十年前なら、あなたを好きになれたのに。―10歳下の後輩に本気で恋をしました―
第12話 前日
第12話 前日
神崎さんたちの結婚式まで、あと一日。
「装花、搬入入りました!」
「そのまま宴会場へお願いします。配置は昨日共有した図面通りで!」
「水野主任、席札の最終分届いてます」
「確認するからこっち置いて」
「引き出物、三百五十名分搬入完了です」
「予備は?」
「十セットあります」
「了解」
朝からホテル全体が慌ただしい。
明日。
ついに本番だ。
三ヶ月半。
長かったような。
あっという間だったような。
そんなことを考えている暇もなく、私は宴会場へ向かう。
扉を開けると、広い会場にはすでに円卓が並べられていた。
三百五十名。
普段見慣れているはずの宴会場なのに、この規模になるとさすがに圧倒される。
「水野主任」
奥から呼ばれる。
一ノ瀬くんだった。
「VIPの受付配置、確認終わりました」
「あ、じゃあ次――」
「警備にも共有済みです」
「……じゃあ車椅子の方の導線」
「正面と東側、両方作ってあります」
「クロークは?」
「どっちから入っても対応できるようにしてもらいました」
「雨だった場合は?」
「正面入口に一本化します。車寄せから会場まではスタッフ一名つけます」
言うことがなくなった。
「……早いなぁ」
「誰に鍛えられたと思ってるんですか」
得意そうな顔。
「まだ褒めてないけど」
「今のは褒めてました」
「どうかな」
「水野主任、最近俺に確認すること減りましたよね」
「一ノ瀬くんが自分でやるようになったからでしょ」
「成長ですね」
「自分で言う?」
「言ってくれないんで」
「はいはい。成長した、成長した」
「雑だなぁ」
笑いながら、一ノ瀬くんが資料を渡してくる。
確認する。
本当に問題ない。
三ヶ月半前。
初めて婚礼部に来たときは、何も分かっていなかった。
何をするにも質問。
メールで済むことまで、わざわざ聞きに来る。
正直。
少し面倒だと思っていた。
それが今では。
「一ノ瀬くん」
「はい?」
「これで大丈夫」
「よし」
普通に戦力になっている。
「じゃあ俺、営業戻ります」
「うん。また何かあったら連絡して」
「了解です」
一ノ瀬くんが会場を出ていく。
その背中を見送ってから、私はもう一度会場を見渡した。
明日。
ここが三百五十人で埋まる。
想像すると。
少しだけ緊張してきた。
夕方。
装花も入り、テーブルクロスが掛けられ、席札も並び始めた。
何もなかった宴会場が。
少しずつ結婚式の会場になっていく。
十七時過ぎ。
「水野さん」
聞き覚えのある声に振り返る。
「神崎さん」
新郎新婦が立っていた。
明日の最終確認のためにホテルへ来てもらっていた。
「いよいよ明日ですね」
新婦が少し緊張したように笑う。
「はい。体調は大丈夫ですか?」
「なんとか。でも今日寝られる気がしなくて」
「寝てください。明日長いですよ」
「ですよね」
新郎が笑う。
「僕は普通に寝られそうです」
「絶対そう言うと思った」
「昨日も十時に寝たし」
「私は二時まで起きてたのに」
二人のやり取りに、思わず笑ってしまう。
「明日は朝も早いので、今日はなるべくゆっくりしてください」
「はい」
最終進行。
集合時間。
衣装。
ご親族の動き。
車両。
一つずつ確認していく。
大きな変更はない。
「以上です」
資料を閉じる。
「明日は、私たちに任せてください」
新婦が私を見る。
そして。
「水野さん」
「はい」
「本当にありがとうございました」
「……まだ終わってませんよ」
「分かってます。でも」
新婦が会場を見る。
「ここまで来られたの、水野さんのおかげです」
「そんなことないですよ」
「最初、三百五十人って聞いたとき、私、本当にできるのかなって思ってて」
「はい」
「途中で何回も変えたし、わがままも言ったし」
「それが私の仕事ですから」
「でも」
新婦が笑う。
「水野さんにお願いして、本当によかったです」
胸の奥が温かくなる。
この瞬間。
何年やっても慣れない。
「……ありがとうございます」
自然に笑顔になった。
「明日、絶対にいい日にしましょう」
「はい」
そのとき。
「お疲れさまです」
会場の入口から声がした。
「あ、一ノ瀬さん」
「神崎様、お疲れさまです」
一ノ瀬くんがこちらへ来る。
