十年前なら、あなたを好きになれたのに。―10歳下の後輩に本気で恋をしました―
第14話 三百五十人
第14話 三百五十人
披露宴会場の扉を抜けた瞬間。
空気が変わった。
昨日まで静かだった会場に、人の声が満ちている。
三百五十人。
数字では何度も見てきた。
席次表でも。
進行表でも。
スタッフ配置表でも。
でも。
実際に三百五十人のゲストが集まった光景は、やっぱり違う。
「……すご」
隣で一ノ瀬くんが呟いた。
「昨日と全然違いますね」
「当たり前でしょ」
「分かってましたけど……三百五十人って、こんななんですね」
「見惚れてる暇ないよ」
「はい、主任」
「返事だけはいいね」
「今日はちゃんと働きますって」
「今日“も”でしょ?」
「あ、そこ認めてくれるんですね」
「一ノ瀬くん」
「行ってきます」
笑いながら、一ノ瀬くんがVIP受付へ向かう。
私は会場全体を見る。
司会。
音響。
照明。
料理。
サービススタッフ。
全員が動いている。
腕時計を見る。
予定通り。
「水野主任、新郎新婦準備完了です」
「分かりました」
いよいよ。
「司会、お願いします」
会場の照明が落ちる。
ざわめきが少しずつ静まっていく。
音楽が流れた。
扉が開く。
新郎新婦が入場した瞬間。
大きな拍手が会場を包んだ。
新婦が笑っている。
朝。
あんなに緊張していた人とは思えない。
よかった。
まずは一つ。
私は進行表へ視線を落とした。
ここから約三時間。
絶対に気を抜けない。
乾杯。
料理提供。
歓談。
予定通りに進んでいく。
「水野主任」
「はい」
宴会部のスタッフが小走りで近づいてきた。
その表情を見ただけで分かる。
何かあった。
「新郎側の主賓の方が、体調が悪いそうです」
「今どこ?」
「お手洗いに向かわれて、そのまま少し休みたいと」
進行表を見る。
主賓挨拶まで。
あと七分。
「同行者は?」
「一緒です」
「分かった」
考える。
止めない。
披露宴は止めない。
「歓談を五分前倒し。料理も一皿早めて」
「はい」
「司会には私から伝える」
「分かりました」
すぐに司会者のところへ向かう。
状況を説明する。
「では、歓談へつなぎます」
「お願いします」
次。
一ノ瀬くんを探す。
いた。
VIP席の近く。
目が合う。
手招きする。
すぐに来た。
「どうしました?」
「新郎側主賓の方、体調不良」
一ノ瀬くんの表情が変わる。
「挨拶の方ですよね?」
「そう。今休んでもらってる」
「俺、行きます」
「お願いできる?」
「もちろんです」
「無理に戻ってもらわなくていいから。本人の体調最優先。挨拶できそうなら、どれくらいで戻れるかだけ確認して」
「分かりました」
それだけで走っていく。
説明は、それだけでよかった。
以前なら。
もっと細かく指示していた。
誰に確認して。
何を聞いて。
どう報告して。
でも今は。
必要ない。
私は私の仕事に戻る。
「水野主任、料理前倒しできます」
「お願いします。五分だけ調整」
「了解です」
司会者が自然に歓談へつなぐ。
ゲストたちが会話を始める。
誰も気づいていない。
予定されていた挨拶が飛んだことなんて。
気づかせなくていい。
それが私たちの仕事だ。
数分後。
「水野主任」
一ノ瀬くんが戻ってきた。
「どうだった?」
「大丈夫です。少し休めば戻れるそうです」
「時間は?」
「十分くらい。ただ、挨拶は短めにしたいって」
進行表を見る。
頭の中で組み替える。
「ケーキ入刀のあと」
「入れられます?」
「入れる」
「司会は?」
「今から伝える」
「料理は?」
「もう動かしてる」
一ノ瀬くんが一瞬だけ黙った。
そして。
「……いけますね」
私は頷く。
「いける」
それだけ。
すぐに二人とも別方向へ動いた。
十分後。
