十年前なら、あなたを好きになれたのに。―10歳下の後輩に本気で恋をしました―

第10話 私だから?

第10話 私だから?
翌日。
午後から予定している宴会部との打ち合わせに向けて資料を整理していると、事務所の扉が開いた。
「お疲れさまです」
聞き慣れた声。
顔を上げなくても分かるようになってしまった。
「お疲れさま」
「昨日言ってた打ち合わせ、十三時からですよね?」
「そう。第三会議室」
「了解です」
一ノ瀬くんが私の机の前まで来る。
「……なに?」
「いや」
「何か聞きたいことあるんじゃないの?」
「今日はないです」
「珍しい」
「俺だって質問以外で来ますよ」
「じゃあ何しに来たの?」
「打ち合わせの場所確認」
「メールでよくない?」
「あ」
一ノ瀬くんが笑う。
「確かに」
「わざわざ来る必要なかったでしょ」
「まあ、ついでなんで」
「営業部、階違うけど?」
「細かいなぁ」
そう言って帰っていく。
……何しに来たんだろう。
十三時。
第三会議室には、私と一ノ瀬くん。
宴会部の担当者が二人。
当日のVIP受付と披露宴会場への導線について、最終確認を進めていた。
「正面ロビーが混雑した場合、VIPの皆様は東側入口へ切り替えます」
資料を指しながら説明する。
「ただ、直前に変更するとクローク側が対応できない可能性があります。前日の宿泊状況を見て、その時点で決定したいです」
「分かりました」
「一ノ瀬くん、営業側は?」
返事がない。
「一ノ瀬くん?」
顔を上げる。
一ノ瀬くんは私を見ていた。
「……なに?」
「はい?」
「聞いてる?」
「聞いてますよ」
「本当に?」
「なんで疑うんですか」
「じゃあ今、何の話してた?」
一ノ瀬くんが資料へ視線を落とす。
「正面ロビーが混雑した場合のVIP導線。東側入口に変更するなら当日じゃなくて、前日の宿泊状況を見て決める。あとクロークにも事前共有」
「……聞いてたんだ」
「聞いてますって」
「じゃあなんでこっち見てたの?」
口にしてから。
一瞬、空気が止まった。
「説明してる人見るの、普通じゃないですか?」
「……まあ、そうだけど」
宴会部の担当者が小さく笑う。
「水野主任、厳しいですね」
「違うんです。いつもなら資料見ながら聞いてるから」
「俺の普段の聞き方まで覚えてるんですか?」
「仕事一緒にしてたら分かるでしょ」
「なるほど」
一ノ瀬くんが少し笑う。
なんだか。
昨日から調子が狂う。
打ち合わせは四十分ほどで終了した。
会議室を出て、時計を見る。
十三時四十七分。
「水野主任」
「なに?」
「昼、食べました?」
「……まだ」
「やっぱり」
「何、その『やっぱり』って」
「十二時過ぎても一回も席立ってなかったんで」
足が止まる。
「見てたの?」
「え?」
「私が席立ったかどうか」
「ああ。さっき婚礼部行ったとき、主任ずっと仕事してたじゃないですか」
「それだけ?」
「それだけですけど」
何でもないように答える。
「午後も打ち合わせあります?」
「十五時半から」
「じゃあ今食っといた方がいいですよ」
「分かってる」
「本当に?」
「一ノ瀬くん、最近私の上司みたいになってない?」
「主任が飯食わないからでしょ」
「食べてるって」
「十六時にサンドイッチは昼飯じゃないです」
「まだ覚えてるの?」
「覚えてますよ」
また。
そういうところ。
「俺、コンビニ行くんですけど、なんか買ってきます?」
「いい。自分で行く」
「じゃあ一緒に行きます?」
「なんでそうなるの」
「俺も昼なんで」
一ノ瀬くんはもうエレベーターのボタンを押している。
「ほら」
「……はいはい」
結局、一緒にホテルを出た。
今日は時間がないから、近くのカフェでサンドイッチでも買うことにした。
「前の洋食屋行きたいんですけどね」
「十五時半に間に合わない」
「ですよね」
「またハンバーグ?」
「当然です」
「好きだね」
「あれ普通に美味かったじゃないですか」
「一ノ瀬くん、すごい顔して食べてたもんね」
「どんな顔ですか」
「二十四歳の顔」
「意味分かんないです」
信号が青になる。
横断歩道を渡っている途中。
後ろから車が左折してきた。
まだ距離はある。
別に危ないわけではない。
それでも。
一ノ瀬くんが自然に私の右側へ移った。
車道側。
本当に自然だった。
本人は何も気にしていない。
そのまま話を続けている。
「そういえば昨日の資料、かなり参考になりました」
「……あ、うん」
