君が思い出になる前に

第67話 帰りたくない夜

 夕食を終えた二人は、宿へ戻る前に少しだけ歩くことにした。

 通りには、まだ観光客の姿があった。

 店先の明かりが道を照らし、どこかから楽しそうな笑い声が聞こえてくる。

「明日、何時に起きる?」

 悠真が聞いた。

「どうして?」

「朝、散歩するんだろ。昔、約束してたじゃん」

 葵は思わず笑った。

「覚えてたんだ」

「覚えてるよ。葵が言い出したことだし」

「そうだったっけ?」

「そうだよ。朝早く起きて、誰もいない道を歩きたいって」

 そう言われて、葵は少しずつ記憶をたどった。

 付き合い始めたばかりの頃、旅行雑誌を広げながら話したこと。

 京都の町を朝早く歩いて、喫茶店で朝ごはんを食べる。

 それから一日中、気の向くままに観光する。

 そんな計画だった。

 結局、当時は旅行そのものが実現しなかったけれど。

「じゃあ、七時?」

「早くない?」

「朝の散歩なんだから、そんなものでしょ」

「……頑張ります」

 悠真が大げさに肩を落とす。

 葵は声を立てて笑った。

 こんなふうに笑ったのは、いつ以来だろう。

 いや、最近も笑っていた。

 仕事仲間と話しているときも、一人で出かけたときも。

 けれど、悠真と一緒にいるときの笑い方は、やっぱり少し違う気がした。

 無理をしなくていい。

 何かを説明しなくても、分かってもらえることがある。

 長い時間を一緒に過ごしたからこそ、身についたものなのだろう。

 だからこそ、簡単には手放せない。

 宿に戻ると、葵は窓際に立った。

 遠くに見える町の明かりを眺める。

 旅行に来たのだと、ようやく実感が湧いてきた。

 ずっと行こうと言っていた京都。

 何度も話したのに、実現しなかった場所。

 こうして実際に来てみると、思っていたより普通だった。

 もちろん、きれいな景色もあったし、おいしいものも食べた。

 でも、特別な何かが起きたわけではない。

 ただ、悠真と歩いて、話して、笑った。

 それだけだった。

 それだけなのに、葵は胸がいっぱいになっていた。

 スマートフォンを手に取り、今日撮った写真を見返す。

 寺の門。

 昼食の膳。

 道端で見つけた小さな店。

 そして、悠真が撮ってくれた自分の写真。

 画面の中の葵は、思っていたより楽しそうに笑っていた。

 その顔を見て、少し安心した。

 私は、まだこんなふうに笑えるんだ。

 悠真がいなくても、自分の時間を楽しめるようになった。

 それでも、悠真と一緒にいる時間は、やっぱり大切だった。

 どちらか一方を選ばなくてもいいのなら。

 そう思った瞬間、胸の奥が苦しくなった。

 現実には、いつまでもこのままではいられない。

 悠真は地元にいる。

 自分はこの街で働いている。

 お互いに大切にしたい生活があり、簡単には変えられない事情がある。

 好きだから、全部を捨てて一緒にいよう。

 そんなふうに決められるほど、二人の生活は単純ではなかった。

 翌朝。

 葵が目を覚ますと、窓の外はすでに明るくなっていた。

 時計を見る。

 六時五十分。

 昨夜、七時に起きると約束した。

 葵は急いで身支度を整え、部屋を出た。

 待ち合わせ場所には、すでに悠真がいた。

「おはよう」

「おはよう。早いね」

「葵こそ」

「私が言い出したんだから」

「そうでしたね」

 悠真が笑う。

 二人は宿を出て、まだ人の少ない道を歩き始めた。

 朝の空気はひんやりしていた。

 店のシャッターは閉じたままで、道を行き交う人も少ない。

 昨夜の賑わいが嘘のようだった。

「気持ちいいね」

 葵が言うと、悠真が頷いた。

「うん。こういうの、いいな」

「でしょ?」

「もっと寝ていたかったけど」

「もう」

 葵は笑った。

 しばらく歩いたところで、小さな喫茶店を見つけた。

 ちょうど店が開いたところだった。

「入ってみる?」

「朝ごはん?」

「そう」

 二人は店に入り、窓際の席に座った。