主賓の方が会場へ戻ってくる。
顔色も戻っていた。
予定を変更して。
ケーキ入刀。
写真撮影。
そのあと。
主賓挨拶。
少し短くなったけれど。
問題なく終わった。
時計を見る。
遅れ。
二分。
「戻せる」
小さく呟く。
その後の進行で調整できる。
気づけば。
披露宴は後半に入っていた。
新婦のお色直し。
再入場。
テーブルラウンド。
余興。
そして。
新婦から両親への手紙。
会場の照明が落ちる。
さっきまで賑やかだった三百五十人が静かになる。
新婦が手紙を開いた。
声が少し震えている。
『お父さん、お母さん――』
私は会場後方に立った。
何度見てきただろう。
十一年間。
数え切れないくらい。
それでも。
この時間だけは。
なぜか毎回、見てしまう。
新婦の母親がハンカチで目元を押さえる。
父親は泣くのを堪えるように俯いている。
新郎が隣で新婦を見守っている。
一つの家族から。
また新しい家族が生まれる。
ふと。
少し離れたところに一ノ瀬くんがいることに気づいた。
仕事の手を止めて。
新婦を見ていた。
いつもの軽い表情はない。
真剣に。
一つ一つの言葉を聞いている。
この人も。
今日という一日を、ちゃんと大切にしてくれている。
なぜか。
それが嬉しかった。
手紙が終わる。
花束贈呈。
そして。
新郎からの謝辞。
「本日は、僕たち二人のためにお集まりいただき、本当にありがとうございました」
新郎が会場を見渡す。
家族へ。
友人へ。
仕事関係の人たちへ。
一つずつ感謝を伝えていく。
そして最後に。
「そして、今日という日を一緒に作ってくださったホテルの皆様にも、本当に感謝しています」
一瞬。
息が止まった。
「何度も変更をお願いして、たくさんご迷惑をおかけしました。それでも最後まで僕たちの希望を聞いてくださって、本当にありがとうございました」
新婦も頭を下げる。
拍手が起きた。
私は小さく頭を下げる。
隣から。
「……これ、やばいですね」
小さな声。
一ノ瀬くんだった。
「泣くの?」
「泣いてません」
「目、赤いよ」
「水野主任もじゃないですか」
「私は十一年やってるから慣れてる」
「絶対嘘」
「本当」
「じゃあなんで目潤んでるんです?」
「照明」
「便利ですね、照明」
「うるさい」
小さく笑った。
新郎新婦が退場する。
大きな拍手。
扉が閉じる。
でも。
まだ終わりじゃない。
送賓。
三百五十人。
最後の一人が帰るまで。
私たちの仕事は終わらない。
「ありがとうございました」
「おめでとうございます」
「すごくいい式だったよ」
ゲストたちが次々と新郎新婦へ声をかけていく。
十分。
二十分。
三十分。
ようやく。
最後のゲストが会場を出た。
扉が閉まる。
静かになった。
さっきまで。
三百五十人の声で満ちていた場所。
今はスタッフの片付ける音だけが聞こえる。
腕時計を見る。
予定終了時刻。
プラス三分。
「……終わった」
口から自然に出た。
三ヶ月半。
終わった。
「終わりましたね」
隣を見る。
一ノ瀬くん。
「うん」
「成功……ですよね?」
私は会場を見渡した。
途中。
トラブルもあった。
予定変更もあった。
でも。
新郎新婦は笑っていた。
ゲストも笑っていた。
そして。
最後まで無事に終わった。
「大成功」
そう言った瞬間。
体から力が抜けた。
「よっしゃ」
一ノ瀬くんが小さく拳を握る。
「何それ」
「いや、嬉しくないですか?」
「嬉しいよ」
「水野主任、もっと喜んでくださいよ」
「疲れたの」
「それは俺もです」
「一ノ瀬くんはまだ若いでしょ」
「十歳差使うのずるくないですか?」
「こういうとき便利だから」
「俺が言ったやつじゃん」
笑った。
そのとき。
「水野さん」
振り返る。
新婦が立っていた。
隣には新郎。
