君が思い出になる前に
第57話 同じ景色を見ながら
海を離れた二人は、駅へ向かう途中で小さな食堂を見つけた。
「ここ、入ってみる?」
悠真が店の前で立ち止まる。
古い木の看板に、手書きの文字で定食の名前が並んでいた。
「いいね」
二人で店に入る。
窓際の席に案内され、葵はメニューを開いた。
「何にする?」
「悩むな……」
「私、これにする」
葵が指差したのは、焼き魚の定食だった。
「じゃあ、俺も」
「真似した?」
「たまたま」
「ほんと?」
「ほんと」
顔を見合わせて笑う。
そんなやり取りが、妙に懐かしかった。
料理が運ばれてくるまで、二人は窓の外を眺めていた。
通りの向こうには、さっきまでいた海が見える。
「今日、天気よくてよかったね」
「うん」
「昨日まで、雨だったらどうしようって思ってた」
「俺も」
「悠真も?」
「そりゃ思うよ」
葵は笑った。
昔だったら、こんなふうに確認することもなかったかもしれない。
相手も同じことを思っている。
そう決めつけていたから。
でも今は違う。
聞いてみなければ分からない。
聞けば、案外同じことを考えていることもある。
逆に、違うことを考えていることもある。
その違いを知ることが、怖くなくなっていた。
食事を終えると、二人は再び海へ戻った。
午後の海は、午前中よりも人が多かった。
子どもたちが砂浜を走り、遠くでは犬を連れた人が歩いている。
「四年前に来てたら、もっと違ったのかな」
葵が言った。
「どうだろう」
「もっと楽しめたかな」
「たぶん」
悠真が少し考える。
「でも、今日だから楽しめてる気もする」
葵はその言葉を聞いて、海を見る。
今日だから。
その意味が、少し分かる気がした。
四年前の二人には、四年前の時間があった。
今の二人には、今の時間がある。
どちらが大切なのかを比べる必要はない。
過去を否定しなくても、今を選ぶことはできる。
「ねえ」
「ん?」
「私、最近ちょっと変わったと思う?」
悠真が葵を見る。
「思う」
「やっぱり?」
「前より、自分のこと話すようになった」
「そうかな」
「うん」
悠真は笑った。
「昔の葵は、俺が聞いても『大丈夫』って言ってたから」
「……言ってたね」
「大丈夫じゃないときも?」
「たぶん」
「やっぱり」
二人で笑う。
けれど、そのあと悠真は少しだけ真面目な顔になった。
「俺も、変わったと思う」
「うん」
「前より、言うようになった」
「何を?」
「寂しいとか。会いたいとか」
葵は黙って悠真を見る。
その言葉を、以前の自分ならどう受け止めていただろう。
仕事を優先していた頃なら。
申し訳ないと思ったかもしれない。
急いで埋め合わせようとしたかもしれない。
でも今は、ただその言葉を受け止めたいと思った。
「……言ってくれて、ありがとう」
悠真は少し驚いたような顔をした。
「それだけ?」
「うん」
「怒らない?」
「なんで怒るの?」
「もっと早く言えばよかったって思ってるから」
葵は首を横に振った。
「今、言ってくれたから」
悠真は何も言わなかった。
ただ、海を見た。
葵も同じ方向を見る。
二人の間に、沈黙が落ちる。
けれど、嫌な沈黙ではなかった。
むしろ、言葉がなくても隣にいられることが心地よかった。
夕方が近づいてきた。
太陽の光が少しずつ柔らかくなる。
「そろそろ帰ろうか」
悠真が言った。
「うん」
二人は砂浜を歩き、駅へ向かった。
途中で葵が振り返る。
海はまだそこにある。
今日見た景色を、きっと忘れない。
でも、写真を撮ろうとは思わなかった。
残しておかなくてもいい。
覚えていたいと思ったものは、きっと心に残る。
駅に着く。
電車を待つ間、悠真が言った。
「今日は、楽しかった」
「私も」
「また来ようか」
葵は一瞬、答えに迷った。
以前なら、すぐに「うん」と答えていた。
次の約束をすることが、当たり前だったから。
でも今は。
「……うん」
少し考えてから、笑った。
「また来たい」
それだけを言った。
未来を約束する必要はない。
今日が楽しかったこと。
また来たいと思ったこと。
それだけで十分だった。
電車がホームに入ってくる。
二人は並んで乗り込んだ。
窓の外に、海が少しずつ遠ざかっていく。
葵は最後まで海を見ていた。
そして思った。
今日のことは、きっと思い出になる。
でも──。
思い出になるのは、今日という一日だけではない。
今までの四年間も。
これからの時間も。
その全部が、自分の人生の一部になっていく。