「明日の車両について、最後に一点だけ確認お願いできますか?」
「もちろんです」
新郎と話を始める。
私は少し離れたところから、その姿を見る。
営業として。
最初に神崎さんたちと出会ったのは、一ノ瀬くんだった。
そこから私に引き継がれて。
三ヶ月半。
明日。
ようやく形になる。
確認を終えると、新婦が一ノ瀬くんにも頭を下げた。
「一ノ瀬さんも、本当にありがとうございました」
「いやいや、まだ明日がありますから」
「水野さんと同じこと言うんですね」
「え?」
「さっき水野さんにも同じこと言われました」
一ノ瀬くんが私を見る。
「さすがですね、俺たち」
「何が?」
「息合ってきたんじゃないですか?」
「調子乗らない」
神崎さんたちが笑う。
「でも」
新郎が言った。
「お二人にお願いできてよかったです」
一瞬。
一ノ瀬くんと目が合った。
「……ありがとうございます」
「ありがとうございます」
ほとんど同時だった。
「ほら」
一ノ瀬くんが小声で言う。
「息合ってる」
「うるさい」
でも。
少しだけ笑ってしまった。
神崎さんたちが帰ったあと。
最終確認のため、もう一度宴会場へ入った。
スタッフの姿はほとんどない。
明日のために整えられた三百五十席。
照明を少し落とした会場は、昼間とはまったく違って見えた。
「……すごいですね」
隣で一ノ瀬くんが呟く。
「何が?」
「明日、ここ全部埋まるんですよね」
「そうだよ」
「三百五十人か……」
一ノ瀬くんがゆっくり会場を見渡す。
「最初に神崎様から相談されたとき、こんなところまで来ると思ってなかったです」
「営業だったもんね」
「はい。最初は大型案件取れた、くらいでした」
「正直だね」
「でも今は違いますよ」
「分かってる」
「本当に?」
「三ヶ月半見てきたから」
そう言うと。
一ノ瀬くんが少し嬉しそうに笑った。
「私も」
「はい?」
「最初、一ノ瀬くんとこんなに一緒に仕事すると思ってなかった」
「それどういう意味ですか?」
「最初めちゃくちゃ面倒だった」
「ひど」
「だって質問ばっかりだったじゃん」
「分かんないんだから仕方ないでしょ」
「メールでいいことまで来るし」
「それは……」
一ノ瀬くんが少し考える。
「まあ、そうですね」
「認めるんだ」
「でも結果的によかったじゃないですか」
「何が?」
「俺が来て」
「自分で言う?」
「言います」
少し笑う。
そして。
「俺は、水野主任でよかったですよ」
一瞬。
時間が止まったような気がした。
「……なにそれ」
「前に言ってくれたじゃないですか」
「何を?」
「一ノ瀬でよかったって」
「あ……」
覚えてる。
忘れるわけがない。
あのとき。
初めてちゃんと言った。
一ノ瀬くんでよかった、と。
「覚えてたの?」
「そりゃ覚えてますよ」
「そんな大したこと言ってないでしょ」
「俺にとっては結構嬉しかったんですけど」
「……そうなの?」
「そうですよ」
一ノ瀬くんが三百五十席の会場を見る。
「だから俺も」
少しだけ間を置いて。
「初めてここまで関わった婚礼が、水野主任と一緒でよかったです」
胸の奥が。
また少しだけざわついた。
嬉しい。
それだけのはずなのに。
なんで。
こんなに残るんだろう。
「……明日失敗したら撤回するから」
誤魔化すように言った。
「じゃあ絶対成功させないと」
「そうして」
「主任もですよ」
「分かってる」
「俺だけに背負わせないでください」
「一ノ瀬くんが絶対成功させるって言ったんでしょ」
「そういう意味じゃないです」
二人で笑った。
その声が。
誰もいない宴会場に少しだけ響いた。
「帰ろっか」
「ですね」
会場の照明を落とす。
扉を閉める前。
私はもう一度だけ振り返った。
明日。
ここで。
神崎さんたちが結婚する。
三ヶ月半かけて準備してきた一日が始まる。
ホテルを出たところで。
「水野主任」
呼ばれて振り返る。
「なに?」
一ノ瀬くんが少し笑っている。
「明日、楽しみですね」
昨日までなら。
終わることを考えていた。
結婚式が終われば。
この時間も終わる。
一ノ瀬くんが婚礼部へ来る理由もなくなる。
それが少しだけ寂しくて。
先のことばかり考えていた。
でも。
今は。
「うん」
素直に頷いた。
「楽しみ」
「じゃあ明日」
「遅刻しないでよ」