もう着替えを終えている。
「今日は、本当にありがとうございました」
「こちらこそありがとうございました」
「すごく楽しかったです」
新婦の目が少し赤い。
でも。
笑っている。
「朝、あんなに緊張してたのに?」
「本当に。始まったら一瞬でした」
「結婚式って、そうなんですよ」
「三ヶ月半準備したのに」
「本番は数時間ですからね」
「でも」
新婦が私を見る。
「今日のこと、一生忘れません」
その言葉に。
胸の奥がぎゅっとなる。
何年か前。
担当した新婦さんが。
子どもを連れてホテルへ来てくれた。
『今でも結婚式の話します』
あの言葉が。
私が十一年、この仕事を続けている理由の一つになった。
そして今日。
また。
「……ありがとうございます」
笑う。
「私も忘れません」
新婦が笑った。
「水野さんにお願いして、本当によかったです」
「私も」
少しだけ視線を動かす。
一ノ瀬くんがいる。
「担当できてよかったです」
二人をホテルの出口まで見送る。
「お幸せに」
「ありがとうございます」
新郎新婦が頭を下げる。
そして。
二人で歩いていく。
その背中が見えなくなるまで。
私は見送った。
「水野主任」
「ん?」
隣に一ノ瀬くんが立っていた。
「分かりました」
「何が?」
「前に言ってたこと」
「前?」
「何十年経っても覚えてる人がいるから、この仕事続けてるって」
「あ……」
覚えてたんだ。
あの夜。
二人で残業していたときに話したこと。
「今日、ちょっと分かった気がします」
一ノ瀬くんが、新郎新婦が出ていった扉を見る。
「契約取ったときは、正直こんな気持ちになると思ってなかったです」
「どういう気持ち?」
「なんだろ」
少し考えて。
「終わって寂しいです」
私は一ノ瀬くんを見る。
「三ヶ月半ずっとやってたじゃないですか」
「うん」
「終わって嬉しいはずなのに。成功したし」
「うん」
「でも、もう神崎さんたちのことで水野主任のところ行くことないんだなって思ったら」
一瞬。
心臓が跳ねた。
でも。
一ノ瀬くんは何でもないように続ける。
「ちょっと変な感じです」
「……そうだね」
同じだ。
私も。
昨日。
同じことを思った。
「まあ」
一ノ瀬くんが私を見る。
「三ヶ月半、お疲れさまでした」
「一ノ瀬くんも」
「俺、結構頑張りましたよね?」
「最後にそれ言わなければ格好よかったのに」
「褒めてくださいよ」
「頑張った、頑張った」
「また雑」
笑う。
「でも」
私は一ノ瀬くんを見る。
三ヶ月半前。
質問ばかりしていた後輩。
それが今日は。
私が何も言わなくても動いて。
トラブルまで一人で対応した。
「本当に助かった」
「……」
「ありがとう、一ノ瀬くん」
一ノ瀬くんが少しだけ驚いた顔をする。
そして。
笑った。
「どういたしまして」
少しだけ。
静かな時間が流れる。
三ヶ月半。
終わったんだ。
本当に。
そう思った、そのとき。
「で」
一ノ瀬くんが口を開く。
「なに?」
「打ち上げ、いつにします?」
「……」
「三ヶ月半頑張ったんですよ、俺たち」
「今、このタイミングで言う?」
「大事じゃないですか」
「せっかくいい感じだったのに」
「じゃあ今日行きます?」
「無理。疲れた」
「ですよね」
「一ノ瀬くんも疲れてるでしょ」
「腹は減ってます」
「それはいつもじゃん」
「じゃあ今度ちゃんと行きましょう」
「はいはい」
「約束ですよ」
「分かったって」
「忘れないでくださいね」
「忘れないよ」
一ノ瀬くんが満足そうに頷く。
私は小さく息を吐いた。
「……余韻返して」
「え?」
「なんでもない」
三ヶ月半かけた結婚式は。
大成功で終わった。
そして。
このときの私はまだ知らなかった。
一ノ瀬くんとの打ち上げが。
仕事だけだった私たちの距離を。