 葵はトーストとコーヒーを頼み、悠真は卵料理のついたセットを選んだ。

「葵って、朝はパン派だったっけ?」

「平日はパンが多いかな。時間がないから」

「そっか」

「悠真は?」

「実家だと、ご飯が多いよ。母さんが朝から作ってくれるから」

 その言葉を聞いて、葵は少しだけ表情を変えた。

「お母さん、朝も作ってくれるんだ」

「うん。でも、最近は俺も手伝ってる」

「そうなんだ」

「洗い物とか、簡単な料理くらいだけど」

 悠真は照れくさそうに笑った。

「今まで、何もしてこなかったからさ」

 葵は、悠真が地元で暮らす日々を想像した。

 朝起きて、家族と食事をする。

 父親の通院に付き添うこともあるだろう。

 母親の疲れを気にかけながら、家のことを手伝う。

 自分が知らないところで、悠真は少しずつ生活を変えていた。

「大変?」

 葵が尋ねる。

「大変なこともあるよ。でも、帰ってきてよかったと思ってる」

 悠真はコーヒーを一口飲んだ。

「父さんと話す時間も増えたし。前は、こんなに一緒にいることなかったから」

「うん」

「もっと早く気づいていれば、って思うこともあるけどね」

 葵は何も言わずに聞いていた。

 悠真が自分の家族のことを話すのを、こんなにゆっくり聞いたのは初めてかもしれない。

 今までは電話で近況を聞いても、仕事の時間が気になったり、次の日の予定を考えたりしていた。

 聞いているつもりで、きちんと向き合えていなかったこともあったのだろう。

「葵は?」

「え?」

「最近、仕事以外で何か始めた?」

 少し考えてから、葵は答えた。

「まだ、何かを始めたってほどじゃないけど。一人で出かけることは増えたよ」

「うん」

「今までだったら、休日も仕事のことを考えてたと思う。でも、最近はそういう時間を減らしてる」

「いいことだと思う」

「私もそう思う」

 葵は笑った。

「自分のことなのに、今まであんまり考えてこなかったんだよね」

 悠真は静かに頷いた。

「俺もそうだった」

 二人はしばらく、食事を続けた。

 窓の外を人が通り始める。

 町が少しずつ目を覚ましていく。

 朝食を終え、店を出たあとも、二人はゆっくり歩いた。

 特別な話をしたわけではない。

 今日どこへ行くか。

 お土産を何にするか。

 帰りの電車に間に合うか。

 そんな話ばかりだった。

 それでも、葵は幸せだった。

 帰り道、悠真が言った。

「今日、帰りたくないな」

 葵は足を止めた。

 悠真も、自分の言葉に気づいたように苦笑した。

「旅行が終わるのが、って意味だけど」

「分かってるよ」

 葵は笑おうとした。

 けれど、うまく笑えなかった。

 本当は、自分も同じだった。

 今日が終わらなければいい。

 このまま、もう少し一緒にいられたらいい。

 そう思っていた。

 でも、旅行が終われば、それぞれの生活に戻る。

 悠真は地元へ。

 自分は仕事のあるこの街へ。

 また離れて暮らす日々が始まる。

「……私も、帰りたくない」

 葵は正直に言った。

 悠真は何も答えなかった。

 ただ、少しだけ寂しそうに笑った。

 二人は再び歩き始めた。

 帰りたくないと思えるほど、楽しい時間だった。

 それは間違いない。

 けれど、帰りたくないからといって、帰らずにいることはできない。

 大切な時間を過ごせたことと、その時間をこれからも続けられることは、同じではないのだ。

 葵は隣を歩く悠真を見た。

 この人が好きだ。

 今も、ちゃんと好きだ。

 だからこそ、旅行が終わったあとも、考えなければならない。

 自分はどこで、どんなふうに生きていきたいのか。

 悠真は、どんな未来を望んでいるのか。

 二人の望む未来は、同じ方向を向いているのだろうか。

 答えを出すのは、まだ怖かった。

 それでも、もう目を逸らすつもりはなかった。
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