十年前なら、あなたを好きになれたのに。―10歳下の後輩に本気で恋をしました―
第13話 6時半
第13話 六時半
六時二十七分。
私はダイニングテーブルの上に置いたスマートフォンを見つめていた。
身支度はもう終わっている。
髪も整えた。
メイクもした。
朝食も簡単に済ませた。
あとは家を出るだけ。
なのに。
さっきから三分くらい、同じ画面を見ている。
表示されているのは連絡先。
一ノ瀬 悠。
「……いや」
スマートフォンを伏せる。
しなくていい。
昨日のあれは、どう考えても冗談だった。
『じゃあ、モーニングコールお願いします』
『六時半で』
勝手に時間まで決めて。
私だってちゃんと断った。
『待たなくていい』
そう言った。
だから。
電話しなくても何もおかしくない。
むしろ。
本当に電話した方がおかしい。
六時二十八分。
「……」
もう一度スマートフォンを手に取る。
いや。
でも。
今日遅刻されたら困る。
神崎さんたちの結婚式当日。
三ヶ月半一緒に準備してきた担当営業が遅刻なんて、笑えない。
一応、起こしておいた方がいいんじゃない?
仕事として。
そう。
これは仕事。
「……アラームかけるって言ってたじゃん」
自分で自分に突っ込む。
そうだった。
一ノ瀬くんはアラームをかけると言っていた。
だったら起きる。
二十四歳の社会人なんだから、自分で起きる。
私が起こす必要なんてない。
「……」
でも。
もし。
本当に寝てたら?
電話しなかったせいで遅刻したら?
いや、それは一ノ瀬くんの責任でしょ。
なんで私がそこまで面倒見ないといけないの。
私は主任だけど、一ノ瀬くんの主任ではない。
そもそも部署も違う。
「……何やってるんだろ、私」
六時二十九分。
あと一分。
なぜか時計が気になる。
いや。
待って。
あと一分って何?
私は何を待ってるの?
電話するつもりないんだから、六時半になったって関係ない。
スマートフォンを鞄に入れようとする。
でも。
手が止まった。
……もし電話したら。
一ノ瀬くん、出るのかな。
寝てたら、どんな声なんだろう。
そこまで考えて。
「……っ」
何考えてるの。
違う。
そうじゃない。
起きてるか確認するだけ。
ただの業務連絡。
今日ちゃんと来てくださいね、って。
それだけ。
でも。
朝六時半に。
十歳下の男の子に。
私から電話する。
メールとは違う。
文字じゃない。
声が聞こえる。
「…………」
なんで電話一本でこんなに悩んでるんだろう。
昨日までなら普通にできた?
いや。
そもそも昨日までなら、モーニングコールを頼まれても絶対しなかった気がする。
じゃあ、なんで今は迷ってるの?
「……」
考えない。
今日は神崎さんたちの結婚式。
こんなことで頭を使ってる場合じゃない。
六時三十分。
スマートフォンの数字が変わった。
「……なった」
何が。
六時半になっただけ。
一ノ瀬くんとの約束の時間じゃない。
だって私は約束してない。
『待たなくていい』って言った。
だから。
電話しなくていい。
「……」
五秒。
十秒。
十五秒。
「…………もう知らない」
一ノ瀬 悠。
通話ボタンを押した。
耳に当てる。
呼び出し音。
一回。
二回。
三回。
出ない。
「……寝てる?」
四回目。
『……もしもし』
低い。
いつもよりずっと低い声。
一瞬。
言葉が出なかった。
『……もしもし?』
「……一ノ瀬くん?」
『……水野主任?』
「六時半」
『……はい』
「起きて」
少し間が空いた。
『……ほんとにかけてくれたんですか?』
「は?」
思わず声が低くなる。
『いや……』
「頼んだの一ノ瀬くんでしょ」
『そうなんですけど』
「なに?」
『昨日のあれ、半分冗談だったんですけど』
「…………」
六時二十七分からの三分間が頭をよぎった。
「切るよ?」
『待って待って。起きます。起きますから』
「もう起きてるでしょ」
『今起きました』
「アラームは?」
『六時三十五分です』
「六時半って言ったじゃん」
『主任が起こしてくれるかなと思って』
「本当に切るよ?」
『冗談です』
電話の向こうで笑っている。
いつもの一ノ瀬くんだ。
でも。
声だけが少し違う。
まだ寝起きで。
掠れていて。
いつもより低い。
「……とにかく、遅刻しないでよ」
『はい』
「今日は七時半にはホテル入って」
『分かってます』
「朝ご飯も食べて」
『主任、母親みたいですね』
「じゃあもう知らない」
『すみません』
また笑っている。