「しませんよ」
「本当に?」
「信用ないなぁ」
一ノ瀬くんが笑う。
そして。
「じゃあ、モーニングコールお願いします」
「……は?」
「水野主任なら絶対起きてるでしょ」
「起きてるけど、なんで私が一ノ瀬くんを起こすの」
「遅刻したら困るんですよね?」
「自分で起きなさいよ」
「じゃあ六時半で」
「勝手に時間まで決めないで」
「俺、六時半なら余裕なんで」
「知らないよ」
「お願いします」
「嫌です」
「即答」
「アラームかければいいでしょ」
「一応かけます」
「じゃあそれで起きて」
「もし起きなかったときの保険で」
「だからなんで私なの」
「水野主任なら起こしてくれそうだから?」
「その信用いらない」
一ノ瀬くんが声を出して笑う。
どう考えても。
半分以上、冗談だ。
「じゃあ六時半、待ってます」
「待たなくていい」
「おやすみなさい、水野主任」
「……はいはい。おやすみ」
「明日、よろしくお願いします」
「うん。よろしく」
一ノ瀬くんが歩いていく。
私も駅へ向かう。
数歩歩いたところで。
ふと、立ち止まった。
六時半。
「……いや、しないから」
誰に言うでもなく呟く。
そもそも。
モーニングコールなんて必要ない。
一ノ瀬くんだって、冗談で言っただけだ。
アラームもかけると言っていた。
だから。
私が電話する必要なんて、どこにもない。
「……」
スマートフォンを取り出す。
明日のアラームを確認する。
五時四十五分。
私は六時半には、とっくに起きている。
「いやいや」
関係ない。
起きているからって、電話する理由にはならない。
スマートフォンを鞄にしまう。
明日。
この三ヶ月半で積み上げてきたものを、全部出す日。
神崎さんたちのために。
このホテルで働くみんなのために。
そして。
私と一ノ瀬くんが。
初めて最後まで一緒に作った結婚式。
――絶対に、成功させる。
それだけ考えればいい。
モーニングコールなんて。
どうでもいい。
……どうでもいい、はずなのに。
電車に乗ってからも。
家に帰ってからも。
お風呂に入っているときも。
寝る前にアラームを確認したときも。
なぜか。
「六時半」という時間だけが。
ずっと頭の片隅に残っていた。
神崎さんたちの結婚式まで、あと一日。
「装花、搬入入りました!」
「そのまま宴会場へお願いします。配置は昨日共有した図面通りで!」
「水野主任、席札の最終分届いてます」
「確認するからこっち置いて」
「引き出物、三百五十名分搬入完了です」
「予備は?」
「十セットあります」
「了解」
朝からホテル全体が慌ただしい。
明日。
ついに本番だ。
三ヶ月半。
長かったような。
あっという間だったような。
そんなことを考えている暇もなく、私は宴会場へ向かう。
扉を開けると、広い会場にはすでに円卓が並べられていた。
三百五十名。
普段見慣れているはずの宴会場なのに、この規模になるとさすがに圧倒される。
「水野主任」
奥から呼ばれる。
一ノ瀬くんだった。
「VIPの受付配置、確認終わりました」
「あ、じゃあ次――」
「警備にも共有済みです」
「……じゃあ車椅子の方の導線」
「正面と東側、両方作ってあります」
「クロークは?」
「どっちから入っても対応できるようにしてもらいました」
「雨だった場合は?」
「正面入口に一本化します。車寄せから会場まではスタッフ一名つけます」
言うことがなくなった。
「……早いなぁ」
「誰に鍛えられたと思ってるんですか」
得意そうな顔。
「まだ褒めてないけど」
「今のは褒めてました」
「どうかな」
「水野主任、最近俺に確認すること減りましたよね」
「一ノ瀬くんが自分でやるようになったからでしょ」
「成長ですね」
「自分で言う?」
「言ってくれないんで」
「はいはい。成長した、成長した」
「雑だなぁ」
笑いながら、一ノ瀬くんが資料を渡してくる。
確認する。
本当に問題ない。
三ヶ月半前。
初めて婚礼部に来たときは、何も分かっていなかった。
何をするにも質問。
メールで済むことまで、わざわざ聞きに来る。
正直。
少し面倒だと思っていた。
それが今では。
「一ノ瀬くん」
「はい?」
「これで大丈夫」
「よし」
普通に戦力になっている。
「じゃあ俺、営業戻ります」
「うん。また何かあったら連絡して」
「了解です」