思っていたよりずっと大きく変えることになるなんて。
披露宴会場の扉を抜けた瞬間。
空気が変わった。
昨日まで静かだった会場に、人の声が満ちている。
三百五十人。
数字では何度も見てきた。
席次表でも。
進行表でも。
スタッフ配置表でも。
でも。
実際に三百五十人のゲストが集まった光景は、やっぱり違う。
「……すご」
隣で一ノ瀬くんが呟いた。
「昨日と全然違いますね」
「当たり前でしょ」
「分かってましたけど……三百五十人って、こんななんですね」
「見惚れてる暇ないよ」
「はい、主任」
「返事だけはいいね」
「今日はちゃんと働きますって」
「今日“も”でしょ?」
「あ、そこ認めてくれるんですね」
「一ノ瀬くん」
「行ってきます」
笑いながら、一ノ瀬くんがVIP受付へ向かう。
私は会場全体を見る。
司会。
音響。
照明。
料理。
サービススタッフ。
全員が動いている。
腕時計を見る。
予定通り。
「水野主任、新郎新婦準備完了です」
「分かりました」
いよいよ。
「司会、お願いします」
会場の照明が落ちる。
ざわめきが少しずつ静まっていく。
音楽が流れた。
扉が開く。
新郎新婦が入場した瞬間。
大きな拍手が会場を包んだ。
新婦が笑っている。
朝。
あんなに緊張していた人とは思えない。
よかった。
まずは一つ。
私は進行表へ視線を落とした。
ここから約三時間。
絶対に気を抜けない。
乾杯。
料理提供。
歓談。
予定通りに進んでいく。
「水野主任」
「はい」
宴会部のスタッフが小走りで近づいてきた。
その表情を見ただけで分かる。
何かあった。
「新郎側の主賓の方が、体調が悪いそうです」
「今どこ?」
「お手洗いに向かわれて、そのまま少し休みたいと」
進行表を見る。
主賓挨拶まで。
あと七分。
「同行者は?」
「一緒です」
「分かった」
考える。
止めない。
披露宴は止めない。
「歓談を五分前倒し。料理も一皿早めて」
「はい」
「司会には私から伝える」
「分かりました」
すぐに司会者のところへ向かう。
状況を説明する。
「では、歓談へつなぎます」
「お願いします」
次。
一ノ瀬くんを探す。
いた。
VIP席の近く。
目が合う。
手招きする。
すぐに来た。
「どうしました?」
「新郎側主賓の方、体調不良」
一ノ瀬くんの表情が変わる。
「挨拶の方ですよね?」
「そう。今休んでもらってる」
「俺、行きます」
「お願いできる?」
「もちろんです」
「無理に戻ってもらわなくていいから。本人の体調最優先。挨拶できそうなら、どれくらいで戻れるかだけ確認して」
「分かりました」
それだけで走っていく。
説明は、それだけでよかった。
以前なら。
もっと細かく指示していた。
誰に確認して。
何を聞いて。
どう報告して。
でも今は。
必要ない。
私は私の仕事に戻る。
「水野主任、料理前倒しできます」
「お願いします。五分だけ調整」
「了解です」
司会者が自然に歓談へつなぐ。
ゲストたちが会話を始める。
誰も気づいていない。
予定されていた挨拶が飛んだことなんて。
気づかせなくていい。
それが私たちの仕事だ。
数分後。
「水野主任」
一ノ瀬くんが戻ってきた。
「どうだった?」
「大丈夫です。少し休めば戻れるそうです」
「時間は?」
「十分くらい。ただ、挨拶は短めにしたいって」
進行表を見る。
頭の中で組み替える。
「ケーキ入刀のあと」
「入れられます?」
「入れる」
「司会は?」
「今から伝える」
「料理は?」
「もう動かしてる」
一ノ瀬くんが一瞬だけ黙った。
そして。
「……いけますね」
私は頷く。
「いける」
それだけ。
すぐに二人とも別方向へ動いた。
十分後。
主賓の方が会場へ戻ってくる。
顔色も戻っていた。
予定を変更して。
