君が思い出になる前に
第66話 いつかの続きを
金曜日の夜。
葵は仕事を終えて、自宅のソファに座っていた。
テーブルの上には、仕事用のバッグ。
その隣には、先日買ったばかりの本。
スマートフォンを手に取る。
悠真からメッセージが届いていた。
『今週もお疲れさま』
葵は笑って返信する。
『悠真もお疲れさま』
そこで一度、指が止まった。
何となく、もう一言送りたくなった。
『そういえば、京都のこと覚えてる?』
送信。
数分後。
『覚えてる』
短い返事だった。
葵は画面を見つめた。
京都。
付き合い始めた頃から、二人は何度もその話をしていた。
紅葉の時期に行きたい。
桜もいい。
有名なお寺を巡って、夜は小さな旅館に泊まって。
そんな話を何度もした。
けれど、実際には行かなかった。
仕事が忙しかったり。
予定が合わなかったり。
また今度にしよう、と言ったり。
いつでも行けると思っていた。
『行ってみない?』
葵が送る。
既読がつくまで、少し時間がかかった。
『今から?』
『うん。今度の休みに』
『急だな』
葵は思わず笑った。
『いつも「また今度」だったから』
しばらくして、悠真から返事が来た。
『……そうだな』
その一言を見て、葵は少しだけ胸が痛くなった。
でも、その痛みから目を逸らさなかった。
『嫌だったらいいよ』
すぐに返事が来た。
『行こう』
その三文字だけだった。
けれど、葵には十分だった。
翌週。
二人は京都駅で待ち合わせた。
葵が到着すると、先に来ていた悠真が手を上げる。
「おはよう」
「おはよう」
「久しぶりに見ると、京都駅ってやっぱり大きいな」
「何それ」
「いや、昔も来たことあるけど」
「修学旅行?」
「そう」
「私も」
そんな他愛のない話をしながら歩く。
観光客の間を抜け、駅を出る。
少し歩いたところで、悠真が言った。
「どこから行く?」
「決めてない」
「え?」
「京都に行くってことだけ決めてたから」
「それ、旅行っていうの?」
「いいじゃん」
葵が笑う。
「今日は、行きたいところに行こう」
「了解」
二人は地図を見ながら歩き始めた。
有名な場所を巡る。
写真を撮る。
途中で甘いものを食べる。
どれも特別なことではない。
けれど、葵は楽しかった。
悠真もよく笑っていた。
昼過ぎ。
小さな店に入り、二人で遅めの昼食を取った。
「これ、おいしい」
「葵、さっきからそればっかり言ってない?」
「だって、おいしいから」
「じゃあ、俺も食べてみようかな」
「一口だけね」
「分かってる」
箸を伸ばす悠真を見て、葵は笑った。
昔と同じ。
そう思った。
でも。
昔と同じなのに、昔とは違う。
そのことが不思議だった。
食事を終えて店を出る。
少し歩いたところで、悠真が言った。
「こういうの、久しぶりだな」
「うん」
「何も考えずに一緒に歩くの」
「そうだね」
葵は隣を歩く悠真を見る。
以前なら、この時間がずっと続くと思っていた。
来年も。
その次の年も。
同じように旅行して、同じように笑っていると思っていた。
でも今は。
この時間がいつまでも続くとは思えない。
だからこそ。
今、隣にいることを大切にしたかった。
「悠真」
「ん?」
「今日、来てよかったね」
「うん」
悠真は少しだけ笑った。
「もっと早く来ればよかったな」
「……そうだね」
二人の間に、少しだけ沈黙が落ちる。
でも、気まずくはなかった。
夕方。
二人は人通りの少ない道を歩いていた。
夕陽が建物の向こうに沈み始めている。
「なあ、葵」
「なに?」
「昔、京都に来たら何したいって言ってたか覚えてる?」
「え?」
「旅館に泊まるって」
「あ……」
葵は思い出した。
まだ付き合って一年も経っていなかった頃。
いつか京都に行こう。
そう言って、二人で旅行雑誌を見ていた。
「あと、朝早く起きて散歩する」
「それも言ってた」
「あと……」
「夜にコンビニ行く」
葵が先に言った。
二人で笑う。
「それ、京都じゃなくてもできるだろ」
「でも、旅行先でやるのがいいんじゃない?」
「確かに」
笑いながら歩く。
その瞬間。
葵はふと思った。
昔の約束を、全部叶える必要はないのかもしれない。
叶えられなかったからといって、四年間が失敗だったわけでもない。
今日、こうして来られた。
それだけで十分なのかもしれない。
「ねえ、悠真」
「ん?」
「私たち、全部やり直さなくてもいいんだね」
悠真が足を止めた。
「……うん」
少し考えてから、静かに答えた。
「やり直すんじゃなくて」
悠真は葵を見る。
「今の俺たちで、できることをやればいいんだと思う」
葵は頷いた。
「うん」
京都の夕暮れは、少しずつ夜に変わっていく。
二人はまた歩き出した。
昔の約束の続きを探すように。
でも、本当はもう分かっていた。
これは、昔に戻るための旅行ではない。
今の二人が、今の二人として過ごす時間なのだ。
それがいつまで続くのかは、まだ分からない。
それでも。
今日は、今日のままでいい。
葵は隣を歩く悠真を見た。