一ノ瀬くんが会場を出ていく。
その背中を見送ってから、私はもう一度会場を見渡した。
明日。
ここが三百五十人で埋まる。
想像すると。
少しだけ緊張してきた。
夕方。
装花も入り、テーブルクロスが掛けられ、席札も並び始めた。
何もなかった宴会場が。
少しずつ結婚式の会場になっていく。
十七時過ぎ。
「水野さん」
聞き覚えのある声に振り返る。
「神崎さん」
新郎新婦が立っていた。
明日の最終確認のためにホテルへ来てもらっていた。
「いよいよ明日ですね」
新婦が少し緊張したように笑う。
「はい。体調は大丈夫ですか?」
「なんとか。でも今日寝られる気がしなくて」
「寝てください。明日長いですよ」
「ですよね」
新郎が笑う。
「僕は普通に寝られそうです」
「絶対そう言うと思った」
「昨日も十時に寝たし」
「私は二時まで起きてたのに」
二人のやり取りに、思わず笑ってしまう。
「明日は朝も早いので、今日はなるべくゆっくりしてください」
「はい」
最終進行。
集合時間。
衣装。
ご親族の動き。
車両。
一つずつ確認していく。
大きな変更はない。
「以上です」
資料を閉じる。
「明日は、私たちに任せてください」
新婦が私を見る。
そして。
「水野さん」
「はい」
「本当にありがとうございました」
「……まだ終わってませんよ」
「分かってます。でも」
新婦が会場を見る。
「ここまで来られたの、水野さんのおかげです」
「そんなことないですよ」
「最初、三百五十人って聞いたとき、私、本当にできるのかなって思ってて」
「はい」
「途中で何回も変えたし、わがままも言ったし」
「それが私の仕事ですから」
「でも」
新婦が笑う。
「水野さんにお願いして、本当によかったです」
胸の奥が温かくなる。
この瞬間。
何年やっても慣れない。
「……ありがとうございます」
自然に笑顔になった。
「明日、絶対にいい日にしましょう」
「はい」
そのとき。
「お疲れさまです」
会場の入口から声がした。
「あ、一ノ瀬さん」
「神崎様、お疲れさまです」
一ノ瀬くんがこちらへ来る。
「明日の車両について、最後に一点だけ確認お願いできますか?」
「もちろんです」
新郎と話を始める。
私は少し離れたところから、その姿を見る。
営業として。
最初に神崎さんたちと出会ったのは、一ノ瀬くんだった。
そこから私に引き継がれて。
三ヶ月半。
明日。
ようやく形になる。
確認を終えると、新婦が一ノ瀬くんにも頭を下げた。
「一ノ瀬さんも、本当にありがとうございました」
「いやいや、まだ明日がありますから」
「水野さんと同じこと言うんですね」
「え?」
「さっき水野さんにも同じこと言われました」
一ノ瀬くんが私を見る。
「さすがですね、俺たち」
「何が?」
「息合ってきたんじゃないですか?」
「調子乗らない」
神崎さんたちが笑う。
「でも」
新郎が言った。
「お二人にお願いできてよかったです」
一瞬。
一ノ瀬くんと目が合った。
「……ありがとうございます」
「ありがとうございます」
ほとんど同時だった。
「ほら」
一ノ瀬くんが小声で言う。
「息合ってる」
「うるさい」
でも。
少しだけ笑ってしまった。
神崎さんたちが帰ったあと。
最終確認のため、もう一度宴会場へ入った。
スタッフの姿はほとんどない。
明日のために整えられた三百五十席。
照明を少し落とした会場は、昼間とはまったく違って見えた。
「……すごいですね」
隣で一ノ瀬くんが呟く。
「何が?」
「明日、ここ全部埋まるんですよね」
「そうだよ」
「三百五十人か……」
一ノ瀬くんがゆっくり会場を見渡す。
「最初に神崎様から相談されたとき、こんなところまで来ると思ってなかったです」
「営業だったもんね」
「はい。最初は大型案件取れた、くらいでした」
「正直だね」
「でも今は違いますよ」
「分かってる」
「本当に?」
「三ヶ月半見てきたから」
そう言うと。
一ノ瀬くんが少し嬉しそうに笑った。
「私も」
「はい?」
「最初、一ノ瀬くんとこんなに一緒に仕事すると思ってなかった」
「それどういう意味ですか?」
「最初めちゃくちゃ面倒だった」
「ひど」
「だって質問ばっかりだったじゃん」
「分かんないんだから仕方ないでしょ」
「メールでいいことまで来るし」
「それは……」
