君が思い出になる前に

第62話 待つということ

 翌朝。

 目を覚ました葵は、しばらく天井を見つめていた。

 昨日の悠真との電話を思い出す。

 すぐに答えを出さなくていい。

 そう決めた。

 だからといって、気持ちが軽くなったわけではない。

 むしろ。

 考える時間ができたことで、今まで見ないようにしていたことまで見えてくるような気がした。

 葵はベッドから起き上がり、カーテンを開けた。

 朝の光が部屋に差し込む。

 スマートフォンを手に取る。

 悠真からのメッセージは来ていなかった。

 以前なら、少し寂しく感じていたかもしれない。

 けれど今日は、スマートフォンを伏せるだけにした。

「……待つって、こういうことなのかな」

 答えを待つ。

 でも、相手の答えだけを考えて一日を過ごすわけではない。

 自分にも、自分の時間がある。

 それを最近、少しずつ理解できるようになっていた。

 会社では、いつも通り仕事をした。

 午前中の打ち合わせを終え、資料をまとめる。

 以前なら、昼休みになっても仕事を続けていた。

 けれど今日は、パソコンを閉じた。

「高橋さん、今日は休憩するんですか?」

 隣の席の同僚に言われて、葵は笑った。

「うん。お腹空いたから」

「珍しいですね」

「私だってお腹は空くよ」

「そういう意味じゃなくて」

 同僚が笑う。

 葵も笑った。

 近くの店で昼食を済ませ、会社へ戻る。

 たったそれだけのことだった。

 けれど、以前の自分とは少し違う気がした。

 仕事をする。

 休む。

 食事をする。

 誰かと話す。

 そんな当たり前のことを、以前より丁寧に感じられる。

 午後六時。

 仕事を終えて会社を出た。

 空はまだ少し明るい。

 駅へ向かう途中、スマートフォンが震えた。

 悠真からだった。

『今日は仕事終わった』

 葵は歩きながら返信する。

『お疲れさま。私も今終わったところ』

 すぐには返信が来なかった。

 けれど、気にならなかった。

 電車に乗る。

 窓の外を眺める。

 しばらくして、スマートフォンが震えた。

『今日は何食べる?』

 思わず笑ってしまう。

『まだ決めてない』

『ちゃんと食べてね』

『悠真もね』

 それだけのやり取り。

 昔なら、物足りないと思ったかもしれない。

 もっと話したい。

 もっと繋がっていたい。

 そんな気持ちになっただろう。

 でも今は。

 短いやり取りの中にも、悠真らしい優しさがあることが分かる。

 それで十分だと思えた。

 家に帰り、簡単な夕食を作る。

 一人分の食事。

 以前なら、寂しさを感じたかもしれない。

 けれど今日は、食事をしながらテレビをつけた。

 くだらない番組を見て、一人で笑った。

 そのあと、ソファに座って本を開く。

 静かな夜だった。

 ふと、昔のことを思い出した。

 付き合い始めた頃。

 悠真と毎日のように連絡を取っていた。

 今日は何をした。

 何を食べた。

 明日は何をする。

 そんな話を、飽きることなくしていた。

 いつからだろう。

 連絡が減っていったのは。

 忙しいから。

 疲れているから。

 明日話せばいいから。

 そうやって、少しずつ後回しにしていった。

 でも。

 今思えば、連絡の回数そのものが問題だったわけではない。

 相手の話を聞こうとすること。

 自分の気持ちを伝えること。

 相手が何を感じているのか、想像すること。

 そういう小さなことを、二人とも少しずつ忘れていたのだと思う。

 葵は本を閉じた。

 そして、スマートフォンを手に取った。

 悠真に何か送りたい。

 そう思った。

 けれど、何を書けばいいのか分からない。

 少し考えてから、メッセージを入力する。

『今日、昔のことを少し思い出してた』

 送信する。

 既読がつく。

 しばらくして。

『俺も』

 と返ってきた。

 それだけだった。

 けれど、その二文字が妙に嬉しかった。

 同じことを考えていた。

 その事実だけで、少し心が温かくなる。

 さらにメッセージが届く。

『あの河川敷、まだあるかな』

 葵は画面を見つめた。

 初めて手をつないだ場所。

 四年前の二人が、何でもないことで笑っていた場所。

『あると思う』

 そう返す。

 悠真からの返信は、少し間を置いて届いた。

『今度、行ってみる?』

 葵の指が止まった。

 今度。

 その言葉に、以前ならすぐに飛びついていた。

 もちろん行く。

 いつにする?

 何時に会う?

 そんなふうに。

 けれど今は、少しだけ考えた。

 そして。

『うん。行きたい』

 と送った。

 送信したあと、葵はスマートフォンをテーブルに置いた。

 胸の奥が、ほんの少しだけ痛む。

 懐かしい。

 嬉しい。

 そして、怖い。

 あの場所へ行ったら。

 また昔の二人に戻りたくなるのだろうか。

 それとも。

 今の二人が、何を感じるのか。

 まだ分からない。

 でも。

 それを確かめることから逃げたくはなかった。

 しばらくして、悠真からもう一度メッセージが届いた。

『じゃあ、今度の日曜は?』

 葵はカレンダーを確認した。

 予定はない。

『大丈夫』

 送る。

 画面に表示された「既読」の文字を見つめながら、葵は小さく息を吐いた。

 まだ答えは出ていない。

 別れるのか。

 このまま続けるのか。

 二人の未来がどこへ向かうのかも分からない。

 それでも。

 答えを待つだけの日々にはしたくなかった。

 日曜日に河川敷へ行く。

 悠真と会う。

 そして、今の自分たちが何を感じるのかを確かめる。

 それでいい。

 葵は窓の外を見た。

 夜の街に、いくつもの明かりが灯っている。

 四年前と同じ街。

 けれど。

 自分はもう、四年前の自分ではない。

 悠真もきっと、同じだ。

 だからこそ。

 昔の答えを探すのではなく。

 今の二人の答えを探したい。

 葵はスマートフォンを伏せた。

 日曜日まで、あと五日。

 その五日間もまた、自分の時間を過ごそうと思った。

 待つということは。

 立ち止まることではないのだから。
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