君が思い出になる前に

第58話 昨日の続き

 日曜日の朝。

 葵はいつもより遅く目を覚ました。

 カーテンの隙間から差し込む光を眺めながら、昨日のことを思い出す。

 海。

 砂浜。

 波の音。

 悠真と並んで歩いた時間。

 そして、帰りの電車。

 目を閉じると、まだ昨日の景色が浮かんでくる。

「楽しかったな……」

 葵は小さく呟いた。

 スマートフォンを見る。

 悠真からメッセージが届いていた。

『昨日はありがとう』

 葵は少し笑う。

『こちらこそ。楽しかった』

 送信して、しばらく画面を眺める。

 昨日の帰り道。

 悠真は何度も笑っていた。

 昔と同じように。

 でも、どこか違った。

 その違いが何なのか、葵にはまだ分からない。

 

 午後。

 葵は一人で買い物に出かけた。

 昨日の海で撮った写真を整理しようと思ったけれど、そもそも写真をほとんど撮っていないことに気づく。

 昔なら、何枚も撮っていた。

 二人の写真。

 海の写真。

 食事の写真。

 思い出を残すために。

 でも昨日は、スマートフォンをほとんど触らなかった。

 悠真と話していた。

 海を見ていた。

 笑っていた。

 それだけだった。

 それで十分だった。

 街を歩いていると、ショーウインドウに夏物の服が並んでいる。

 葵は足を止めた。

 淡い色のワンピースが目に入る。

「かわいい」

 思わず呟く。

 以前なら、悠真が好きそうかどうかを考えただろう。

 でも今日は違う。

 自分が好きかどうか。

 それだけを考えて店に入った。

 

 一方、悠真も自宅で昨日のことを思い返していた。

 海から帰ってきてから、何度も同じ場面を思い出している。

 葵が笑っていた。

 以前より、自然に笑うようになった気がする。

 仕事の話をしていたときも。

 海を見ていたときも。

 食事をしていたときも。

 何かに追われるようなところがなくなっていた。

 悠真は、そんな葵を見て安心した。

 そして同時に、胸の奥が少し痛んだ。

 自分がいなくても、葵はちゃんと自分の時間を生きられる。

 それは嬉しいことのはずだった。

 なのに。

 なぜか、寂しかった。

 悠真はスマートフォンを手に取る。

 葵に電話しようかと思った。

 けれど、やめた。

 昨日、一日中一緒にいた。

 今日は葵にも葵の時間がある。

 そう思って、スマートフォンを置いた。

 

 夜。

 葵のスマートフォンが震えた。

 悠真からだった。

『今日、何してた?』

 葵は返信する。

『買い物してた。昨日見た服に似たのがあって』

『昨日の服?』

『違うよ。昨日は見てない』

『そうか』

 そこで会話が途切れる。

 葵は少し考えた。

 以前なら、自分から話題を探した。

 でも今日は、そのままスマートフォンを置いた。

 少しして、また震える。

『葵』

『ん?』

『昨日、楽しかった?』

 その質問に、葵は少し驚いた。

 昨日、何度も楽しかったと言った。

 それなのに。

 わざわざ聞くということは、悠真の中にも何か残っているのだろうか。

『楽しかったよ』

 葵は返信した。

『すごく』

 しばらくして、

『俺も』

 と返ってくる。

 それだけ。

 それなのに、葵には分かった。

 悠真も、昨日のことを何度も思い出している。

 同じ景色を見た。

 同じ海を見た。

 同じ時間を過ごした。

 それでも、二人が同じ未来を見ているとは限らない。

 そのことに気づいた瞬間、葵の胸に小さな不安が生まれた。

 けれど、葵はその不安から逃げなかった。

 まだ答えを出す必要はない。

 昨日が楽しかった。

 また会いたいと思った。

 それだけは確かなことだから。

 

 夜が深くなった頃。

 葵はベッドに入り、天井を見つめていた。

 昨日の海を思い出す。

 そして、四年前の自分を思い出す。

 あの頃は、未来がずっと続くと思っていた。

 今は、未来が分からない。

 けれど。

 分からないからこそ、自分で選んでいくしかないのだと思う。

 悠真がどうするのか。

 自分がどうするのか。

 二人がこれからどんな道を歩くのか。

 まだ、何も決まっていない。

 それでも。

 昨日、海へ行ったことは間違いではなかった。

 葵は目を閉じる。

 楽しかったという気持ちを、そのまま胸にしまう。

 いつか、この日も思い出になるのだろう。

 そのとき、自分はどんな気持ちで思い出すのだろう。

 まだ分からない。

 ただ今は──。

 昨日の続きのような静かな夜の中で、葵は穏やかに眠りについた。
< 58 / 70 >

この作品をシェア

pagetop