一ノ瀬くんが少し考える。
「まあ、そうですね」
「認めるんだ」
「でも結果的によかったじゃないですか」
「何が?」
「俺が来て」
「自分で言う?」
「言います」
少し笑う。
そして。
「俺は、水野主任でよかったですよ」
一瞬。
時間が止まったような気がした。
「……なにそれ」
「前に言ってくれたじゃないですか」
「何を?」
「一ノ瀬でよかったって」
「あ……」
覚えてる。
忘れるわけがない。
あのとき。
初めてちゃんと言った。
一ノ瀬くんでよかった、と。
「覚えてたの?」
「そりゃ覚えてますよ」
「そんな大したこと言ってないでしょ」
「俺にとっては結構嬉しかったんですけど」
「……そうなの?」
「そうですよ」
一ノ瀬くんが三百五十席の会場を見る。
「だから俺も」
少しだけ間を置いて。
「初めてここまで関わった婚礼が、水野主任と一緒でよかったです」
胸の奥が。
また少しだけざわついた。
嬉しい。
それだけのはずなのに。
なんで。
こんなに残るんだろう。
「……明日失敗したら撤回するから」
誤魔化すように言った。
「じゃあ絶対成功させないと」
「そうして」
「主任もですよ」
「分かってる」
「俺だけに背負わせないでください」
「一ノ瀬くんが絶対成功させるって言ったんでしょ」
「そういう意味じゃないです」
二人で笑った。
その声が。
誰もいない宴会場に少しだけ響いた。
「帰ろっか」
「ですね」
会場の照明を落とす。
扉を閉める前。
私はもう一度だけ振り返った。
明日。
ここで。
神崎さんたちが結婚する。
三ヶ月半かけて準備してきた一日が始まる。
ホテルを出たところで。
「水野主任」
呼ばれて振り返る。
「なに?」
一ノ瀬くんが少し笑っている。
「明日、楽しみですね」
昨日までなら。
終わることを考えていた。
結婚式が終われば。
この時間も終わる。
一ノ瀬くんが婚礼部へ来る理由もなくなる。
それが少しだけ寂しくて。
先のことばかり考えていた。
でも。
今は。
「うん」
素直に頷いた。
「楽しみ」
「じゃあ明日」
「遅刻しないでよ」
「しませんよ」
「本当に?」
「信用ないなぁ」
一ノ瀬くんが笑う。
そして。
「じゃあ、モーニングコールお願いします」
「……は?」
「水野主任なら絶対起きてるでしょ」
「起きてるけど、なんで私が一ノ瀬くんを起こすの」
「遅刻したら困るんですよね?」
「自分で起きなさいよ」
「じゃあ六時半で」
「勝手に時間まで決めないで」
「俺、六時半なら余裕なんで」
「知らないよ」
「お願いします」
「嫌です」
「即答」
「アラームかければいいでしょ」
「一応かけます」
「じゃあそれで起きて」
「もし起きなかったときの保険で」
「だからなんで私なの」
「水野主任なら起こしてくれそうだから?」
「その信用いらない」
一ノ瀬くんが声を出して笑う。
どう考えても。
半分以上、冗談だ。
「じゃあ六時半、待ってます」
「待たなくていい」
「おやすみなさい、水野主任」
「……はいはい。おやすみ」
「明日、よろしくお願いします」
「うん。よろしく」
一ノ瀬くんが歩いていく。
私も駅へ向かう。
数歩歩いたところで。
ふと、立ち止まった。
六時半。
「……いや、しないから」
誰に言うでもなく呟く。
そもそも。
モーニングコールなんて必要ない。
一ノ瀬くんだって、冗談で言っただけだ。
アラームもかけると言っていた。
だから。
私が電話する必要なんて、どこにもない。
「……」
スマートフォンを取り出す。
明日のアラームを確認する。
五時四十五分。
私は六時半には、とっくに起きている。
「いやいや」
関係ない。
起きているからって、電話する理由にはならない。
スマートフォンを鞄にしまう。
明日。
この三ヶ月半で積み上げてきたものを、全部出す日。
神崎さんたちのために。
このホテルで働くみんなのために。
そして。
私と一ノ瀬くんが。
初めて最後まで一緒に作った結婚式。
――絶対に、成功させる。
それだけ考えればいい。
モーニングコールなんて。
どうでもいい。
……どうでもいい、はずなのに。
電車に乗ってからも。
家に帰ってからも。
お風呂に入っているときも。
寝る前にアラームを確認したときも。
なぜか。
「六時半」という時間だけが。
ずっと頭の片隅に残っていた。