「三百人規模だと、やっぱ当日変更多いですね」
「そうだね」
「水野主任?」
「なに?」
「聞いてます?」
さっきと逆だ。
「聞いてるよ」
「本当に?」
「さっきの仕返し?」
「バレました?」
一ノ瀬くんが笑う。
「子ども」
「十歳下なんで」
「そういうときだけ年齢使わないで」
「便利ですね、十歳差」
その言葉に。
なぜか少しだけ引っかかった。
十歳差。
そう。
私と一ノ瀬くんは十歳違う。
分かりきっていることなのに、本人の口から聞くと妙に現実味があった。
「水野主任?」
「なに?」
「今度こそ本当に聞いてないでしょ」
「聞いてるって」
「怪しい」
「ほら、着いたよ」
誤魔化すようにカフェの入口へ向かう。
一ノ瀬くんが先にドアを開けた。
そのまま押さえている。
「どうぞ」
「……ありがとう」
「はい」
それだけ。
席に着いても椅子を引いてくれるわけじゃない。
注文だって別々。
特別扱いされている感じなんてない。
なのに。
なぜか細かいところばかり目につく。
サンドイッチを食べながら、一ノ瀬くんがスマートフォンを確認する。
「あ、神崎様からメール来てる」
「何か変更?」
「いや。お父様から当日の車両についてです」
仕事の顔に戻る。
さっきまでハンバーグの話をしていた人とは思えない。
「一ノ瀬くんってさ」
「はい?」
「誰にでもこんな感じなの?」
一ノ瀬くんの手が止まった。
「……こんな感じ?」
「いや」
自分でも何を聞いているんだろうと思う。
「なんでもない」
「気になるんですけど」
「忘れて」
「無理ですよ。急に『誰にでもこんな感じなの?』って言われたら」
「だから、なんでもないって」
「例えば?」
「しつこい」
「すみません」
口では謝っているのに、全然反省していない顔。
私はコーヒーを一口飲む。
「そういうとこ」
「え?」
「……なんでもない」
自分でも説明できない。
忙しいのを見て、聞きに来るのをやめるところ。
昼を食べたか覚えているところ。
車道側を歩くところ。
ドアを押さえるところ。
全部。
一つずつなら、何でもない。
「水野主任だからじゃないですか?」
「え?」
顔を上げた。
一ノ瀬くんが私を見ている。
「俺がこんな感じなの」
一瞬。
胸の奥が跳ねた。
「……私だから?」
「はい」
一ノ瀬くんが頷く。
「今回一番世話になってますし」
「……ああ」
「婚礼のこと、めちゃくちゃ教えてもらってるじゃないですか。だから俺も、できることくらいやろうかなって」
「ああ、そういう意味ね」
「他にどういう意味があるんです?」
「ない」
「今ちょっと変じゃなかったです?」
「変じゃない」
「本当に?」
「早く食べないと戻れないよ」
「はーい」
一ノ瀬くんは何も気にしていない。
私はサンドイッチを一口食べる。
……そういう意味ね。
仕事で一番関わっているから。
世話になっているから。
それだけ。
当たり前じゃない。
何を勘違いしてるんだろう。
「水野主任」
「ん?」
「コーヒー冷めますよ」
「あ、うん」
カップを持つ。
少しぬるくなっていた。
ホテルへ戻る道。
一ノ瀬くんはまた隣を歩いている。
仕事の話をしながら。
時々笑いながら。
さっきと何も変わらない。
なのに私は、一つだけ引っかかっていた。
『水野主任だからじゃないですか?』
そのあとに続いた言葉まで、ちゃんと分かっている。
仕事だから。
お世話になっているから。
それだけ。
……なのに。
最初の一言を聞いた瞬間。
私は、何を思った?
何を期待した?
「水野主任?」
「なに?」
「また聞いてないでしょ」
「聞いてる」
「じゃあ俺、今なんて言いました?」
「……」
「ほら」
「ごめん。もう一回」
「珍しいですね」
「そういう日もあるの」
「疲れてるんじゃないですか?」
「誰のせいだと思ってるの」
「俺?」
「半分くらい」
「結構高いな」
一ノ瀬くんが笑う。
私も笑った。
それでいい。
今は、それでいい。
十歳下の後輩。
頼りになる仕事相手。
少し生意気で。
質問が多くて。
一緒にいると、案外楽しい。
ただ、それだけ。
私はそう思うことにした。
でも。
ホテルの自動ドアをくぐる直前。
先に入った一ノ瀬くんが振り返り、私が来るまでドアの前で待っている。
そんな何でもない姿を見て。
また少しだけ、胸の奥がざわついた。
……困るな。
こういうの。
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