君が思い出になる前に

第61話 答えを急がない

 スマートフォンをベッドの脇に置いてから、もう一時間近く経っていた。

 部屋の明かりは消している。

 カーテンの隙間から入る街の光だけが、ぼんやりと床を照らしていた。

 葵は布団の中で目を閉じた。

 眠れない。

 さっきから、同じ言葉ばかりが頭の中を回っている。

 ──私は、どうしたい?

 悠真と別れたくない。

 最初に浮かんだのは、それだった。

 四年間も一緒にいた。

 楽しいことも、くだらないことで笑ったことも、仕事で落ち込んだ夜に電話をしたこともある。

 悠真が隣にいることが、ずっと当たり前だった。

 だから。

 いなくなるのが怖い。

 そこまでは、分かる。

 けれど。

「……それだけなのかな」

 小さく呟いた。

 もし悠真が、明日からもずっと自分の隣にいてくれるとしたら。

 それだけで、すべてが解決するのだろうか。

 遠距離になったことも。

 会う時間が減ったことも。

 お互いに言えなかった寂しさも。

 仕事を理由に、何度も「また今度」と言ってしまったことも。

 全部なかったことにして、以前と同じように戻れるのだろうか。

 葵は目を開けた。

 天井を見つめる。

「……戻りたい、のかな」

 その言葉を口にした瞬間、胸の奥に小さな違和感が生まれた。

 戻りたい。

 確かに、そう思う。

 でも──。

 昔の自分に戻りたいわけではない。

 悠真と付き合い始めた頃の自分。

 何をしていても楽しくて、毎日のように連絡を取り合って、休日が来るのを楽しみにしていた自分。

 あの頃は、悠真と一緒にいることが幸せだった。

 けれど同時に。

 今の自分が、あの頃と同じではないことも分かっている。

 仕事も変わった。

 考え方も変わった。

 そして、悠真も変わった。

「……人って、変わるんだよね」

 独り言のように呟く。

 変わることが悪いわけではない。

 ただ、二人とも変わったのなら。

 四年前に選んだ関係を、そのまま今の二人に当てはめることが正しいのか。

 葵には分からなかった。

 翌朝。

 いつものように会社へ向かった。

 電車の中でメールを確認する。

 仕事の連絡がいくつも届いていた。

 以前なら、届いた端から返信していた。

 今は違う。

 葵は一度画面を閉じた。

 駅を出てから、会社近くのコンビニでコーヒーを買う。

 そのままビルへ向かいながら、空を見上げた。

 薄い雲が流れている。

 海へ行った日の空を、少しだけ思い出した。

 悠真と並んで歩いた砂浜。

 波の音。

 何気ない会話。

 帰りの電車で、悠真が眠そうに目をこすっていたこと。

 どれも、幸せな記憶だった。

 でも。

 その記憶を思い出したからといって、必ずしも「これからも一緒にいたい」という答えになるわけではない。

 そのことに気づいたとき、葵は少し驚いた。

 以前の自分なら、きっと違った。

 思い出が幸せなら、それを守らなければいけないと思っただろう。

 四年間も付き合ったのだから。

 好きなのだから。

 ここまで一緒に来たのだから。

 続けるべきだと思ったはずだ。

 けれど今は。

 続けることだけが、正しいとは思えなくなっていた。

「高橋さん?」

 声をかけられて、葵は振り返った。

 同じ部署の後輩だった。

「おはようございます。どうしたんですか? ぼーっとしてましたけど」

「おはよう。ちょっと考え事してた」

「珍しいですね」

 後輩は笑った。

「高橋さんって、いつも迷わないイメージあります」

「……そう?」

「はい。仕事も、決めるの早いじゃないですか」

 葵は苦笑した。

 仕事なら。

 条件を並べて、優先順位を決めて、答えを出せる。

 でも。

 人生のことになると、そうはいかない。

「迷うこともあるよ」

「え?」

「最近、覚えた」

 そう言うと、後輩は少し不思議そうな顔をした。

 葵は笑った。

「じゃ、行こう。遅れるよ」

「はい」

 二人で会社へ向かう。

 歩きながら、葵は思った。

 答えを急がなくてもいいのかもしれない。

 今すぐ「別れる」「続ける」と決めなくてもいい。

 大切なのは、怖いからという理由だけで悠真を引き止めないこと。

 寂しいからという理由だけで、未来を決めないこと。

 そして。

 自分自身の気持ちから逃げないこと。

 昼休み。

 葵はスマートフォンを取り出した。

 悠真とのメッセージ画面を開く。

 最後のやり取りは、昨日の電話のあとに届いた短いメッセージだった。

『今日は話してくれてありがとう』

 葵はしばらく画面を見つめる。

 返信欄を開く。

 何度か文字を打っては消した。

『私もありがとう』

 それだけ入力して、送信する。

 すぐに既読がついた。

 けれど、返信は来なかった。

 葵はスマートフォンを伏せた。

 不思議と、焦りはなかった。

 以前なら、返信がないだけで何度も画面を確認していたかもしれない。

 でも今は。

 悠真にも、考える時間が必要なのだと分かっていた。

 自分だけが答えを探しているわけではない。

 悠真もまた、自分の人生について考えている。

 そのことを、初めて素直に受け入れられた。

 午後六時。

 定時を少し過ぎたところで、葵はパソコンを閉じた。

「今日は帰るんですか?」

 同僚が驚いたように言った。

「うん」

「珍しい」

「私だって帰るよ」

 笑いながら、葵は席を立つ。

 会社を出る。

 まだ明るい空の下を歩く。

 以前なら、ここからもう一度会社へ戻って仕事をしていたかもしれない。

 けれど今日は、その必要がない。

 駅とは反対方向へ歩いてみる。

 特に目的地はない。

 ただ、少し歩きたかった。

 交差点を曲がる。

 知らない道を歩く。

 小さな花屋を見つけた。

 ショーウインドウの中に、一輪の白い花が飾られている。

 葵は足を止めた。

 なぜか、その花を買いたくなった。

 自分のために。

 誰かに渡すためでもなく。

 部屋に飾るためだけに。

 店を出ると、葵は花を見つめながら笑った。

「……こういうのも、悪くないな」

 悠真がいなくても。

 自分で決められることは、たくさんある。

 自分で選べることも。

 自分で楽しめることも。

 少しずつ増えている。

 だからこそ。

 もし悠真と別れることになったとしても。

 きっと、自分の人生まで終わるわけではない。

 その事実を、葵はようやく実感し始めていた。

 そして同時に思う。

 それでも。

 悠真と一緒にいたいと思う気持ちまで、消えたわけではない。

 だから、もう少しだけ考えたい。

 怖さではなく。

 寂しさでもなく。

 「私はどうしたいのか」という、自分自身の気持ちを。

 夜。

 部屋に戻った葵は、買ってきた花を小さな花瓶に挿した。

 窓際に置く。

 白い花が、静かに揺れている。

 その隣にスマートフォンを置いた。

 画面には、悠真から新しいメッセージが届いていた。

『俺も、もう少し考えてみる』

 短い一文。

 葵はその文字をしばらく見つめた。

 そして、ゆっくりとスマートフォンを伏せた。

 今は、それでいい。

 答えを急がなくていい。

 二人の未来がどこへ向かうのかは、まだ分からない。

 けれど。

 初めて葵は、その「分からない」という時間から逃げずにいようと思った。
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