君が思い出になる前に

第68話 帰る場所

 京都駅に着いた頃には、昼を少し過ぎていた。

 帰りの電車まで、まだ時間がある。

「お土産、買わなくていいの?」

 悠真に聞かれ、葵は駅構内の店を見渡した。

「うーん。職場には買おうかな」

「会社の人に?」

「そう。休みを取ったからね」

「律儀だな」

「普通でしょ」

 葵は笑いながら、菓子の並んだ棚へ向かった。

 職場用のお土産を選び、家族に渡すものも少しだけ買った。

 悠真も実家へのお土産を選んでいる。

「それ、お父さんが好きそうだね」

「そうなんだよ。甘いもの、結構好きでさ」

 悠真は箱を手に取った。

「母さんにも、別のを買っていこうかな」

「二つも?」

「いつも世話になってるから」

 その言葉に、葵は何も言わず頷いた。

 悠真は、もう自分の家族と暮らす日々に馴染み始めている。

 以前なら、週末の予定を立てるときも、まず自分たち二人の都合を考えていた。

 今は違う。

 父親の体調がどうか。

 母親が疲れていないか。

 家で自分にできることは何か。

 悠真の生活の中には、そうしたことが当たり前に組み込まれていた。

 それが寂しいわけではない。

 むしろ、悠真が大切なものを大切にしていることは、嬉しかった。

 ただ、自分がその生活のどこにいるのかは、まだ分からなかった。

「葵?」

 呼ばれて顔を上げる。

「どうした?」

「ううん。何でもない」

 葵は手にしていた菓子の箱をかごに入れた。

 会計を済ませ、二人は改札へ向かった。

 ホームに着くと、帰りの電車はまだ来ていなかった。

 ベンチに並んで座る。

 行きの電車に乗る前は、久しぶりの旅行に浮かれていた。

 何を食べようか。

 どこへ行こうか。

 そんなことばかり考えていた。

 今は、帰ったあとのことが頭に浮かんでいる。

 明日は日曜日。

 洗濯をして、部屋を片づけて、月曜日からの仕事に備える。

 悠真も地元に戻れば、家族との暮らしが待っている。

 また、離れた場所でそれぞれの日常を過ごすのだ。

「楽しかったね」

 葵が言った。

「うん。楽しかった」

「来られてよかった」

「本当に」

 悠真は少し笑ってから、足元に置いた荷物を見た。

「もっと早く来ればよかったな」

 その言葉を、葵は昨日も聞いた気がした。

「そうだね」

「でも、今だったからよかったのかもしれない」

 葵は悠真の顔を見た。

「今だったから?」

「うん。昔だったら、旅行に来たことだけで満足してたと思う」

 悠真は少し考えながら話した。

「楽しかった、また来ようって。それで終わってたんじゃないかな」

「……そうかも」

「でも、今はそうじゃないだろ」

 葵はすぐには答えられなかった。

 確かに、今の自分は違う。

 ただ楽しいだけでは終われない。

 この時間が大切だからこそ、これからのことを考えてしまう。

「俺、昨日から考えてたんだ」

 悠真が言った。

「何を?」

「帰ったら、またいつもの生活に戻るだろ」

「うん」

「その生活の中で、俺たちがどうやって一緒にいられるのかって」

 葵は膝の上で手を重ねた。

 ずっと、考えないようにしていたことだった。

「電話したり、休みを合わせたり。会おうと思えば会える」

 悠真は続けた。

「でも、それを何年も続けていくのかって考えると……正直、分からないんだ」

 葵は窓の向こうを見た。

 ホームに電車が入ってくる。

 風が吹き、髪が頬にかかった。

「私も、分からない」

 そう答えるのが精いっぱいだった。

 悠真は頷いた。

「うん。今すぐ答えを出してほしいわけじゃないんだ」

「分かってる」

「ただ、楽しかったから、このままでいいって思うのも違う気がして」

 その言葉に、葵の胸が痛んだ。

 楽しかった。

 もう少し一緒にいたかった。

 できることなら、次の旅行の約束もしたかった。

 けれど、今日の楽しさだけで、二人の未来が決まるわけではない。

「……うん」

 葵は小さく頷いた。

 電車がホームに止まり、ドアが開く。

 二人は立ち上がった。

 乗り込む前に、悠真が言った。

「また、ゆっくり話そう」

「うん」

「今度は、ちゃんとこれからのこと」

「うん。私も話したい」

 それだけ約束して、二人は別々の車両へ向かった。

 帰りの電車の中で、葵は窓の外を眺めていた。

 京都で撮った写真を見返す。

 並んで歩く二人。

 食事を前に笑う自分。

 何気なく撮った街並み。

 どの写真にも、楽しかった時間が残っている。

 この旅行を、いつか寂しい思い出として振り返る日が来るのだろうか。

 そう考えて、葵はスマートフォンを伏せた。

 今は、まだ分からない。

 ただ一つ確かなのは、あの時間をなかったことにはしたくない、ということだった。

 京都へ行こうと決めたとき、葵は昔の約束を一つ叶えたいと思っていた。

 でも、帰りの電車に揺られながら思う。

 叶えたかったのは、旅行だけではなかったのかもしれない。

 ずっと後回しにしてきた二人の気持ちを、今度こそ確かめたかったのだ。

 それでも、答えはまだ出ていない。

 窓の外の景色が、少しずつ見慣れたものに変わっていく。

 葵はスマートフォンを手に取り、悠真にメッセージを送った。

『今日はありがとう。京都、本当に楽しかった』

 しばらくして返事が来た。

『俺も。誘ってくれてありがとう』

 葵はその文面を読み、短く返信した。

『また話そうね』

 送信してから、スマートフォンをバッグにしまった。

 帰る場所は、それぞれにある。

 今の二人には、それが当たり前だった。

 けれど、いつか同じ場所を帰る場所にできるのか。

 それとも、別々の場所で生きていくのか。

 その答えから、もう逃げることはできない。

 葵は窓の外を見つめたまま、静かに息を吐いた。
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