君が思い出になる前に
第63話 四年前には戻れない
日曜日まで、あと五日。
たった五日なのに、葵には少し長く感じられた。
河川敷へ行く。
それだけの約束だった。
けれど、あの場所が二人にとってどんな意味を持っているのかを考えると、胸の奥が落ち着かなかった。
初めて手をつないだ場所。
まだ恋人になる前の二人が、夕暮れの中を並んで歩いた場所。
悠真が何気なく差し出した手を、葵が少し迷ってから握った。
あのときは、それだけで嬉しかった。
手をつないだ。
それだけのことが、特別だった。
今はどうだろう。
同じ場所で、今の二人は何を感じるのだろう。
「……考えすぎかな」
葵はデスクの前で小さく呟いた。
目の前には仕事の資料。
集中しなければならない。
そう思って、再び画面に目を戻した。
仕事は順調だった。
以前なら、予定より早く終わっても別の仕事を探していた。
けれど最近は違う。
今日やるべきことを終えたら、そこで切り上げる。
残った仕事は、明日の自分に任せる。
それができるようになった。
金曜日の夜。
会社を出ると、同僚から声をかけられた。
「高橋さん、明日休みですよね?」
「うん」
「何か予定あるんですか?」
一瞬、葵の頭に河川敷が浮かんだ。
「……ちょっと出かける予定」
「彼氏さんとですか?」
何気ない質問だった。
けれど、葵はすぐには答えられなかった。
「うん」
そう答えた。
嘘ではない。
まだ、恋人なのだから。
でも。
その言葉が、以前ほど自然に口から出てこなかった。
帰宅してから、葵はクローゼットを開けた。
日曜日に何を着ていこう。
そう考えて、すぐに苦笑する。
「別に、デートじゃないんだから」
何を張り切っているのだろう。
そう思いながら、何着か服を取り出しては戻す。
結局、いつもの服に決めた。
鏡の前に立つ。
四年前の自分なら、もっと気合いを入れていたかもしれない。
髪型も。
服装も。
何を話すかも。
全部考えてから会いに行っただろう。
でも今は。
何を話すのかも、決めていない。
ただ会って、歩いて、話す。
それだけでいい。
土曜日。
葵は一人で買い物に出かけた。
途中で本屋に立ち寄る。
以前から気になっていた本を一冊手に取る。
少し迷ってから購入した。
そのあと、カフェに入った。
一人で窓際の席に座る。
コーヒーを飲みながら、本を開く。
しばらくすると、スマートフォンが震えた。
悠真だった。
『明日、雨は大丈夫そう』
『よかった』
『何時くらいに行く?』
『お昼過ぎくらいはどう?』
『分かった』
短いやり取り。
けれど、そのあと悠真からもう一通届いた。
『楽しみにしてる』
葵は、その言葉を何度か読み返した。
楽しみにしている。
自分も同じだった。
明日、悠真に会えることが嬉しい。
それを否定する必要はない。
ただ。
嬉しいからといって、それだけで未来を決める必要もない。
葵は画面を閉じた。
そして本に視線を戻した。
日曜日。
約束の時間より少し早く、葵は河川敷に着いた。
川沿いの道を歩く。
風が少し冷たい。
季節が変わっていた。
四年前とは違う。
景色は同じように見えるけれど、木々の色も、空気も違っている。
葵は立ち止まった。
ここだった。
初めて手をつないだ場所。
あの日のことを思い出す。
悠真が隣に立っていた。
まだ付き合っていなかった。
帰りたくない。
でも、帰らなければならない。
そんな時間だった。
そして、悠真が手を差し出した。
葵は思わず笑った。
「……懐かしい」
「何が?」
突然、後ろから声がした。
振り返る。
悠真が立っていた。
「びっくりした」
「ごめん」
「いつからいたの?」
「今来たところ」
悠真は笑った。
以前と変わらない笑顔。
