君が思い出になる前に
第60話 話したいこと
木曜日の夜。
葵は仕事を終えて、駅へ向かっていた。
今週も、気づけば半分以上が過ぎている。
月曜日から続いていた忙しさも、ようやく少し落ち着いてきた。
スマートフォンを見る。
悠真からのメッセージはない。
それを確認して、葵はスマートフォンを鞄にしまった。
以前なら、少し寂しく感じていたかもしれない。
でも今は、そうでもなかった。
悠真には悠真の生活がある。
自分にも自分の生活がある。
それが自然なのだと思えるようになっていた。
駅のホームで電車を待つ。
電車が来る。
人の波に押されるように車内へ入り、つり革につかまった。
そのときだった。
スマートフォンが震えた。
画面を見る。
悠真からだった。
『今、少し話せる?』
葵は一瞬、指を止めた。
何だろう。
そう思った。
でも、すぐに返信する。
『うん。大丈夫』
既読がつく。
少しして、
『電話してもいい?』
と届いた。
葵は窓の外を見る。
電車はゆっくりと走り出していた。
『今、電車だから、家に着いたらでもいい?』
『分かった』
それだけだった。
家に着く。
鞄を置き、コートを脱ぐ。
いつもなら夕食の準備をする時間。
けれど今日は、先にスマートフォンを手に取った。
少しして、着信が入る。
「もしもし」
『葵?』
「うん」
聞き慣れた声。
それだけで、少し安心する。
「どうしたの?」
『……うん』
悠真が言葉を探しているのが分かった。
葵は黙って待った。
以前の自分なら、沈黙に耐えられなかった。
何か言わなきゃ。
そう思って、自分から話していた。
今は違う。
悠真が話すまで待てる。
『この前の海さ』
「うん」
『楽しかったよな』
「うん。楽しかった」
『俺も』
そこで、また沈黙が落ちる。
葵は何も言わなかった。
しばらくして、悠真が口を開く。
『だからこそ、ちゃんと話したいと思って』
葵の胸が、少しだけざわついた。
「何を?」
悠真はすぐには答えなかった。
『俺たちのこと』
その言葉に、葵は息を止めた。
やっぱり。
いつか、この話をする日が来ると思っていた。
でも、それが今日だとは思っていなかった。
「……うん」
それだけ答える。
『葵は、今どう思ってる?』
「どうって?」
『俺たちのこと』
葵は窓の外を見る。
夜の街。
車のライト。
遠くに見えるマンションの明かり。
昨日までと何も変わらない景色。
なのに、自分の中では何かが変わり始めている。
「私……」
言葉を探す。
「悠真のこと、今でも大切だよ」
電話の向こうで、悠真が小さく息を吐いた。
『うん』
「海も楽しかった」
『うん』
「また一緒に行きたいって思った」
そこまで言って、葵は少しだけ笑った。
「でも、それと……これからどうするかは、別なのかもしれないって思ってる」
言ってしまった。
けれど、不思議と怖くなかった。
以前なら、こんな言葉を口にすることさえできなかった。
悠真も、しばらく黙っていた。
『俺も、同じこと考えてた』
「……そっか」
『葵を嫌いになったわけじゃない』
「うん」
『今でも好きだと思う』
葵は目を閉じた。
胸が痛い。
でも、その痛みから逃げたいとは思わなかった。
『だから、余計に分からなくなってる』
悠真の声が少し揺れる。
『好きなのに、このままでいいのかなって』
葵は何も言えなかった。
それは、自分も同じだったから。
好き。
大切。
会えば嬉しい。
一緒にいると楽しい。
それでも、未来を同じ形で描けるとは限らない。
「悠真」
『うん』
「今すぐ答えを出さなくてもいいんじゃないかな」
電話の向こうが静かになる。
「私も、ちゃんと考えたい」
『……うん』
「悠真も考えて」
『分かった』
それだけだった。
電話は、しばらくして終わった。
通話時間は、二十分ほど。
けれど、葵にはもっと長く感じられた。
スマートフォンをテーブルに置く。
静かな部屋。
時計の音だけが聞こえる。
葵はキッチンへ向かい、冷蔵庫を開けた。
夕食を作る。
いつもと同じ夜。
でも、心の中には一つの問いが残っている。
私は、悠真とこれからも一緒にいたいのだろうか。
それとも。
悠真との四年間を大切にしたまま、別の道を選びたいのだろうか。
答えはまだ出ない。
ただ一つ分かっていることがある。
もう、見ないふりはしない。
仕事を理由に。
忙しさを理由に。
「いつか」を理由に。
大切なことを後回しにはしない。
葵は包丁を置き、窓の外を見た。
夜空には、細い月が浮かんでいた。
あの日、海で見た空とは違う。
それでも空は、どこかでつながっている。
悠真も今、同じ空を見ているのだろうか。
そう思った。
そして初めて、葵は自分自身に問いかけた。
──私は、どうしたい?
