君が思い出になる前に
第59話 楽しかった、それだけで
月曜日の朝。
葵は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。
週末が終わった。
いつもの一週間が始まる。
そう思いながらカーテンを開ける。
空は薄い雲に覆われていた。
土曜日の海とは違う空だった。
けれど、葵の中にはまだ、あの日の青さが残っていた。
洗面所へ向かいながら、ふと思う。
昨日まで、海にいた。
悠真と一緒に。
そして今日は、いつもの仕事。
それが不思議だった。
昔なら、週末と平日の境目がもっと曖昧だった。
休みの日でも仕事のことを考えていた。
仕事の日でも、悠真との予定を気にしていた。
どちらかにいるのに、もう一方のことを考えている。
そんな日が多かった。
今は違う。
今日は仕事の日。
だから、仕事をする。
それでいいと思えた。
会社に着く。
デスクに座ると、週末の間に届いたメールを確認する。
急ぎのものを処理し、必要なものだけをメモする。
以前なら、すべてをその日のうちに終わらせようとしていた。
けれど今は違う。
優先順位を決める。
人に頼る。
明日に回す。
そうやって、一つずつ仕事を片づけていく。
「高橋さん」
後輩に呼ばれて振り返る。
「この企画、ちょっと相談してもいいですか?」
「もちろん」
葵は画面を見ながら話を聞いた。
以前なら、すぐに答えを出していた。
今は、相手が何を考えているのかを聞くようになった。
「どうしたいと思ってる?」
「私は、こっちの案がいいと思うんですけど……」
「じゃあ、一回その方向で考えてみよう」
後輩が笑う。
「ありがとうございます」
その顔を見ながら、葵も笑った。
自分が全部やらなくても、仕事は回る。
そのことを、少しずつ実感していた。
昼休み。
葵はスマートフォンを確認した。
悠真からメッセージが届いていた。
『今日も仕事?』
『うん』
『頑張って』
葵は少し笑って、
『悠真もね』
と返した。
それだけ。
以前なら、ここから会話を続けようとしただろう。
けれど今は、無理に言葉を探さない。
連絡が少ないから、気持ちが薄いわけではない。
それが少し分かってきた。
午後。
会議が長引いた。
予定していた仕事が終わらず、時計を見ると六時半を過ぎている。
葵は一度、パソコンの画面を閉じた。
まだ終わっていない。
でも、今日やらなければならない仕事ではない。
明日の朝に回しても問題ない。
以前なら、そのまま残業していただろう。
けれど今日は、帰ることにした。
「お先に失礼します」
会社を出る。
外はすっかり暗くなっていた。
駅へ向かう途中、ふと土曜日の海を思い出す。
波の音。
潮の匂い。
隣で笑っていた悠真。
葵は歩きながら、小さく笑った。
楽しかった。
本当に、それだけだった。
でも、その「それだけ」が大切なのだと思う。
未来を約束しなくても。
何か特別なことが起きなくても。
ただ一緒にいて、楽しかった。
それだけで、その時間には意味がある。
一方、悠真は実家の夕食を終えたあと、自分の部屋でスマートフォンを眺めていた。
葵とのメッセージ。
土曜日の海。
写真はほとんど撮っていない。
けれど、記憶には残っている。
葵が海を見ていた横顔。
砂浜を歩く姿。
笑った顔。
そして──。
「楽しかったな」
悠真も小さく呟いた。
けれど、そのあとに別の思いが浮かんだ。
このままでいいのだろうか。
葵は変わった。
自分も変わった。
以前より、お互いに自分の時間を持てるようになった。
それは良いことのはずだった。
なのに。
なぜか、二人の間には以前とは違う静けさがある。
悠真はその理由を考えようとして、やめた。
今はまだ、答えを出す必要はない。
ただ、ひとつだけ分かっている。
葵を嫌いになったわけではない。
むしろ、今でも大切だ。
だからこそ。
自分が何を望んでいるのかを、いつか葵に話さなければならない。
悠真はスマートフォンを伏せた。
その夜。
葵はベッドに入り、土曜日の海を思い出していた。
そして、悠真の言葉を思い出す。
『俺も、変わったと思う』
あのときの表情。
あの言葉の続き。
聞かなかった。
聞けなかった。
でも、いつかは聞かなければならないのだろう。
葵は天井を見つめる。
以前の自分なら、怖くて聞けなかった。
聞いてしまえば、何かが変わる気がしたから。
今は違う。
変わることを、少しだけ受け入れられるようになった。
大切なものは、同じ形のまま残るとは限らない。
それでも、大切だったという事実は消えない。
葵は目を閉じた。
土曜日は楽しかった。
それでいい。
今は、それだけで十分だった。
けれど──。
その「十分」が、二人にとって同じ意味なのか。
