君が思い出になる前に

第55話 約束の前日

 金曜日の朝。

 目覚ましが鳴る少し前に、葵は目を覚ました。

 カーテンの隙間から差し込む光を見て、ぼんやりと思う。

 明日は、土曜日。

 そして──海に行く日だ。

 以前なら、休日の予定を楽しみにする余裕なんてなかった。

 仕事のことを考えて、先の予定まで埋めて。
 その合間に悠真との時間を入れていた。

 でも今は違う。

 明日のために、今日はちゃんと仕事を終わらせる。

 それだけのことなのに、少しだけ嬉しかった。

 

「高橋さん、昨日お願いした資料なんですけど……」

 午前中、後輩から声をかけられた。

「あ、ごめん。今確認するね」

 パソコンの画面を開きながら、葵は資料を確認する。

 以前なら、その場で全部自分が修正していた。

 でも今日は違った。

「ここ、数字だけ確認してもらえる? レイアウトはそのままで大丈夫だから」

「はい」

「それが終わったら、私も最後に見るね」

 仕事を誰かに任せる。

 以前の自分なら、少し不安だった。

 自分でやったほうが早い。
 自分で確認したほうが確実。

 そう思っていたから。

 けれど、今は少しずつ分かってきた。

 全部を自分で抱えることと、責任を持って仕事をすることは、同じではない。

 時計を見る。

 午後四時。

 あと少し。

 明日の予定を思い浮かべると、不思議と仕事にも集中できた。

 

 夕方、スマートフォンが震えた。

 悠真からだった。

『明日、十時で大丈夫?』

 短いメッセージ。

 それだけなのに、葵は少し笑った。

『うん。大丈夫』

 送信して、少し考える。

 そして、もう一度文字を打った。

『楽しみにしてる』

 送ってから、なんとなく恥ずかしくなった。

 以前だったら、こんなことは言わなかった。

 楽しみにしていると伝えることさえ、どこか照れくさかった。

 悠真から、すぐに返事が来た。

『俺も』

 たった三文字。

 でも、その三文字が妙に嬉しかった。

 

 仕事を終えたのは、午後六時半だった。

 まだ残っている仕事はあった。

 けれど、今日やらなくてもいいものだった。

 葵はパソコンを閉じる。

「お先に失礼します」

 そう言って会社を出た。

 外は少し涼しくなっていた。

 駅へ向かいながら、葵は明日のことを考える。

 海に行く。

 悠真と一緒に。

 ただ、それだけ。

 昔なら、その先まで考えていた。

 海へ行って。
 食事をして。
 帰って。
 またいつもの日常に戻る。

 そして、その先にはきっと──。

 結婚とか。
 暮らす場所とか。
 仕事とか。

 そんな未来が続いていると思っていた。

 今は、違う。

 明日の先に何があるのかは、分からない。

 それでも。

 明日は明日の時間を、一緒に過ごしたいと思った。

 それでいい。

 

 家に帰ると、葵はクローゼットを開けた。

 昨日の夜に決めた服を取り出す。

 鏡の前で合わせてみる。

「……うん」

 誰かに見せるためではない。

 もちろん、悠真にも会う。

 でも、それだけじゃない。

 自分が着たいと思った服。

 自分が心地よいと思える服。

 そんなふうに選べるようになったことが、少しだけ嬉しかった。

 バッグの中身を確認する。

 財布。
 スマートフォン。
 ハンカチ。
 日焼け止め。

 そして、昔買った小さなキーホルダー。

 海に行ったとき、偶然見つけて買ったものだった。

 ずっと使っていたけれど、最近はバッグを変えたせいで、引き出しの中にしまっていた。

 葵はそれを手に取った。

 しばらく眺める。

 四年前の自分。

 あの頃は、今よりずっと単純だった。

 好きな人と一緒なら、それだけで未来は続いていくと思っていた。

 でも。

 あの頃の自分が間違っていたとは思わない。

 あのときは、本当に幸せだった。

 それは今でも変わらない。

 だからこそ──。

 明日も、今の自分で行きたい。

 葵はキーホルダーをバッグにつけた。

 

 夜。

 ベッドに入ってからも、なかなか眠れなかった。

 明日は十時。

 そう思うだけで、少し落ち着かなくなる。

 遠足の前の日みたい。

 そんなことを考えて、葵は小さく笑った。

 スマートフォンを見る。

 悠真から新しいメッセージはない。

 でも、不安ではなかった。

 昔なら、返事が来ないだけでいろいろ考えていた。

 忙しいのかな。
 何かあったのかな。
 私、何か変なこと言ったかな。

 今は違う。

 悠真には悠真の時間がある。

 自分には自分の時間がある。

 それでも、明日になれば会える。

 それで十分だった。

 葵はスマートフォンを伏せた。

 目を閉じる。

 明日。

 海。

 そして、悠真。

 その三つを思い浮かべながら、ゆっくり息を吐いた。

 明日、何を話すのだろう。

 どんな時間になるのだろう。

 未来のことを話すのかもしれない。

 話さないのかもしれない。

 どちらでもいい。

 ただ、今の二人で。

 今の自分たちの言葉で。

 明日を過ごせたら、それでいい。

 窓の外は、静かな夜だった。

 土曜日まで、あと一日。

 葵はようやく目を閉じた。
< 55 / 70 >

この作品をシェア

pagetop