「私はもう出るから」
『え、もう準備終わってるんですか?』
「とっくに」
『何時に起きたんです?』
「五時四十五分」
『早……』
「誰の結婚式だと思ってるの」
『神崎さんたちです』
「分かってるなら起きなさい」
『はい』
少しだけ間が空く。
『でも』
「なに?」
『朝一番に水野主任の声聞くの、なんか変な感じですね』
「……」
また。
そういうことを。
何でもないみたいに言う。
「朝からそういう言い方しないで」
『どういう言い方ですか?』
「知らない」
『俺、普通のこと言っただけですけど』
「もう切る」
『今日三回目ですよ、それ』
「今度は本当に切るから」
『はいはい』
少しだけ笑う声。
『水野主任』
「なに?」
『ありがとうございます』
「……ちゃんと来てくれればそれでいい」
『行きますよ』
「じゃあ、あとで」
『はい。あとで』
通話を切った。
静かになる。
私はしばらくスマートフォンを耳に当てたまま立っていた。
「……」
ゆっくり離す。
画面を見る。
通話時間。
二分十三秒。
たった二分ちょっと。
それだけ。
なのに。
「……何緊張してるんだろ、私」
電話をかけるまで三分も悩んで。
出たら出たで、寝起きの声に驚いて。
今度は電話を切ったあとまで、一ノ瀬くんの声が耳に残っている。
「……仕事」
今日は仕事。
しかも。
三ヶ月半かけて準備してきた、大切な一日。
私はスマートフォンを鞄に入れた。
結婚式当日の朝。
私の最初の仕事は。
三百五十人のゲストを迎える準備でも。
新郎新婦の確認でもなく。
十歳下の後輩を起こすことだった。
七時二十三分。
ホテル・グランシエル東京。
従業員入口を抜けた瞬間。
頭が切り替わる。
「おはようございます」
「水野主任、おはようございます!」
「おはよう。宴会場は?」
「最終セッティング入ってます」
「装花は?」
「確認済みです」
「新郎新婦は?」
「七時四十五分到着予定です」
「分かった。私、会場見てくる」
エレベーターへ向かう。
さっきまで電話一本で悩んでいた自分が嘘みたいだった。
今日は。
絶対に失敗できない。
宴会場の扉を開ける。
三百五十席。
昨日見た景色と同じ。
でも。
今日は違う。
数時間後。
ここが全部、人で埋まる。
「水野主任」
「はい」
「メインテーブルの装花、最終確認お願いします」
「今行きます」
テーブル配置。
席札。
音響。
照明。
映像。
クローク。
受付。
一つずつ確認する。
八時前。
新郎新婦が到着した。
「おはようございます」
「水野さん、おはようございます」
新婦の顔が硬い。
「寝られました?」
「……二時間くらい」
「だから寝てくださいって言ったのに」
「無理でした」
「大丈夫です」
私は笑った。
「今日まで三ヶ月半、何回打ち合わせしたと思ってるんですか」
「いっぱい……」
「何回も確認して、何回も直しました。準備は全部できてます」
新婦の目を見る。
「今日は、楽しんでください」
「……はい」
少しだけ表情が柔らかくなった。
「水野さん」
「はい」
「お願いします」
「任せてください」
二人をスタッフへ引き継ぐ。
そのとき。
「おはようございます」
後ろから声がした。
振り返る。
一ノ瀬くん。
時計を見る。
八時三分。
「……ちゃんと来た」
「誰かさんが起こしてくれたんで」
「もう二度としないから」
「え、結構よかったのに」
「何が?」
「モーニングコール」
「仕事して」
「はい」
一ノ瀬くんが笑う。
朝の電話のことは。
ここにいる誰も知らない。
私と。
一ノ瀬くんだけ。
そう思った瞬間。
また少しだけ変な感じがした。
「水野主任?」
「なに?」
「車椅子の方、予定より二十分早く到着するそうです」
一瞬で仕事に戻る。
「今どこ?」
「あと五分です」
「正面ロビーは?」
「団体客と被ってます」
最悪のタイミング。
「私、今新婦側離れられない」
「じゃあ俺行きます」
「一ノ瀬くん?」
「東側使います。昨日作った導線そのまま使えるんで」
「警備とクローク」
「連絡します」
「スタッフ一人つけて」
「了解です」
迷いがない。
一ノ瀬くんが走っていく。
私はその背中を見る。
三ヶ月半前なら。
きっと私に聞いていた。
どうすればいいですか、と。
でも今は違う。
自分で考えて。
動ける。
「水野主任」
呼ばれる。
「はい、今行きます」
私も自分の仕事へ戻った。
二十分後。
廊下で一ノ瀬くんとすれ違う。
「車椅子の方は?」