ケーキ入刀。
写真撮影。
そのあと。
主賓挨拶。
少し短くなったけれど。
問題なく終わった。
時計を見る。
遅れ。
二分。
「戻せる」
小さく呟く。
その後の進行で調整できる。
気づけば。
披露宴は後半に入っていた。
新婦のお色直し。
再入場。
テーブルラウンド。
余興。
そして。
新婦から両親への手紙。
会場の照明が落ちる。
さっきまで賑やかだった三百五十人が静かになる。
新婦が手紙を開いた。
声が少し震えている。
『お父さん、お母さん――』
私は会場後方に立った。
何度見てきただろう。
十一年間。
数え切れないくらい。
それでも。
この時間だけは。
なぜか毎回、見てしまう。
新婦の母親がハンカチで目元を押さえる。
父親は泣くのを堪えるように俯いている。
新郎が隣で新婦を見守っている。
一つの家族から。
また新しい家族が生まれる。
ふと。
少し離れたところに一ノ瀬くんがいることに気づいた。
仕事の手を止めて。
新婦を見ていた。
いつもの軽い表情はない。
真剣に。
一つ一つの言葉を聞いている。
この人も。
今日という一日を、ちゃんと大切にしてくれている。
なぜか。
それが嬉しかった。
手紙が終わる。
花束贈呈。
そして。
新郎からの謝辞。
「本日は、僕たち二人のためにお集まりいただき、本当にありがとうございました」
新郎が会場を見渡す。
家族へ。
友人へ。
仕事関係の人たちへ。
一つずつ感謝を伝えていく。
そして最後に。
「そして、今日という日を一緒に作ってくださったホテルの皆様にも、本当に感謝しています」
一瞬。
息が止まった。
「何度も変更をお願いして、たくさんご迷惑をおかけしました。それでも最後まで僕たちの希望を聞いてくださって、本当にありがとうございました」
新婦も頭を下げる。
拍手が起きた。
私は小さく頭を下げる。
隣から。
「……これ、やばいですね」
小さな声。
一ノ瀬くんだった。
「泣くの?」
「泣いてません」
「目、赤いよ」
「水野主任もじゃないですか」
「私は十一年やってるから慣れてる」
「絶対嘘」
「本当」
「じゃあなんで目潤んでるんです?」
「照明」
「便利ですね、照明」
「うるさい」
小さく笑った。
新郎新婦が退場する。
大きな拍手。
扉が閉じる。
でも。
まだ終わりじゃない。
送賓。
三百五十人。
最後の一人が帰るまで。
私たちの仕事は終わらない。
「ありがとうございました」
「おめでとうございます」
「すごくいい式だったよ」
ゲストたちが次々と新郎新婦へ声をかけていく。
十分。
二十分。
三十分。
ようやく。
最後のゲストが会場を出た。
扉が閉まる。
静かになった。
さっきまで。
三百五十人の声で満ちていた場所。
今はスタッフの片付ける音だけが聞こえる。
腕時計を見る。
予定終了時刻。
プラス三分。
「……終わった」
口から自然に出た。
三ヶ月半。
終わった。
「終わりましたね」
隣を見る。
一ノ瀬くん。
「うん」
「成功……ですよね?」
私は会場を見渡した。
途中。
トラブルもあった。
予定変更もあった。
でも。
新郎新婦は笑っていた。
ゲストも笑っていた。
そして。
最後まで無事に終わった。
「大成功」
そう言った瞬間。
体から力が抜けた。
「よっしゃ」
一ノ瀬くんが小さく拳を握る。
「何それ」
「いや、嬉しくないですか?」
「嬉しいよ」
「水野主任、もっと喜んでくださいよ」
「疲れたの」
「それは俺もです」
「一ノ瀬くんはまだ若いでしょ」
「十歳差使うのずるくないですか?」
「こういうとき便利だから」
「俺が言ったやつじゃん」
笑った。
そのとき。
「水野さん」
振り返る。
新婦が立っていた。
隣には新郎。
もう着替えを終えている。
「今日は、本当にありがとうございました」