でも、少しだけ違って見えた。
「歩く?」
「うん」
二人は並んで歩き始めた。
しばらく、何も話さなかった。
昔なら、この沈黙を埋めようとしていたかもしれない。
でも今は。
無理に話す必要がないと思えた。
川の流れる音だけが聞こえる。
「ここでさ」
悠真が言った。
「初めて手をつないだよな」
「覚えてるんだ」
「忘れるわけないだろ」
葵は笑った。
「私は、すごく緊張してた」
「知ってる」
「知ってたの?」
「手、すごく冷たかったから」
「……恥ずかしい」
二人で笑った。
その瞬間。
葵は思った。
楽しい。
今も、ちゃんと楽しい。
それが嬉しかった。
そして同時に、少しだけ切なかった。
悠真も同じことを思っているのだろうか。
聞こうとして、やめた。
今すぐ答えを求めなくてもいい。
しばらく歩いたあと、悠真が立ち止まった。
「葵」
「うん?」
「俺、この場所に来るまで、昔のことばっかり思い出すと思ってた」
「私も」
「でも、違った」
悠真は川の向こうを見た。
「昔の俺たちを思い出すんじゃなくて……今の葵と歩いてるんだなって思った」
葵は何も言わなかった。
胸の奥が、静かに動いた。
それは、葵がずっと考えていたことと同じだった。
昔に戻るのではない。
今の二人を見る。
「私も、同じこと考えてた」
葵は答えた。
「四年前の私たちに戻りたいんじゃないんだと思う」
悠真がこちらを見る。
「今の私たちが、どうしたいのか……それを知りたい」
悠真はしばらく黙っていた。
そして、小さく頷いた。
「うん」
二人はまた歩き始めた。
川沿いを吹く風が、少しだけ強くなる。
昔と同じ場所。
けれど、そこにいる二人はもう昔の二人ではない。
葵はそのことを、初めて怖いと思わなかった。
変わってしまったのではない。
変わったからこそ。
今の二人として、もう一度考えることができる。
そんな気がした。
たった五日なのに、葵には少し長く感じられた。
河川敷へ行く。
それだけの約束だった。
けれど、あの場所が二人にとってどんな意味を持っているのかを考えると、胸の奥が落ち着かなかった。
初めて手をつないだ場所。
まだ恋人になる前の二人が、夕暮れの中を並んで歩いた場所。
悠真が何気なく差し出した手を、葵が少し迷ってから握った。
あのときは、それだけで嬉しかった。
手をつないだ。
それだけのことが、特別だった。
今はどうだろう。
同じ場所で、今の二人は何を感じるのだろう。
「……考えすぎかな」
葵はデスクの前で小さく呟いた。
目の前には仕事の資料。
集中しなければならない。
そう思って、再び画面に目を戻した。
仕事は順調だった。
以前なら、予定より早く終わっても別の仕事を探していた。
けれど最近は違う。
今日やるべきことを終えたら、そこで切り上げる。
残った仕事は、明日の自分に任せる。
それができるようになった。
金曜日の夜。
会社を出ると、同僚から声をかけられた。
「高橋さん、明日休みですよね?」
「うん」
「何か予定あるんですか?」
一瞬、葵の頭に河川敷が浮かんだ。
「……ちょっと出かける予定」
「彼氏さんとですか?」
何気ない質問だった。
けれど、葵はすぐには答えられなかった。
「うん」
そう答えた。
嘘ではない。
まだ、恋人なのだから。
でも。
その言葉が、以前ほど自然に口から出てこなかった。
帰宅してから、葵はクローゼットを開けた。
日曜日に何を着ていこう。
そう考えて、すぐに苦笑する。
「別に、デートじゃないんだから」
何を張り切っているのだろう。
そう思いながら、何着か服を取り出しては戻す。
結局、いつもの服に決めた。
鏡の前に立つ。
四年前の自分なら、もっと気合いを入れていたかもしれない。
