十年前なら、あなたを好きになれたのに。―10歳下の後輩に本気で恋をしました―

第9話 近い

第9話 近い
神崎さんたちの結婚式まで、あと十一日。
「水野主任、去年の披露宴の進行表って残ってます?」
午前十時過ぎ。
パソコンに向かっていた私は、声のした方を見る。
一ノ瀬くんが立っていた。
「どの披露宴?」
「三百人以上のやつです。今回と規模が近い案件があれば参考にしたくて」
「ああ。それなら……」
私は立ち上がり、事務所の奥にある資料棚へ向かった。
「たしか去年の秋に一件あったはず」
「データじゃないんですか?」
「データもあるけど、当日の書き込みまで残ってるのは紙」
「なるほど」
「こういうのは現場のメモの方が参考になったりするから」
「勉強になります」
最近、一ノ瀬くんの質問にも慣れてきた。
最初の頃は、どうしてわざわざ私のところまで聞きに来るんだろうと思っていた。
メールで済むようなことでも来る。
忙しいときだけメールが飛んでくる。
その使い分けも、なんとなく分かってきた。
「えーっと……」
資料棚の上段を見る。
あった。
去年十月。
三百二十名。
「あれだ」
手を伸ばす。
……届かない。
「ちょっと待って」
もう一度。
背伸びをする。
指先がファイルの端に触れる。
あと少し。
「主任」
「取れるから」
「いや」
「大丈夫」
「それ絶対、落としますよ」
「落とさないって」
さらに背伸びをした瞬間。
後ろから腕が伸びた。
「これですよね?」
「……」
一ノ瀬くんが、私の頭の上からファイルを抜き取った。
近い。
思ったよりずっと近くに、一ノ瀬くんがいる。
シャツの袖。
腕。
微かに感じる香水とは違う匂い。
たぶん柔軟剤か何か。
「水野主任?」
「……え?」
「これで合ってます?」
「あ、うん」
一歩離れる。
「ありがとう」
「どういたしまして」
それだけ。
一ノ瀬くんは何も気にした様子もなくファイルを開いた。
「三百二十名か。確かに近いですね」
「……そうだね」
「これ、借りてもいいですか?」
「いいよ。持ち出しはしないでね」
「了解です」
「あと、その付箋」
「これですか?」
「当日の変更点。そこが一番参考になると思う」
「なるほど」
普通だ。
いつもの一ノ瀬くん。
なのに。
私は自分の席に戻りながら、さっきの数秒を思い出していた。
……今、何?
別に何もされていない。
資料を取ってくれただけ。
そもそも私が届かなかったから、一ノ瀬くんが代わりに取った。
それだけのこと。
「水野主任」
「はいっ」
思ったより大きな声が出た。
一ノ瀬くんが目を丸くする。
「……どうしました?」
「なんでもない」
「そうですか?」
「なに?」
「この付箋なんですけど」
「うん」
仕事。
仕事だから。
私は椅子から立ち上がった。
「どれ?」
「ここです」
一ノ瀬くんの隣から資料を覗き込む。
『新郎側主賓、到着十五分遅れ』
「ああ、これね。当日、道路が混んでて到着が遅れたの」
「その場合って披露宴の開始も遅らせるんですか?」
「ケースバイケース。このときは主賓挨拶があったから五分だけ遅らせて、残りは進行で調整した」
「へえ……」
「だから神崎さんたちの当日も、絶対に予定通り進むとは思わない方がいいよ」
「予定通りにするための進行表じゃないんですか?」
「予定通りにいかなかったときに戻すための進行表でもあるの」
一ノ瀬くんが私を見る。
「……なるほど」
「なに?」
「いや、今の格好いいなと思って」
「はいはい」
「本当に思ったんですけど」
「いいから仕事して」
「はーい」
席へ戻る。
いつも通り。
本当に、いつも通りなのに。
なんだか今日は調子が狂う。
午後。
宴会部との打ち合わせを終えて事務所へ戻る途中だった。
「あ、一ノ瀬くん」
廊下の先に一ノ瀬くんがいた。
女性スタッフと話している。
営業部の子だ。
たしか入社三年目。
二人とも笑っていた。
「だからそれ、俺じゃないって」
「絶対一ノ瀬さんですよ」
「違うって」
「じゃあ誰ですか?」
「知らないよ」
楽しそう。
私はそのまま通り過ぎようとして。
なぜか、もう一度だけ見た。
一ノ瀬くんが笑っている。