「もうご案内しました」
「え?」
「東側から入ってもらって、クロークも対応済みです。ご家族も一緒に会場まで案内しました」
「問題は?」
「なしです」
「……完璧」
一ノ瀬くんが笑う。
「朝起こしてもらったんで調子いいです」
「関係ない」
「あるかもしれないですよ」
「ない」
「じゃあ次行ってきます」
「お願い」
走っていく。
頼もしくなったな。
そんなことを考えている暇もなく。
時間は進んだ。
午前十一時。
挙式。
扉の向こうで、新婦が父親の腕に手を添えている。
緊張していた朝とは違う。
綺麗だった。
本当に。
「準備よろしいですか?」
私が聞くと。
新婦が小さく頷く。
「はい」
扉が開く。
音楽が流れる。
四十名ほどの家族と親しい人たちが振り返る。
新婦が。
一歩ずつ歩いていく。
私は会場の後方から、その姿を見守った。
三ヶ月半。
何度も打ち合わせをした。
ドレスを決めて。
料理を決めて。
花を決めて。
音楽を決めて。
席を決めて。
何度も変更して。
ようやく。
今日になった。
誓いの言葉。
指輪。
そして。
拍手。
無事に挙式が終わる。
「……よし」
小さく息を吐いた。
「まだ半分ですよ」
隣から声。
「……一ノ瀬くん」
いつの間にか立っていた。
「分かってる」
「これから三百五十人です」
「言わないで。今ちょっとだけ余韻に浸ってたの」
「主任でもそういうのあるんですね」
「あるよ」
「十一年目でも?」
「十一年目だから、かな」
一ノ瀬くんが少し笑った。
「いいですね」
「何が?」
「いや。なんでもないです」
「なにそれ」
スタッフが慌ただしく動き始める。
ここから。
披露宴。
三百五十人。
今日一番の大仕事。
宴会場へ向かう。
扉の向こうから。
すでに多くの人の声が聞こえていた。
一ノ瀬くんが隣に立つ。
「水野主任」
「なに?」
「いよいよですね」
私は大きく息を吸った。
三ヶ月半。
全部。
ここにある。
一ノ瀬くんを見る。
「行こっか、一ノ瀬くん」
「はい」
二人で。
扉の向こうへ進んだ。
六時二十七分。
私はダイニングテーブルの上に置いたスマートフォンを見つめていた。
身支度はもう終わっている。
髪も整えた。
メイクもした。
朝食も簡単に済ませた。
あとは家を出るだけ。
なのに。
さっきから三分くらい、同じ画面を見ている。
表示されているのは連絡先。
一ノ瀬 悠。
「……いや」
スマートフォンを伏せる。
しなくていい。
昨日のあれは、どう考えても冗談だった。
『じゃあ、モーニングコールお願いします』
『六時半で』
勝手に時間まで決めて。
私だってちゃんと断った。
『待たなくていい』
そう言った。
だから。
電話しなくても何もおかしくない。
むしろ。
本当に電話した方がおかしい。
六時二十八分。
「……」
もう一度スマートフォンを手に取る。
いや。
でも。
今日遅刻されたら困る。
神崎さんたちの結婚式当日。
三ヶ月半一緒に準備してきた担当営業が遅刻なんて、笑えない。
一応、起こしておいた方がいいんじゃない?
仕事として。
そう。
これは仕事。
「……アラームかけるって言ってたじゃん」
自分で自分に突っ込む。
そうだった。
一ノ瀬くんはアラームをかけると言っていた。
だったら起きる。
二十四歳の社会人なんだから、自分で起きる。
私が起こす必要なんてない。
「……」
でも。
もし。
本当に寝てたら?
電話しなかったせいで遅刻したら?
いや、それは一ノ瀬くんの責任でしょ。
なんで私がそこまで面倒見ないといけないの。
私は主任だけど、一ノ瀬くんの主任ではない。
そもそも部署も違う。
「……何やってるんだろ、私」
六時二十九分。
あと一分。
なぜか時計が気になる。
いや。
待って。
あと一分って何?
私は何を待ってるの?
電話するつもりないんだから、六時半になったって関係ない。
スマートフォンを鞄に入れようとする。
でも。
手が止まった。
……もし電話したら。
一ノ瀬くん、出るのかな。
寝てたら、どんな声なんだろう。
そこまで考えて。
「……っ」
何考えてるの。
違う。
そうじゃない。
起きてるか確認するだけ。
ただの業務連絡。
今日ちゃんと来てくださいね、って。
それだけ。
でも。
朝六時半に。
十歳下の男の子に。
私から電話する。
メールとは違う。
文字じゃない。
声が聞こえる。
「…………」
なんで電話一本でこんなに悩んでるんだろう。
昨日までなら普通にできた?
