氷の公爵様は、愛を知らない令嬢を離してくれない

第二十一話 変わった毎日

「奥様」

「……」

「奥様、朝でございます」

「……ん」

「旦那様がお待ちです」

「……旦那様?」

 その言葉に、エレノアはゆっくり目を開けた。

 目の前には、いつもの侍女――マリア。

「おはようございます、奥様」

「……おはようございます」

「昨夜はよく眠れましたか?」

「はい」

 エレノアは大きく伸びをする。

 マリアはカーテンを開けた。

 朝の光が部屋へ差し込む。

「今日はゆっくりされますか?」

「どうしましょう」

「旦那様は朝食を取られております」

「では、行きます」

「かしこまりました」

 エレノアはベッドから降りた。



 ◇

 廊下を歩く。

 以前は。

 この長い廊下を歩くことすら緊張していた。

 誰とすれ違っても。

 頭を下げるだけ。

 何を話せばいいのか分からなかった。

 自分はここにいていいのか。

 何をすればいいのか。

 そんなことばかり考えていた。

 けれど。

「おはようございます、奥様!」

「おはようございます」

「結婚式、とても素敵でした!」

「ありがとうございます」

「奥様のドレス、本当にお似合いでした!」

「……ありがとうございます」

 今では。

 自然に挨拶をしてくれる人がいる。

 エレノアも笑って返す。

 少し前の自分なら。

 考えられなかった。




 ◇

 食堂へ入る。

「おはよう、エレノア」

「おはようございます、旦那様」

 レオンハルトが顔を上げる。

「よく眠れたか?」

「はい」

「昨日は疲れただろう」

「大丈夫です」

 席につく。

 すぐに料理が運ばれてくる。

「……」

 エレノアは並べられた朝食を見る。

 温かいパン。

 卵料理。

 スープ。

 果物。

 昔なら。

 これだけの食事が自分の前に並ぶことなど、ほとんどなかった。

両親、弟の食事が第一優先だった。

 それが普通だった。

「どうした?」

 レオンハルトの声で我に返る。

「……何でもありません」

「そうか?」

「はい」

 エレノアはパンを一口食べる。

 温かい。

 美味しい。

「……美味しいです」

「それならよかった」

 レオンハルトが微笑む。

 その顔を見ると。

 また胸の奥が温かくなる。



 ◇

 朝食の後。

 エレノアは庭へ向かった。

「奥様、おはようございます」

「おはようございます」

 庭師のトーマスが笑う。

「今日は花が綺麗ですよ」

「本当ですね」

 庭には色とりどりの花が咲いている。

 初めてこの庭を見た日のことを思い出す。

 あの日は。

 ただ何となく歩いていた。

 何をすればいいのか分からなかったから。

 それが今では。

「この花、前より大きくなりましたね」

「お気づきでしたか」

「はい」

「毎日見てくださっているからですね」

 エレノアは少し笑った。



 ◇

 庭を歩きながら。

 エレノアはこれまでのことを思い返していた。

 公爵家へ来た日。

 大きな屋敷。

 知らない人々。

 そして。

 初めて会ったレオンハルト。

『愛することはない』

 そう言われた。

 あの時は。

 それでいいと思っていた。

 自分には愛される価値などない。

 ただ。

 言われたことをこなして。

 迷惑をかけなければいい。

 そう思っていた。

 けれど。

 レオンハルトは違った。

食事を与えてくれた。

 無理をしていないかと何度も気にかけてくれた。

 庭へ行くことを許してくれた。

 街へ出ることも。

 好きなものを選ぶことも。

 何もかも。

「……」

 エレノアは足を止める。

 そして。

 小さく笑った。



 ◇

 最初は。

 何をすればいいのか分からなかった。

 けれど。

 マリアが散歩を勧めてくれた。

 庭師のトーマスと話した。

 料理人のローズとも仲良くなった。

 初めて自分の好きな食べ物を知った。

 街へ行った。

 買い物をした。

 寂しいことも。

 嬉しいことも。

 少しずつ。

 言えるようになった。

 そして。

 自分の好きなドレスを選んだ。

「……」

 エレノアは昨日まで着ていたドレスを思い出す。

 純白のドレス。

 淡い青の花。

 鏡に映った自分。

 あの時。

 自分は笑っていた。

 昔の自分なら。

 そんなことはなかった。



 ◇

「奥様?」

 マリアの声。

「はい?」

「どうされました?」

「少し考え事をしていました」

「何を?」

 エレノアは庭を見る。

「……私、変わったなと思って」

「はい?」

「ここへ来たばかりの頃は、何も分かりませんでした」

 マリアが優しく微笑む。

「今も分からないことは多いです」

「でも」

 エレノアは胸に手を当てる。

「前より、毎日が楽しいです」

「……」

「朝起きるのも嫌ではありません」

「それは素晴らしいことですね」

「はい」

 エレノアは笑う。

「明日は何をしようかなって、考えるようになりました」

 その言葉に。

 マリアの目が少し潤んだ。

「本当に……お変わりになりましたね

最初にお会いした頃の奥様は、

とても静かでした」

「……はい」

「何を言われても『はい』としか仰らなくて」

「……」

「今では」

 マリアが笑う。

「『これは嫌です』『これは好きです』と仰るようになりました」

「……確かに」

「それに」

「......?」

「笑うようになりました」

 エレノアは少し黙った。

 そして。

「……それは、皆さんのおかげです」




 ◇

 その時。

「エレノア」

 聞き慣れた声。

 振り返る。

「旦那様」

 レオンハルトがこちらへ歩いてくる。

「ここにいたのか、探したぞ」

 レオンハルトはエレノアの隣に立つ。

「何をしていた?」

「お庭を見ていました」

「そうか」

「それから」

 エレノアは少し考える。

「昔のことを思い出していました」

「……」

 レオンハルトが静かに彼女を見る。

「ここへ来たばかりの頃は、毎日が怖かったです」

 エレノアは続ける。

「でも今は」

 隣を見る。

「怖くありません」

「……そうか」

「この屋敷が好きです」

「……」

「庭も」

「そうか」

「ローズさんも、トーマスも、マリアも」

 そして。

「旦那様も」

 レオンハルトの表情が少しだけ柔らかくなる。

「そうか」

「はい」

「俺も君がいてくれてよかったと思っている」

「……」

 エレノアが微笑む。

「ありがとうございます」



 ◇

 屋敷へ戻る。

 廊下を歩きながら。

 エレノアは思う。

 自分の人生は。

 ここへ来た日から変わった。

 売られて。

 知らない場所へ連れてこられて。

 最初は。

 ただ生きていくために、ここにいるつもりだった。

 でも。

 今は違う。

 朝になれば。

 美味しいご飯が食べられる。

 庭へ行けば。

 話をしてくれる人がいる。

 困った時には。


頼れる人がいる。

 そして。

 帰る場所がある。

「……」

 エレノアはふと立ち止まる。

「旦那様」

「何だ?」

「今日も一日、よろしくお願いします」

 レオンハルトは少し驚いたように目を瞬く。

 それから。

「ああ」

 優しく笑った。

「こちらこそ」

 エレノアも笑う。

 もう。

 何も感じない少女ではない。

 自分の好きなものを知って。

 嬉しいことを嬉しいと言えて。

 寂しい時には寂しいと言える。

 そして。

 誰かを大切だと思えるようになった。

 まだ。

 その気持ちが何という名前なのかは分からない。

 けれど。

 エレノアは思う。

 ――明日も。

 きっと今日より、少し楽しい。

 そう思える毎日が。

 今は、とても幸せだった。
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