その答えを探す時間が、始まった。
葵は仕事を終えて、駅へ向かっていた。
今週も、気づけば半分以上が過ぎている。
月曜日から続いていた忙しさも、ようやく少し落ち着いてきた。
スマートフォンを見る。
悠真からのメッセージはない。
それを確認して、葵はスマートフォンを鞄にしまった。
以前なら、少し寂しく感じていたかもしれない。
でも今は、そうでもなかった。
悠真には悠真の生活がある。
自分にも自分の生活がある。
それが自然なのだと思えるようになっていた。
駅のホームで電車を待つ。
電車が来る。
人の波に押されるように車内へ入り、つり革につかまった。
そのときだった。
スマートフォンが震えた。
画面を見る。
悠真からだった。
『今、少し話せる?』
葵は一瞬、指を止めた。
何だろう。
そう思った。
でも、すぐに返信する。
『うん。大丈夫』
既読がつく。
少しして、
『電話してもいい?』
と届いた。
葵は窓の外を見る。
電車はゆっくりと走り出していた。
『今、電車だから、家に着いたらでもいい?』
『分かった』
それだけだった。
家に着く。
鞄を置き、コートを脱ぐ。
いつもなら夕食の準備をする時間。
けれど今日は、先にスマートフォンを手に取った。
少しして、着信が入る。
「もしもし」
『葵?』
「うん」
聞き慣れた声。
それだけで、少し安心する。
「どうしたの?」
『……うん』
悠真が言葉を探しているのが分かった。
葵は黙って待った。
以前の自分なら、沈黙に耐えられなかった。
何か言わなきゃ。
そう思って、自分から話していた。
今は違う。
悠真が話すまで待てる。
『この前の海さ』
「うん」
『楽しかったよな』
「うん。楽しかった」
『俺も』
そこで、また沈黙が落ちる。
葵は何も言わなかった。
しばらくして、悠真が口を開く。
『だからこそ、ちゃんと話したいと思って』
葵の胸が、少しだけざわついた。
「何を?」
悠真はすぐには答えなかった。
『俺たちのこと』
その言葉に、葵は息を止めた。
やっぱり。
いつか、この話をする日が来ると思っていた。
でも、それが今日だとは思っていなかった。
「……うん」
それだけ答える。
『葵は、今どう思ってる?』
「どうって?」
『俺たちのこと』
葵は窓の外を見る。
夜の街。
車のライト。
遠くに見えるマンションの明かり。
昨日までと何も変わらない景色。
なのに、自分の中では何かが変わり始めている。
「私……」
言葉を探す。
「悠真のこと、今でも大切だよ」
電話の向こうで、悠真が小さく息を吐いた。
『うん』
「海も楽しかった」
『うん』
「また一緒に行きたいって思った」
そこまで言って、葵は少しだけ笑った。
「でも、それと……これからどうするかは、別なのかもしれないって思ってる」
言ってしまった。
けれど、不思議と怖くなかった。
以前なら、こんな言葉を口にすることさえできなかった。
悠真も、しばらく黙っていた。
『俺も、同じこと考えてた』
「……そっか」
『葵を嫌いになったわけじゃない』
「うん」
『今でも好きだと思う』
葵は目を閉じた。
胸が痛い。
でも、その痛みから逃げたいとは思わなかった。
『だから、余計に分からなくなってる』
悠真の声が少し揺れる。
『好きなのに、このままでいいのかなって』
葵は何も言えなかった。
それは、自分も同じだったから。
好き。
大切。
会えば嬉しい。
一緒にいると楽しい。
それでも、未来を同じ形で描けるとは限らない。
「悠真」
『うん』
「今すぐ答えを出さなくてもいいんじゃないかな」
電話の向こうが静かになる。
「私も、ちゃんと考えたい」
『……うん』
「悠真も考えて」
『分かった』
それだけだった。
電話は、しばらくして終わった。
通話時間は、二十分ほど。
けれど、葵にはもっと長く感じられた。
スマートフォンをテーブルに置く。
静かな部屋。
時計の音だけが聞こえる。
葵はキッチンへ向かい、冷蔵庫を開けた。
夕食を作る。
いつもと同じ夜。
でも、心の中には一つの問いが残っている。
私は、悠真とこれからも一緒にいたいのだろうか。
それとも。
悠真との四年間を大切にしたまま、別の道を選びたいのだろうか。
答えはまだ出ない。
ただ一つ分かっていることがある。
もう、見ないふりはしない。
仕事を理由に。
忙しさを理由に。
「いつか」を理由に。
大切なことを後回しにはしない。
葵は包丁を置き、窓の外を見た。
夜空には、細い月が浮かんでいた。
あの日、海で見た空とは違う。
それでも空は、どこかでつながっている。
悠真も今、同じ空を見ているのだろうか。
そう思った。
そして初めて、葵は自分自身に問いかけた。
──私は、どうしたい?
その答えを探す時間が、始まった。