いや。
そもそも昨日までなら、モーニングコールを頼まれても絶対しなかった気がする。
じゃあ、なんで今は迷ってるの?
「……」
考えない。
今日は神崎さんたちの結婚式。
こんなことで頭を使ってる場合じゃない。
六時三十分。
スマートフォンの数字が変わった。
「……なった」
何が。
六時半になっただけ。
一ノ瀬くんとの約束の時間じゃない。
だって私は約束してない。
『待たなくていい』って言った。
だから。
電話しなくていい。
「……」
五秒。
十秒。
十五秒。
「…………もう知らない」
一ノ瀬 悠。
通話ボタンを押した。
耳に当てる。
呼び出し音。
一回。
二回。
三回。
出ない。
「……寝てる?」
四回目。
『……もしもし』
低い。
いつもよりずっと低い声。
一瞬。
言葉が出なかった。
『……もしもし?』
「……一ノ瀬くん?」
『……水野主任?』
「六時半」
『……はい』
「起きて」
少し間が空いた。
『……ほんとにかけてくれたんですか?』
「は?」
思わず声が低くなる。
『いや……』
「頼んだの一ノ瀬くんでしょ」
『そうなんですけど』
「なに?」
『昨日のあれ、半分冗談だったんですけど』
「…………」
六時二十七分からの三分間が頭をよぎった。
「切るよ?」
『待って待って。起きます。起きますから』
「もう起きてるでしょ」
『今起きました』
「アラームは?」
『六時三十五分です』
「六時半って言ったじゃん」
『主任が起こしてくれるかなと思って』
「本当に切るよ?」
『冗談です』
電話の向こうで笑っている。
いつもの一ノ瀬くんだ。
でも。
声だけが少し違う。
まだ寝起きで。
掠れていて。
いつもより低い。
「……とにかく、遅刻しないでよ」
『はい』
「今日は七時半にはホテル入って」
『分かってます』
「朝ご飯も食べて」
『主任、母親みたいですね』
「じゃあもう知らない」
『すみません』
また笑っている。
「私はもう出るから」
『え、もう準備終わってるんですか?』
「とっくに」
『何時に起きたんです?』
「五時四十五分」
『早……』
「誰の結婚式だと思ってるの」
『神崎さんたちです』
「分かってるなら起きなさい」
『はい』
少しだけ間が空く。
『でも』
「なに?」
『朝一番に水野主任の声聞くの、なんか変な感じですね』
「……」
また。
そういうことを。
何でもないみたいに言う。
「朝からそういう言い方しないで」
『どういう言い方ですか?』
「知らない」
『俺、普通のこと言っただけですけど』
「もう切る」
『今日三回目ですよ、それ』
「今度は本当に切るから」
『はいはい』
少しだけ笑う声。
『水野主任』
「なに?」
『ありがとうございます』
「……ちゃんと来てくれればそれでいい」
『行きますよ』
「じゃあ、あとで」
『はい。あとで』
通話を切った。
静かになる。
私はしばらくスマートフォンを耳に当てたまま立っていた。
「……」
ゆっくり離す。
画面を見る。
通話時間。
二分十三秒。
たった二分ちょっと。
それだけ。
なのに。
「……何緊張してるんだろ、私」
電話をかけるまで三分も悩んで。
出たら出たで、寝起きの声に驚いて。
今度は電話を切ったあとまで、一ノ瀬くんの声が耳に残っている。
「……仕事」
今日は仕事。
しかも。
三ヶ月半かけて準備してきた、大切な一日。
私はスマートフォンを鞄に入れた。
結婚式当日の朝。
私の最初の仕事は。
三百五十人のゲストを迎える準備でも。
新郎新婦の確認でもなく。
十歳下の後輩を起こすことだった。
七時二十三分。
ホテル・グランシエル東京。
従業員入口を抜けた瞬間。
頭が切り替わる。
「おはようございます」
「水野主任、おはようございます!」
「おはよう。宴会場は?」
「最終セッティング入ってます」
「装花は?」
「確認済みです」
「新郎新婦は?」
「七時四十五分到着予定です」
「分かった。私、会場見てくる」
エレベーターへ向かう。
さっきまで電話一本で悩んでいた自分が嘘みたいだった。
今日は。
絶対に失敗できない。
宴会場の扉を開ける。
三百五十席。
昨日見た景色と同じ。
でも。
今日は違う。
数時間後。
ここが全部、人で埋まる。
「水野主任」
「はい」
