君が思い出になる前に

第56話 海へ

 土曜日。

 葵は、約束の時間より少し早く駅に着いた。

 時計を見る。

 午前九時四十分。

 待ち合わせは十時。

 早すぎたかな。

 そう思いながらも、なぜか帰る気にはならなかった。

 駅前のベンチに座り、行き交う人を眺める。

 休日だからか、平日よりも人の表情が柔らかく見える。

 子どもを連れた家族。

 友人同士で笑いながら歩く若者。

 旅行用の大きなバッグを持った人。

 そんな光景を眺めていると、後ろから声がした。

「葵」

 振り返る。

 悠真が立っていた。

「おはよう」

「おはよう」

 いつもの挨拶。

 なのに、少しだけ緊張する。

「早かったね」

「悠真も」

「俺は今来たところ」

「絶対嘘」

 葵が笑う。

 悠真も笑った。

 その瞬間。

 四年前と同じような感覚が、ほんの少しだけ戻ってきた。

 くだらないことで笑う。

 それだけで楽しい。

 でも、昔とは違う。

 二人とも、それを分かっている。

「行こうか」

「うん」

 二人は並んで歩き出した。

 電車に乗る。

 窓際の席に葵が座り、悠真が隣に座る。

 しばらく、二人とも外を見ていた。

 昔なら、電車に乗った瞬間から話していた。

 今日は違う。

 沈黙があっても、気まずくない。

 葵は窓の外を眺めながら、ふと思った。

 沈黙が怖くなくなった。

 それだけでも、以前とは違うのかもしれない。

「そういえば」

 悠真が口を開いた。

「何?」

「葵、海に行くの楽しみにしてた?」

「……うん」

「昨日の夜も?」

「なんで分かるの?」

「なんとなく」

 葵は笑う。

「悠真だって楽しみにしてたんじゃない?」

「まあね」

「じゃあ、お互い様」

「そうだな」

 二人で笑った。

 やがて電車が目的地へ近づいていく。

 窓の向こうに、青い海が見えた。

「あ」

 葵が思わず声を漏らす。

 悠真も窓の外を見る。

「見えた」

 その瞬間、葵の胸が少しだけ高鳴った。

 ずっと行きたかった場所。

 何度も「いつか」と言っていた場所。

 それが今、目の前にある。

 駅を降りる。

 潮の匂いがした。

「海の匂いする」

 葵が言う。

「するな」

 二人は海へ向かって歩いた。

 しばらくすると、視界が開ける。

 青い海。

 白い波。

 遠くまで続く水平線。

「……きれい」

 葵は立ち止まった。

 悠真も隣で海を眺めている。

「来てよかったね」

「うん」

 それだけだった。

 けれど、葵には十分だった。

 砂浜を歩く。

 波が足元まで近づいて、すぐに引いていく。

「冷たい」

「夏じゃないからな」

「分かってる」

 葵が笑う。

 悠真も笑う。

 しばらく歩いてから、二人は海を眺められるベンチに座った。

「昔、ここに来たかったよね」

 葵が言った。

「うん」

「結局、来なかったけど」

「そうだな」

 悠真は海を見る。

「行こうって言ってたのにな」

「いつか行こう、って」

「いつかって言ってるうちに、時間だけ過ぎた」

 その言葉に、葵は黙った。

 胸の奥に、少しだけ痛みが走る。

「……ごめん」

 思わず口から出た。

 悠真が葵を見る。

「何が?」

「いろいろ」

 葵は海を見たまま続けた。

「仕事を優先して。いつでも会えるって思って。悠真との時間を後回しにしてた」

 悠真はすぐには答えなかった。

 波の音だけが聞こえる。

「俺もだよ」

「悠真も?」

「俺も、葵が忙しいなら仕方ないって思ってた」

 少し間を置いて、悠真は言った。

「寂しいって言えばよかった」

 葵は隣を見る。

「私も、聞けばよかった」

「うん」

 二人はそれ以上、謝らなかった。

 どちらが悪かったのかを決める必要はなかった。

 四年間の中には、言えなかったことがたくさんある。

 でも、それだけではない。

 笑った時間も。

 支えてもらった時間も。

 一緒に未来を話した時間も。

 全部、本当にあった。

「ねえ、悠真」

「ん?」

「来られてよかったね」

「うん」

「もっと早く来ればよかった」

 悠真は少し笑った。

「でも、今日来られた」

 その言葉に、葵も笑った。

「そうだね」

 海を眺める。

 隣には悠真がいる。

 それだけで、少し安心する。

 けれど葵はもう、「この人がいなければ何もできない」とは思わなかった。

 海へ行きたかった。

 だから来た。

 悠真と一緒に。

 でも、自分自身が見たかった景色でもある。

 そのことが、嬉しかった。

「お腹空いた」

 葵が言う。

「早いな」

「朝、あんまり食べてないから」

「じゃあ、何か食べに行く?」

「うん」

 二人は立ち上がった。

 砂浜を離れ、街へ向かって歩き出す。

 その後ろには、二人分の足跡が残っていた。

 波が来れば、きっと消える。

 けれど、それでいい。

 足跡が消えても、今日という一日まで消えるわけではない。

 葵は振り返り、もう一度海を見る。

 そして、小さく笑った。

 今日はまだ、終わらない。

 二人の時間は、もう少しだけ続いていた。
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