髪型も。
服装も。
何を話すかも。
全部考えてから会いに行っただろう。
でも今は。
何を話すのかも、決めていない。
ただ会って、歩いて、話す。
それだけでいい。
土曜日。
葵は一人で買い物に出かけた。
途中で本屋に立ち寄る。
以前から気になっていた本を一冊手に取る。
少し迷ってから購入した。
そのあと、カフェに入った。
一人で窓際の席に座る。
コーヒーを飲みながら、本を開く。
しばらくすると、スマートフォンが震えた。
悠真だった。
『明日、雨は大丈夫そう』
『よかった』
『何時くらいに行く?』
『お昼過ぎくらいはどう?』
『分かった』
短いやり取り。
けれど、そのあと悠真からもう一通届いた。
『楽しみにしてる』
葵は、その言葉を何度か読み返した。
楽しみにしている。
自分も同じだった。
明日、悠真に会えることが嬉しい。
それを否定する必要はない。
ただ。
嬉しいからといって、それだけで未来を決める必要もない。
葵は画面を閉じた。
そして本に視線を戻した。
日曜日。
約束の時間より少し早く、葵は河川敷に着いた。
川沿いの道を歩く。
風が少し冷たい。
季節が変わっていた。
四年前とは違う。
景色は同じように見えるけれど、木々の色も、空気も違っている。
葵は立ち止まった。
ここだった。
初めて手をつないだ場所。
あの日のことを思い出す。
悠真が隣に立っていた。
まだ付き合っていなかった。
帰りたくない。
でも、帰らなければならない。
そんな時間だった。
そして、悠真が手を差し出した。
葵は思わず笑った。
「……懐かしい」
「何が?」
突然、後ろから声がした。
振り返る。
悠真が立っていた。
「びっくりした」
「ごめん」
「いつからいたの?」
「今来たところ」
悠真は笑った。
以前と変わらない笑顔。
でも、少しだけ違って見えた。
「歩く?」
「うん」
二人は並んで歩き始めた。
しばらく、何も話さなかった。
昔なら、この沈黙を埋めようとしていたかもしれない。
でも今は。
無理に話す必要がないと思えた。
川の流れる音だけが聞こえる。
「ここでさ」
悠真が言った。
「初めて手をつないだよな」
「覚えてるんだ」
「忘れるわけないだろ」
葵は笑った。
「私は、すごく緊張してた」
「知ってる」
「知ってたの?」
「手、すごく冷たかったから」
「……恥ずかしい」
二人で笑った。
その瞬間。
葵は思った。
楽しい。
今も、ちゃんと楽しい。
それが嬉しかった。
そして同時に、少しだけ切なかった。
悠真も同じことを思っているのだろうか。
聞こうとして、やめた。
今すぐ答えを求めなくてもいい。
しばらく歩いたあと、悠真が立ち止まった。
「葵」
「うん?」
「俺、この場所に来るまで、昔のことばっかり思い出すと思ってた」
「私も」
「でも、違った」
悠真は川の向こうを見た。
「昔の俺たちを思い出すんじゃなくて……今の葵と歩いてるんだなって思った」
葵は何も言わなかった。
胸の奥が、静かに動いた。
それは、葵がずっと考えていたことと同じだった。
昔に戻るのではない。
今の二人を見る。
「私も、同じこと考えてた」
葵は答えた。
「四年前の私たちに戻りたいんじゃないんだと思う」
悠真がこちらを見る。
「今の私たちが、どうしたいのか……それを知りたい」
悠真はしばらく黙っていた。
そして、小さく頷いた。
「うん」
二人はまた歩き始めた。
川沿いを吹く風が、少しだけ強くなる。
昔と同じ場所。
けれど、そこにいる二人はもう昔の二人ではない。
葵はそのことを、初めて怖いと思わなかった。
変わってしまったのではない。
変わったからこそ。
今の二人として、もう一度考えることができる。
そんな気がした。