?」

 葵は一瞬だけ迷った。

「海」

「え、いいな」

「久しぶりに行くんだ」

「彼氏と?」

 その問いに、葵の箸が一瞬止まった。

「……うん」

 そう答える。

 同僚は何も知らない。

 だから、それ以上は聞かなかった。

 けれど葵自身は、その言葉を口にしたことで、少しだけ胸の奥がざわついた。

 彼氏。

 確かに、今も悠真は恋人だ。

 けれど、二人の関係がこれまでと同じではないことも分かっている。

 だからこそ、土曜日が少し怖い。

 楽しいだけでは終わらない気がする。

 そんな予感があった。

 午後五時。

 仕事が一段落したところで、葵は窓の外を見た。

 夕暮れの空が、薄いオレンジ色に染まっている。

 海へ行ったら、こんな空も見られるだろうか。

 そう思ってから、葵は苦笑した。

「……私、楽しみにしてるんだ」

 何を?

 悠真に会うこと。

 海を見ること。

 それとも、二人で過ごす時間そのもの。

 自分でも分からなかった。

 帰宅すると、葵はクローゼットを開けた。

 土曜日に何を着ていこう。

 そう考えている自分に、また笑ってしまう。

 以前の自分なら、悠真が好きそうな服を選んでいた。

 今日は違った。

 自分が着たい服を選ぶ。

 白いシャツ。

 淡い色のスカート。

 動きやすい靴。

 鏡の前で合わせてみる。

「これでいいかな」

 誰に聞くでもなく呟いた。

 スマートフォンが震えた。

 悠真からだった。

『土曜日、十時で大丈夫?』

『うん。大丈夫』

 少し考えてから、葵は続けた。

『楽しみにしてる』

 送信した。

 数秒後。

『俺も』

 短い返信。

 葵はその画面をしばらく見つめた。

 以前なら、その二文字だけでは足りなかったかもしれない。

 もっと話したい。

 もっと声を聞きたい。

 もっと自分を見てほしい。

 そんな気持ちがあった。

 けれど今は違う。

 「俺も」という言葉だけで、十分だった。

 スマートフォンをテーブルに置く。

 そして葵は、ふと窓の外を見る。

 夜の街に、いくつもの明かりが灯っている。

 その向こうに海がある。

 土曜日になれば、そこへ行く。

 悠真と一緒に。

 でも、それだけではない。

 葵自身が、海を見たいと思っている。

 ずっと行きたかった場所だから。

 ずっと先延ばしにしていた場所だから。

 だから今度は、自分の足でそこへ行く。

 悠真と一緒に行くことが嬉しい。

 でも、海へ行けること自体も嬉しい。

 その二つを同時に思えることが、葵には新しかった。

 恋人がいるから幸せなのではない。

 一人でも幸せになれるからこそ、誰かと過ごす時間も大切にできる。

 そんなことを、少しずつ理解し始めていた。

 土曜日まで、あと三日。

 葵はカレンダーを眺める。

 そこには、小さく予定が書かれている。

 ──海。

 たった二文字。

 けれど今の葵にとって、それは過去の「いつか」ではなかった。

 もう、ちゃんと決まった未来だった。
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