仕事中に私と話すときとは少し違う。
もっと気の抜けた、二十四歳らしい笑い方。
……ああ。
ああいう顔で笑うんだ。
「水野主任」
気づかれた。
「お疲れさまです」
女性スタッフもこちらを向く。
「お疲れさまです」
「お疲れさま」
「打ち合わせ終わったんですか?」
一ノ瀬くんが聞く。
「今終わったところ」
「どうでした?」
「変更なし。予定通り」
「よかった」
「じゃあ私、戻るから」
「はい。あとで一個確認お願いします」
「メールで送って」
「了解です」
それだけ言って歩き出す。
別に何もおかしくない。
後輩が同僚と話していただけ。
それなのに。
エレベーターを待ちながら、また考えてしまう。
一ノ瀬くんって、ああいう顔で笑うんだ。
「……何考えてるんだろ、私」
小さく呟いた。
午後四時十二分。
パソコンの右下にメールの通知が出た。
差出人――一ノ瀬 悠。
さっき言っていた確認だろう。
メールを開く。
件名:神崎様披露宴/VIP受付動線について
水野主任
お疲れさまです。一ノ瀬です。
VIP受付の動線について一点確認です。
先ほど宴会部より、当日は正面ロビーの混雑が予想されると共有がありました。
現在の進行表では正面入口から受付へご案内する予定ですが、混雑状況によっては東側入口からのご案内に切り替えることは可能でしょうか。
営業側の配置人数にも関係するため、ご確認いただけると助かります。
よろしくお願いいたします。
営業部 一ノ瀬 悠
「……ちゃんとしてる」
口ではあんな感じなのに、メールは相変わらずきっちりしている。
返信を打つ。
件名:Re:神崎様披露宴/VIP受付動線について
一ノ瀬くん
お疲れさまです。水野です。
東側入口への変更は可能です。
ただし当日の急な切り替えだとクローク側との連携が難しくなるため、前日までに判断しましょう。
明日の打ち合わせで宴会部にも確認しておきます。
よろしくお願いします。
婚礼部 水野
送信。
いつもと同じやり取り。
今まで何度も繰り返してきた。
なのに。
受信トレイに戻った私は、なぜかもう一度そのメールを見る。
『一ノ瀬 悠』
送り主の名前。
たった四文字。
それを見ただけで、午前中のことを思い出した。
頭の上から伸びてきた腕。
思ったより近かった距離。
そして、廊下で見た笑顔。
「……いやいや」
何を考えてるの。
十歳下。
後輩。
仕事相手。
最近ちょっと頼りになるようになった。
それだけ。
それ以上でも、それ以下でもない。
私はメールを閉じた。
「仕事しよ」
誰に言うでもなく呟いて、進行表を開く。
十一日後には神崎さんたちの結婚式。
今はそれだけ考えていればいい。
そう思った。
――五分後。
新着メールの通知が出た。
差出人――一ノ瀬 悠。
反射的に開いてしまった。
件名:Re:神崎様披露宴/VIP受付動線について
水野主任
ありがとうございます。
明日の打ち合わせ、俺も参加します。
よろしくお願いします。
追伸
さっき資料取っただけで怒られた気がするんですが、俺なんかしました?
営業部 一ノ瀬 悠
「……は?」
思わず画面を二度見する。
怒ってない。
というか。
気づいてたの?
返信しようとして、手が止まる。
『怒ってません』
これだけでいい。
なのに、なぜか少し考えてしまう。
結局。
件名:Re:神崎様披露宴/VIP受付動線について
怒ってません。
あと、業務メールに追伸でどうでもいいこと書かないでください。
水野
送信。
十秒もしないうちに通知が来た。
件名:Re:神崎様披露宴/VIP受付動線について
了解しました。
安心しました。
一ノ瀬
「……仕事しなさいよ」
思わず笑ってしまった。
その瞬間。
自分が笑ったことに気づいて、指が止まる。
一ノ瀬くんからのメールを見て。
私は今、笑った。
「…………」
いや。
だから。
十歳下。
後輩。
それだけ。
そう自分に言い聞かせながら、メールを閉じる。
でも。
さっきまでただの文字だったはずの『一ノ瀬 悠』という名前が。
今日はなぜか、少しだけ目に残った。
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