君が思い出になる前に

第65話 私の時間

 月曜日の朝。

 葵はいつもより少し早く会社に着いた。

 デスクの上には、週末に届いた資料が積まれている。

 パソコンを立ち上げ、メールを確認する。

 いつもの朝。

 なのに、何かが少し違っていた。

 昨日、悠真と会ったからだ。

 河川敷で話したこと。

 駅で別れたときのこと。

 帰り道に考えたこと。

 どれも頭の片隅に残っている。

 けれど、それを仕事に持ち込もうとは思わなかった。

「高橋さん、おはようございます」

「おはよう」

 後輩に声をかけられ、葵はいつものように笑った。

「昨日、休みだったのに連絡しちゃってすみません」

「大丈夫。確認したよ」

「助かります」

 後輩が離れていく。

 葵は画面に視線を戻した。

 以前なら、ここから一気に仕事に入り込んでいた。

 昼休みも短く済ませて、少しでも早く終わらせようとする。

 そうすれば、帰ったあとに悠真と電話ができる。

 そんなふうに、一日のどこかに悠真との時間を置いていた。

 それが当たり前だった。

 でも今は違う。

 仕事は仕事。

 自分の時間は自分の時間。

 悠真との時間は、悠真との時間。

 全部を一つにしなくてもいい。

 そんなことを、最近少しずつ覚えてきた。

 昼休み。

 葵は会社を出て、近くの小さな定食屋に入った。

 一人で昼食を取る。

 以前なら、スマートフォンを見ながら急いで食べていた。

 今日は違った。

 焼き魚を一口食べて、味噌汁を飲む。

 それだけのことなのに、妙に落ち着いた。

 食事を終えて店を出ると、スマートフォンが震えた。

 悠真からだった。

『昨日はありがとう』

 短いメッセージ。

 葵は少し考えてから返信した。

『こちらこそ。久しぶりにゆっくり話せてよかった』

 すぐに既読がついた。

『俺も』

 そこで会話は終わった。

 以前なら、そこから何か話題を探していたかもしれない。

 今日はスマートフォンをポケットにしまった。

 それでいいと思った。

 無理に続けなくてもいい。

 返事が短いからといって、不安になる必要もない。

 そう思えるようになった自分に、葵は少し驚いていた。

 午後の仕事を終え、定時を少し過ぎたところで会社を出る。

 空はまだ明るかった。

 駅へ向かう途中、ふと本屋が目に入った。

 葵は足を止める。

 以前なら、そのまま帰っていただろう。

 今日は店に入った。

 仕事とは関係のない小説を一冊手に取る。

 表紙を眺めて、裏返す。

 あらすじを読んでみる。

 買うかどうか迷って、結局レジへ向かった。

 家に帰る。

 簡単な夕食を作る。

 洗濯物を畳む。

 それから買ったばかりの本を開く。

 静かな夜だった。

 悠真から電話が来るかもしれない。

 来ないかもしれない。

 以前なら、それだけで落ち着かなかった。

 今は、本のページをめくることができる。

 そのことが、少し嬉しかった。

 午後九時を過ぎた頃。

 スマートフォンが震えた。

『起きてる?』

 悠真からだった。

『起きてるよ』

 送ると、すぐに着信があった。

「もしもし」

『今、大丈夫?』

「うん」

『昨日さ』

「うん」

『帰ってから、ずっと考えてた』

 葵は本を閉じた。

「何を?」

『俺たちのこと』

 やっぱり。

 そう思った。

「私も考えてた」

『……そっか』

 少し沈黙があった。

『葵は、どう思った?』

 すぐには答えられなかった。

 でも、以前のように怖くはなかった。

「まだ、分からない」

『うん』

「でも、前とは少し違う」

『何が?』

「一緒にいるか、別れるか。それだけで考えなくなった」

 電話の向こうで、悠真が黙る。

「私は、自分がどう生きたいのかも考えたい」

『……うん』

「悠真と一緒にいたいかどうかを決める前に、自分がどういう毎日を送りたいのか、ちゃんと考えたい」

『俺も、それが必要だと思う』

 その言葉を聞いて、葵は少しだけ安心した。

「ねえ、悠真」

『ん?』

「私たち、今までずっと一緒にいることを前提に考えてたよね」

『そうだな』

「だから、一緒にいるためにはどうするかばかり考えてた」

『……うん』

「でも今は、一緒にいることを前提にしなくても、お互いのことを考えられる気がする」

 悠真が小さく息を吐いた。

『それって、少し寂しいな』

「うん」

 葵も笑った。

「私も、ちょっと寂しい」

 それでも。

 その寂しさから逃げるために、一緒にいるのは違うと思った。

 電話を切ったあと、葵はしばらく天井を見上げていた。

 答えは出ていない。

 たぶん、すぐには出ない。

 それでも。

 自分の時間を取り戻したからこそ、見えてきたものがある。

 悠真を失うことが怖い。

 それは、今も変わらない。

 でも。

 悠真を失わないために、自分を失う必要はない。

 そのことだけは、もう分かっていた。

 葵は閉じた本をもう一度開いた。

 今夜は、もう少しだけ自分の時間を過ごそう。

 そう思った。
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