そして、何も言わずに笑った。
葵は仕事を終えて、自宅のソファに座っていた。
テーブルの上には、仕事用のバッグ。
その隣には、先日買ったばかりの本。
スマートフォンを手に取る。
悠真からメッセージが届いていた。
『今週もお疲れさま』
葵は笑って返信する。
『悠真もお疲れさま』
そこで一度、指が止まった。
何となく、もう一言送りたくなった。
『そういえば、京都のこと覚えてる?』
送信。
数分後。
『覚えてる』
短い返事だった。
葵は画面を見つめた。
京都。
付き合い始めた頃から、二人は何度もその話をしていた。
紅葉の時期に行きたい。
桜もいい。
有名なお寺を巡って、夜は小さな旅館に泊まって。
そんな話を何度もした。
けれど、実際には行かなかった。
仕事が忙しかったり。
予定が合わなかったり。
また今度にしよう、と言ったり。
いつでも行けると思っていた。
『行ってみない?』
葵が送る。
既読がつくまで、少し時間がかかった。
『今から?』
『うん。今度の休みに』
『急だな』
葵は思わず笑った。
『いつも「また今度」だったから』
しばらくして、悠真から返事が来た。
『……そうだな』
その一言を見て、葵は少しだけ胸が痛くなった。
でも、その痛みから目を逸らさなかった。
『嫌だったらいいよ』
すぐに返事が来た。
『行こう』
その三文字だけだった。
けれど、葵には十分だった。
翌週。
二人は京都駅で待ち合わせた。
葵が到着すると、先に来ていた悠真が手を上げる。
「おはよう」
「おはよう」
「久しぶりに見ると、京都駅ってやっぱり大きいな」
「何それ」
「いや、昔も来たことあるけど」
「修学旅行?」
「そう」
「私も」
そんな他愛のない話をしながら歩く。
観光客の間を抜け、駅を出る。
少し歩いたところで、悠真が言った。
「どこから行く?」
「決めてない」
「え?」
「京都に行くってことだけ決めてたから」
「それ、旅行っていうの?」
「いいじゃん」
葵が笑う。
「今日は、行きたいところに行こう」
「了解」
二人は地図を見ながら歩き始めた。
有名な場所を巡る。
写真を撮る。
途中で甘いものを食べる。
どれも特別なことではない。
けれど、葵は楽しかった。
悠真もよく笑っていた。
昼過ぎ。
小さな店に入り、二人で遅めの昼食を取った。
「これ、おいしい」
「葵、さっきからそればっかり言ってない?」
「だって、おいしいから」
「じゃあ、俺も食べてみようかな」
「一口だけね」
「分かってる」
箸を伸ばす悠真を見て、葵は笑った。
昔と同じ。
そう思った。
でも。
昔と同じなのに、昔とは違う。
そのことが不思議だった。
食事を終えて店を出る。
少し歩いたところで、悠真が言った。
「こういうの、久しぶりだな」
「うん」
「何も考えずに一緒に歩くの」
「そうだね」
葵は隣を歩く悠真を見る。
以前なら、この時間がずっと続くと思っていた。
来年も。
その次の年も。
同じように旅行して、同じように笑っていると思っていた。
でも今は。
この時間がいつまでも続くとは思えない。
だからこそ。
今、隣にいることを大切にしたかった。
「悠真」
「ん?」
「今日、来てよかったね」
「うん」
悠真は少しだけ笑った。
「もっと早く来ればよかったな」
「……そうだね」
二人の間に、少しだけ沈黙が落ちる。
でも、気まずくはなかった。
夕方。
二人は人通りの少ない道を歩いていた。
夕陽が建物の向こうに沈み始めている。
「なあ、葵」
「なに?」
「昔、京都に来たら何したいって言ってたか覚えてる?」
「え?」
「旅館に泊まるって」
「あ……」
葵は思い出した。
まだ付き合って一年も経っていなかった頃。
いつか京都に行こう。
そう言って、二人で旅行雑誌を見ていた。
「あと、朝早く起きて散歩する」
「それも言ってた」
「あと……」
「夜にコンビニ行く」
葵が先に言った。
二人で笑う。
「それ、京都じゃなくてもできるだろ」
「でも、旅行先でやるのがいいんじゃない?」
「確かに」
笑いながら歩く。
その瞬間。
葵はふと思った。
昔の約束を、全部叶える必要はないのかもしれない。
叶えられなかったからといって、四年間が失敗だったわけでもない。
今日、こうして来られた。
それだけで十分なのかもしれない。
「ねえ、悠真」
「ん?」
「私たち、全部やり直さなくてもいいんだね」
悠真が足を止めた。
「……うん」
少し考えてから、静かに答えた。
「やり直すんじゃなくて」
悠真は葵を見る。
「今の俺たちで、できることをやればいいんだと思う」
葵は頷いた。
「うん」
京都の夕暮れは、少しずつ夜に変わっていく。
二人はまた歩き出した。
昔の約束の続きを探すように。
でも、本当はもう分かっていた。
これは、昔に戻るための旅行ではない。
今の二人が、今の二人として過ごす時間なのだ。
それがいつまで続くのかは、まだ分からない。
それでも。
今日は、今日のままでいい。
葵は隣を歩く悠真を見た。
そして、何も言わずに笑った。