そう思うと、不思議と寂しくなかった。
「ここ、入ってみる?」
悠真が店の前で立ち止まる。
古い木の看板に、手書きの文字で定食の名前が並んでいた。
「いいね」
二人で店に入る。
窓際の席に案内され、葵はメニューを開いた。
「何にする?」
「悩むな……」
「私、これにする」
葵が指差したのは、焼き魚の定食だった。
「じゃあ、俺も」
「真似した?」
「たまたま」
「ほんと?」
「ほんと」
顔を見合わせて笑う。
そんなやり取りが、妙に懐かしかった。
料理が運ばれてくるまで、二人は窓の外を眺めていた。
通りの向こうには、さっきまでいた海が見える。
「今日、天気よくてよかったね」
「うん」
「昨日まで、雨だったらどうしようって思ってた」
「俺も」
「悠真も?」
「そりゃ思うよ」
葵は笑った。
昔だったら、こんなふうに確認することもなかったかもしれない。
相手も同じことを思っている。
そう決めつけていたから。
でも今は違う。
聞いてみなければ分からない。
聞けば、案外同じことを考えていることもある。
逆に、違うことを考えていることもある。
その違いを知ることが、怖くなくなっていた。
食事を終えると、二人は再び海へ戻った。
午後の海は、午前中よりも人が多かった。
子どもたちが砂浜を走り、遠くでは犬を連れた人が歩いている。
「四年前に来てたら、もっと違ったのかな」
葵が言った。
「どうだろう」
「もっと楽しめたかな」
「たぶん」
悠真が少し考える。
「でも、今日だから楽しめてる気もする」
葵はその言葉を聞いて、海を見る。
今日だから。
その意味が、少し分かる気がした。
四年前の二人には、四年前の時間があった。
今の二人には、今の時間がある。
どちらが大切なのかを比べる必要はない。
過去を否定しなくても、今を選ぶことはできる。
「ねえ」
「ん?」
「私、最近ちょっと変わったと思う?」
悠真が葵を見る。
「思う」
「やっぱり?」
「前より、自分のこと話すようになった」
「そうかな」
「うん」
悠真は笑った。
「昔の葵は、俺が聞いても『大丈夫』って言ってたから」
「……言ってたね」
「大丈夫じゃないときも?」
「たぶん」
「やっぱり」
二人で笑う。
けれど、そのあと悠真は少しだけ真面目な顔になった。
「俺も、変わったと思う」
「うん」
「前より、言うようになった」
「何を?」
「寂しいとか。会いたいとか」
葵は黙って悠真を見る。
その言葉を、以前の自分ならどう受け止めていただろう。
仕事を優先していた頃なら。
申し訳ないと思ったかもしれない。
急いで埋め合わせようとしたかもしれない。
でも今は、ただその言葉を受け止めたいと思った。
「……言ってくれて、ありがとう」
悠真は少し驚いたような顔をした。
「それだけ?」
「うん」
「怒らない?」
「なんで怒るの?」
「もっと早く言えばよかったって思ってるから」
葵は首を横に振った。
「今、言ってくれたから」
悠真は何も言わなかった。
ただ、海を見た。
葵も同じ方向を見る。
二人の間に、沈黙が落ちる。
けれど、嫌な沈黙ではなかった。
むしろ、言葉がなくても隣にいられることが心地よかった。
夕方が近づいてきた。
太陽の光が少しずつ柔らかくなる。
「そろそろ帰ろうか」
悠真が言った。
「うん」
二人は砂浜を歩き、駅へ向かった。
途中で葵が振り返る。
海はまだそこにある。
今日見た景色を、きっと忘れない。
でも、写真を撮ろうとは思わなかった。
残しておかなくてもいい。
覚えていたいと思ったものは、きっと心に残る。
駅に着く。
電車を待つ間、悠真が言った。
「今日は、楽しかった」
「私も」
「また来ようか」
葵は一瞬、答えに迷った。
以前なら、すぐに「うん」と答えていた。
次の約束をすることが、当たり前だったから。
でも今は。
「……うん」
少し考えてから、笑った。
「また来たい」
それだけを言った。
未来を約束する必要はない。
今日が楽しかったこと。
また来たいと思ったこと。
それだけで十分だった。
電車がホームに入ってくる。
二人は並んで乗り込んだ。
窓の外に、海が少しずつ遠ざかっていく。
葵は最後まで海を見ていた。
そして思った。
今日のことは、きっと思い出になる。
でも──。
思い出になるのは、今日という一日だけではない。
今までの四年間も。
これからの時間も。
その全部が、自分の人生の一部になっていく。
そう思うと、不思議と寂しくなかった。