「こちらこそありがとうございました」
「すごく楽しかったです」
新婦の目が少し赤い。
でも。
笑っている。
「朝、あんなに緊張してたのに?」
「本当に。始まったら一瞬でした」
「結婚式って、そうなんですよ」
「三ヶ月半準備したのに」
「本番は数時間ですからね」
「でも」
新婦が私を見る。
「今日のこと、一生忘れません」
その言葉に。
胸の奥がぎゅっとなる。
何年か前。
担当した新婦さんが。
子どもを連れてホテルへ来てくれた。
『今でも結婚式の話します』
あの言葉が。
私が十一年、この仕事を続けている理由の一つになった。
そして今日。
また。
「……ありがとうございます」
笑う。
「私も忘れません」
新婦が笑った。
「水野さんにお願いして、本当によかったです」
「私も」
少しだけ視線を動かす。
一ノ瀬くんがいる。
「担当できてよかったです」
二人をホテルの出口まで見送る。
「お幸せに」
「ありがとうございます」
新郎新婦が頭を下げる。
そして。
二人で歩いていく。
その背中が見えなくなるまで。
私は見送った。
「水野主任」
「ん?」
隣に一ノ瀬くんが立っていた。
「分かりました」
「何が?」
「前に言ってたこと」
「前?」
「何十年経っても覚えてる人がいるから、この仕事続けてるって」
「あ……」
覚えてたんだ。
あの夜。
二人で残業していたときに話したこと。
「今日、ちょっと分かった気がします」
一ノ瀬くんが、新郎新婦が出ていった扉を見る。
「契約取ったときは、正直こんな気持ちになると思ってなかったです」
「どういう気持ち?」
「なんだろ」
少し考えて。
「終わって寂しいです」
私は一ノ瀬くんを見る。
「三ヶ月半ずっとやってたじゃないですか」
「うん」
「終わって嬉しいはずなのに。成功したし」
「うん」
「でも、もう神崎さんたちのことで水野主任のところ行くことないんだなって思ったら」
一瞬。
心臓が跳ねた。
でも。
一ノ瀬くんは何でもないように続ける。
「ちょっと変な感じです」
「……そうだね」
同じだ。
私も。
昨日。
同じことを思った。
「まあ」
一ノ瀬くんが私を見る。
「三ヶ月半、お疲れさまでした」
「一ノ瀬くんも」
「俺、結構頑張りましたよね?」
「最後にそれ言わなければ格好よかったのに」
「褒めてくださいよ」
「頑張った、頑張った」
「また雑」
笑う。
「でも」
私は一ノ瀬くんを見る。
三ヶ月半前。
質問ばかりしていた後輩。
それが今日は。
私が何も言わなくても動いて。
トラブルまで一人で対応した。
「本当に助かった」
「……」
「ありがとう、一ノ瀬くん」
一ノ瀬くんが少しだけ驚いた顔をする。
そして。
笑った。
「どういたしまして」
少しだけ。
静かな時間が流れる。
三ヶ月半。
終わったんだ。
本当に。
そう思った、そのとき。
「で」
一ノ瀬くんが口を開く。
「なに?」
「打ち上げ、いつにします?」
「……」
「三ヶ月半頑張ったんですよ、俺たち」
「今、このタイミングで言う?」
「大事じゃないですか」
「せっかくいい感じだったのに」
「じゃあ今日行きます?」
「無理。疲れた」
「ですよね」
「一ノ瀬くんも疲れてるでしょ」
「腹は減ってます」
「それはいつもじゃん」
「じゃあ今度ちゃんと行きましょう」
「はいはい」
「約束ですよ」
「分かったって」
「忘れないでくださいね」
「忘れないよ」
一ノ瀬くんが満足そうに頷く。
私は小さく息を吐いた。
「……余韻返して」
「え?」
「なんでもない」
三ヶ月半かけた結婚式は。
大成功で終わった。
そして。
このときの私はまだ知らなかった。
一ノ瀬くんとの打ち上げが。
仕事だけだった私たちの距離を。
思っていたよりずっと大きく変えることになるなんて。