君が思い出になる前に

第64話 知らなかった時間

 河川敷を歩いたあと、二人は近くのベンチに座った。

 川の流れる音が、静かに聞こえている。

 葵は隣に座る悠真を見た。

 久しぶりに、こんなふうに何もせず一緒にいる。

 付き合っていた頃なら、珍しくもなかった時間。

 けれど今は、その何気なさが少し特別に感じられた。

「寒くない?」

 悠真が聞いた。

「大丈夫」

「本当に?」

「うん」

 そう答えたものの、少しだけ肩をすくめる。

 悠真はそれを見て笑った。

「やっぱり寒いんじゃん」

「……ちょっとだけ」

「昔から我慢するよな」

 その言葉に、葵は少しだけ黙った。

「昔から?」

「うん」

 悠真が川を見ながら言う。

「寒くても、疲れてても、大丈夫って言う」

「そうだった?」

「そうだったよ」

 葵は苦笑した。

「悠真のほうが、よく見てたんだね」

「……見てたつもりだった」

 その言葉に、葵は悠真を見る。

 悠真は少し考えてから続けた。

「でも、見てるだけだったのかもしれない」

「どういうこと?」

「葵が忙しいって分かってたから。疲れてるんだろうなって思って、あんまり言わないようにしてた」

「何を?」

「寂しいとか。会いたいとか」

 胸の奥が、少し痛んだ。

「……言ってくれればよかったのに」

「葵も言わなかっただろ」

 返す言葉がなかった。

 確かに、その通りだった。

 自分だって、仕事が忙しいことを理由に、寂しいとは言わなかった。

 会いたいと言われれば嬉しかった。

 でも、自分からは言わなかった。

 忙しいから。

 疲れているから。

 会えなくても分かってくれると思っていた。

「私たち、似てたのかもね」

 葵が言った。

「何が?」

「言いたいことを言わないところ」

 悠真が笑う。

「それはそうかも」

 二人で笑った。

 でも、笑ったあとに残った沈黙は、以前とは少し違っていた。

 今までなら、その沈黙の中に後悔があった。

 もっと話していれば。

 もっと会っていれば。

 もっと大切にしていれば。

 そう思っていた。

 けれど今は。

 過去を責めるよりも、これから何を話せるのかを考えたい。

 そんな気持ちになっていた。

「悠真」

「うん?」

「実家に戻ってから、どう?」

 葵が尋ねると、悠真は少し考えた。

「忙しいよ」

「お父さんは?」

「前よりは落ち着いてる。でも、まだ通院は続いてる」

「そっか」

「母さんも、少し疲れてるみたいで」

 悠真は川の向こうを見る。

「だから、戻ってきてよかったと思ってる」

「うん」

 葵は頷いた。

 四年間付き合っていた。

 それでも、悠真が実家でどんな毎日を送っているのか、詳しくは知らなかった。

 電話で聞くことはあった。

 でも、詳しく聞こうとはしなかった。

 自分の仕事の話をして、悠真の話を少し聞いて。

 それで終わることが多かった。

 今になって思う。

 自分は、悠真の人生をどれくらい知っていたのだろう。

「葵は?」

「私?」

「最近、どう?」

 葵は少し笑った。

「普通だよ」

「仕事は?」

「相変わらず」

「残業は?」

「……減った」

「本当に?」

「本当」

 悠真が安心したように笑う。

「よかった」

「どうして?」

「葵、無理するから」

 その言葉が、胸に残った。

 自分のことを心配してくれている。

 まだ、こんなふうに。

「私ね」

 葵は川を見ながら言った。

「最近、仕事を早く切り上げるようになった」

「うん」

「一人で映画を観たり、本を読んだりもする」

「いいじゃん」

「最初は、変な感じだった」

「何が?」

「一人で時間を使うこと」

 悠真は黙って聞いている。

「でも、意外と楽しいんだよね」

「そうだと思う」

「だから……」

 葵は少し迷った。

「悠真がいなくても大丈夫なのかもしれないって、最近思うようになった」

 言葉にすると、思っていた以上に寂しかった。

 けれど、それは悠真を必要としていないという意味ではない。

「でも」

 葵は続けた。

「大丈夫だから、別れたいってことでもない」

 悠真が葵を見る。

「うん」

「そこが、自分でもよく分からなくて」

「俺も」

 悠真が答えた。

「俺も、葵がいなくても生きていけると思う」

 その言葉に、葵の胸がきゅっと縮まった。

「でも、いなくても大丈夫ってことと、いなくてもいいってことは、違うよな」

 葵はゆっくり頷いた。

「……うん」

 その違いが、今の二人には大きかった。

 以前は、「必要だから一緒にいる」と思っていた。

 でも今は違う。

 一人でも生きていける。

 それでも、一緒にいたいと思えるのか。

 そこに二人の答えがあるのかもしれない。

 悠真が時計を見る。

「そろそろ行こうか」

「うん」

 二人はベンチから立ち上がった。

 帰り道。

 駅へ向かう途中で、悠真が足を止めた。

「葵」

「なに?」

「今日、会えてよかった」

「私も」

 それだけだった。

 でも。

 以前のように「また会おう」と約束する必要はなかった。

 次に会うことが決まっていなくても。

 今日の時間が嘘になるわけではない。

 駅の改札前で、二人は向かい合った。

「じゃあ」

「うん」

「気をつけて帰って」

「悠真も」

 悠真が一歩離れる。

 葵も一歩下がる。

 それでも、どちらもすぐには背を向けなかった。

「……また連絡する」

 悠真が言った。

「うん」

 悠真が歩いていく。

 その背中を見ながら、葵は思った。

 好き。

 まだ、好きだ。

 でも。

 それだけでは、もう答えにならない。

 好きだからこそ。

 相手の人生も、自分の人生も、ちゃんと考えたい。

 葵は悠真の姿が見えなくなってから、ゆっくり駅へ向かった。

 今日、初めて分かったことがある。

 四年間一緒にいたからといって、相手のすべてを知っているわけではない。

 そして。

 知らなかった時間があったからといって、四年間が嘘になるわけでもない。

 二人にはまだ、知らないことがたくさんある。

 それを知ろうとするのか。

 それとも、それぞれの人生へ戻るのか。

 答えは、まだ出ていなかった。
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