「メインテーブルの装花、最終確認お願いします」
「今行きます」
テーブル配置。
席札。
音響。
照明。
映像。
クローク。
受付。
一つずつ確認する。
八時前。
新郎新婦が到着した。
「おはようございます」
「水野さん、おはようございます」
新婦の顔が硬い。
「寝られました?」
「……二時間くらい」
「だから寝てくださいって言ったのに」
「無理でした」
「大丈夫です」
私は笑った。
「今日まで三ヶ月半、何回打ち合わせしたと思ってるんですか」
「いっぱい……」
「何回も確認して、何回も直しました。準備は全部できてます」
新婦の目を見る。
「今日は、楽しんでください」
「……はい」
少しだけ表情が柔らかくなった。
「水野さん」
「はい」
「お願いします」
「任せてください」
二人をスタッフへ引き継ぐ。
そのとき。
「おはようございます」
後ろから声がした。
振り返る。
一ノ瀬くん。
時計を見る。
八時三分。
「……ちゃんと来た」
「誰かさんが起こしてくれたんで」
「もう二度としないから」
「え、結構よかったのに」
「何が?」
「モーニングコール」
「仕事して」
「はい」
一ノ瀬くんが笑う。
朝の電話のことは。
ここにいる誰も知らない。
私と。
一ノ瀬くんだけ。
そう思った瞬間。
また少しだけ変な感じがした。
「水野主任?」
「なに?」
「車椅子の方、予定より二十分早く到着するそうです」
一瞬で仕事に戻る。
「今どこ?」
「あと五分です」
「正面ロビーは?」
「団体客と被ってます」
最悪のタイミング。
「私、今新婦側離れられない」
「じゃあ俺行きます」
「一ノ瀬くん?」
「東側使います。昨日作った導線そのまま使えるんで」
「警備とクローク」
「連絡します」
「スタッフ一人つけて」
「了解です」
迷いがない。
一ノ瀬くんが走っていく。
私はその背中を見る。
三ヶ月半前なら。
きっと私に聞いていた。
どうすればいいですか、と。
でも今は違う。
自分で考えて。
動ける。
「水野主任」
呼ばれる。
「はい、今行きます」
私も自分の仕事へ戻った。
二十分後。
廊下で一ノ瀬くんとすれ違う。
「車椅子の方は?」
「もうご案内しました」
「え?」
「東側から入ってもらって、クロークも対応済みです。ご家族も一緒に会場まで案内しました」
「問題は?」
「なしです」
「……完璧」
一ノ瀬くんが笑う。
「朝起こしてもらったんで調子いいです」
「関係ない」
「あるかもしれないですよ」
「ない」
「じゃあ次行ってきます」
「お願い」
走っていく。
頼もしくなったな。
そんなことを考えている暇もなく。
時間は進んだ。
午前十一時。
挙式。
扉の向こうで、新婦が父親の腕に手を添えている。
緊張していた朝とは違う。
綺麗だった。
本当に。
「準備よろしいですか?」
私が聞くと。
新婦が小さく頷く。
「はい」
扉が開く。
音楽が流れる。
四十名ほどの家族と親しい人たちが振り返る。
新婦が。
一歩ずつ歩いていく。
私は会場の後方から、その姿を見守った。
三ヶ月半。
何度も打ち合わせをした。
ドレスを決めて。
料理を決めて。
花を決めて。
音楽を決めて。
席を決めて。
何度も変更して。
ようやく。
今日になった。
誓いの言葉。
指輪。
そして。
拍手。
無事に挙式が終わる。
「……よし」
小さく息を吐いた。
「まだ半分ですよ」
隣から声。
「……一ノ瀬くん」
いつの間にか立っていた。
「分かってる」
「これから三百五十人です」
「言わないで。今ちょっとだけ余韻に浸ってたの」
「主任でもそういうのあるんですね」
「あるよ」
「十一年目でも?」
「十一年目だから、かな」
一ノ瀬くんが少し笑った。
「いいですね」
「何が?」
「いや。なんでもないです」
「なにそれ」
スタッフが慌ただしく動き始める。
ここから。
披露宴。
三百五十人。
今日一番の大仕事。
宴会場へ向かう。
扉の向こうから。
すでに多くの人の声が聞こえていた。
一ノ瀬くんが隣に立つ。
「水野主任」
「なに?」
「いよいよですね」
私は大きく息を吸った。
三ヶ月半。
全部。
ここにある。
一ノ瀬くんを見る。
「行こっか、一ノ瀬くん」
「はい」
二人で。
扉の向こうへ進んだ。