その答えだけは、まだ分からなかった。
葵は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。
週末が終わった。
いつもの一週間が始まる。
そう思いながらカーテンを開ける。
空は薄い雲に覆われていた。
土曜日の海とは違う空だった。
けれど、葵の中にはまだ、あの日の青さが残っていた。
洗面所へ向かいながら、ふと思う。
昨日まで、海にいた。
悠真と一緒に。
そして今日は、いつもの仕事。
それが不思議だった。
昔なら、週末と平日の境目がもっと曖昧だった。
休みの日でも仕事のことを考えていた。
仕事の日でも、悠真との予定を気にしていた。
どちらかにいるのに、もう一方のことを考えている。
そんな日が多かった。
今は違う。
今日は仕事の日。
だから、仕事をする。
それでいいと思えた。
会社に着く。
デスクに座ると、週末の間に届いたメールを確認する。
急ぎのものを処理し、必要なものだけをメモする。
以前なら、すべてをその日のうちに終わらせようとしていた。
けれど今は違う。
優先順位を決める。
人に頼る。
明日に回す。
そうやって、一つずつ仕事を片づけていく。
「高橋さん」
後輩に呼ばれて振り返る。
「この企画、ちょっと相談してもいいですか?」
「もちろん」
葵は画面を見ながら話を聞いた。
以前なら、すぐに答えを出していた。
今は、相手が何を考えているのかを聞くようになった。
「どうしたいと思ってる?」
「私は、こっちの案がいいと思うんですけど……」
「じゃあ、一回その方向で考えてみよう」
後輩が笑う。
「ありがとうございます」
その顔を見ながら、葵も笑った。
自分が全部やらなくても、仕事は回る。
そのことを、少しずつ実感していた。
昼休み。
葵はスマートフォンを確認した。
悠真からメッセージが届いていた。
『今日も仕事?』
『うん』
『頑張って』
葵は少し笑って、
『悠真もね』
と返した。
それだけ。
以前なら、ここから会話を続けようとしただろう。
けれど今は、無理に言葉を探さない。
連絡が少ないから、気持ちが薄いわけではない。
それが少し分かってきた。
午後。
会議が長引いた。
予定していた仕事が終わらず、時計を見ると六時半を過ぎている。
葵は一度、パソコンの画面を閉じた。
まだ終わっていない。
でも、今日やらなければならない仕事ではない。
明日の朝に回しても問題ない。
以前なら、そのまま残業していただろう。
けれど今日は、帰ることにした。
「お先に失礼します」
会社を出る。
外はすっかり暗くなっていた。
駅へ向かう途中、ふと土曜日の海を思い出す。
波の音。
潮の匂い。
隣で笑っていた悠真。
葵は歩きながら、小さく笑った。
楽しかった。
本当に、それだけだった。
でも、その「それだけ」が大切なのだと思う。
未来を約束しなくても。
何か特別なことが起きなくても。
ただ一緒にいて、楽しかった。
それだけで、その時間には意味がある。
一方、悠真は実家の夕食を終えたあと、自分の部屋でスマートフォンを眺めていた。
葵とのメッセージ。
土曜日の海。
写真はほとんど撮っていない。
けれど、記憶には残っている。
葵が海を見ていた横顔。
砂浜を歩く姿。
笑った顔。
そして──。
「楽しかったな」
悠真も小さく呟いた。
けれど、そのあとに別の思いが浮かんだ。
このままでいいのだろうか。
葵は変わった。
自分も変わった。
以前より、お互いに自分の時間を持てるようになった。
それは良いことのはずだった。
なのに。
なぜか、二人の間には以前とは違う静けさがある。
悠真はその理由を考えようとして、やめた。
今はまだ、答えを出す必要はない。
ただ、ひとつだけ分かっている。
葵を嫌いになったわけではない。
むしろ、今でも大切だ。
だからこそ。
自分が何を望んでいるのかを、いつか葵に話さなければならない。
悠真はスマートフォンを伏せた。
その夜。
葵はベッドに入り、土曜日の海を思い出していた。
そして、悠真の言葉を思い出す。
『俺も、変わったと思う』
あのときの表情。
あの言葉の続き。
聞かなかった。
聞けなかった。
でも、いつかは聞かなければならないのだろう。
葵は天井を見つめる。
以前の自分なら、怖くて聞けなかった。
聞いてしまえば、何かが変わる気がしたから。
今は違う。
変わることを、少しだけ受け入れられるようになった。
大切なものは、同じ形のまま残るとは限らない。
それでも、大切だったという事実は消えない。
葵は目を閉じた。
土曜日は楽しかった。
それでいい。
今は、それだけで十分だった。
けれど──。
その「十分」が、二人にとって同じ意味なのか。
その答えだけは、まだ分からなかった。