十年前なら、あなたを好きになれたのに。―10歳下の後輩に本気で恋をしました―

第16話 彼女、いるんですか?

第16話 彼女、いるんですか?
「じゃあ改めて」
一ノ瀬くんの前にもグラスが置かれる。
「一ノ瀬さんも来たことだし、もう一回乾杯しましょうよ」
「え、俺のために?」
「違います。私たちがもう一回飲みたいだけです」
「正直だなぁ」
「ほら、主任」
「また私?」
「主任しかいないでしょ」
「さっきやったんだけど」
「二回目お願いします」
仕方なくグラスを持つ。
一ノ瀬くんと目が合った。
「じゃあ、一ノ瀬くんもお疲れさま」
「ありがとうございます」
「神崎さんたちの結婚式、大成功ということで」
みんながグラスを上げる。
「改めて、お疲れさまでした。乾杯」
「乾杯!」
グラスがぶつかる。
一ノ瀬くんもビールを一口飲んだ。
「うま」
「仕事終わりですもんね」
「今日長かったんですよ」
「打ち合わせ?」
「そう。全然終わんなくて」
「一ノ瀬さん来ないかと思いました」
「来ますよ。三ヶ月半頑張った打ち上げなんだから」
そう言って。
一ノ瀬くんが私を見る。
「水野主任にも約束しましたし」
「……私?」
「打ち上げ行くって」
「ああ」
結婚式が終わったあと。
確かに言った。
『じゃあ今度ちゃんと行きましょう』
『約束ですよ』
「忘れてたんですか?」
「忘れてないよ」
「今の間、怪しいなぁ」
「覚えてました」
「ならいいです」
何でもない会話。
いつも通り。
なのに。
今日は周りの視線が気になる。
「……」
見ると。
後輩二人がニヤニヤしている。
絶対。
さっきの話を引きずってる。
「何?」
「何も言ってませんよ?」
「顔が言ってる」
「主任、今日敏感ですね」
「うるさい」
またグラスに口をつける。
「そういえば一ノ瀬さん」
来た。
嫌な予感がする。
「はい?」
「聞きたいことあるんですけど」
「なんですか?」
「彼女いるんですか?」
ほら。
聞いた。
一ノ瀬くんが一瞬だけ止まる。
「……急ですね」
「気になって」
「なんでですか」
「女子六人の飲み会に男一人で来たんですよ?」
「仕事の打ち上げですよね?」
「それはそうですけど」
「怖いなぁ、この席」
みんなが笑う。
私も笑った。
笑った、けど。
聞いていた。
ちゃんと。
一ノ瀬くんの答えを待っていた。
「で?」
「聞くんですか?」
「聞きます」
一ノ瀬くんがグラスを置く。
「いないですよ」
「えっ」
「ほんとに?」
「はい」
「意外」
「なんでですか」
「普通にモテそうなのに」
「普通ってなんですか」
「顔もいいし」
「ありがとうございます」
「背高いし」
「それはどうも」
「仕事もできるようになったし」
「最後だけ最近じゃないですか?」
「そこは主任のおかげで」
急にこっちへ振られる。
「私?」
「育ててもらったんで」
「だからその言い方やめて」
「違うんですか?」
「一ノ瀬くんが勝手に覚えたんでしょ」
「またまた」
笑いが起きる。
私はグラスを持った。
一ノ瀬くん。
彼女いないんだ。
「……」
ビールを一口飲む。
なんだろう。
少しだけ。
本当に少しだけ。
胸の奥が軽くなった気がした。
「……?」
なんで?
彼女がいなかったから?
いや。
関係ないでしょ。
私には何も。
「じゃあ好きな人は?」
「ちょっと待ってください」
一ノ瀬くんが笑う。
「どこまで聞くんですか?」
「いいじゃないですか」
「よくないですよ」
「いないんですか?」
「それは秘密です」
一瞬。
また。
胸の奥が引っかかった。
秘密。
それって。
いるってこと?
「えー! 怪しい!」
「絶対いるじゃん!」
「いませんって」
「今秘密って言ったでしょ」
「こういうのは答えたら負けだと思ってるんで」
「何の勝負ですか」
みんなが盛り上がる。
私は黙ってグラスを傾ける。
彼女はいない。
好きな人は秘密。
……だから何。
「水野主任」
「ん?」
「飲むの早くないです?」
気づけばグラスがほとんど空いていた。
「そう?」
「俺来たときも結構飲んでましたよね」
「明日休みだから」
「それ、免罪符じゃないですよ」
「一ノ瀬くん、お母さんみたい」
「それ今朝俺が言ったやつ」
「そうだっけ?」
「え?」
一ノ瀬くんが私を見る。
しまった。
「今朝?」
後輩が反応した。
「今朝ってなんですか?」
「……」
一ノ瀬くんを見る。
目が合う。
「いや」
「別に」
ほとんど同時だった。
「何それ」
「怪しい」
「主任、一ノ瀬さんと今朝何かあったんですか?」
「何もない」
「じゃあなんで今二人とも同じ反応したんですか?」
「偶然」
「絶対嘘」
まずい。
朝六時半。
モーニングコール。
あれをここで知られるのは。
なんか。
ものすごく嫌だ。
「一ノ瀬くん」
「はい」
目で訴える。
言うな。
一ノ瀬くんが少し笑った。
「何もないですよ」
「ほんとに?」
「はい。ちょっと仕事の連絡しただけです」
「朝から?」
「結婚式の日だったんで」
嘘ではない。
嘘ではないけど。
「なーんだ」
興味を失ったように料理へ戻っていく。
私は小さく息を吐いた。
「……ありがとう」
一ノ瀬くんにだけ聞こえる声で言う。
「モーニングコールしてもらったって言ってもよかったのに」
「絶対やめて」
「なんでですか?」
「なんでも」
「水野主任、あれ結構悩んでかけたとか?」
「……」
一瞬。
固まった。
「え?」
一ノ瀬くんが私を見る。
「まさか本当に?」
「違う」
「今の間は怪しいなぁ」
「違うって」
「何分くらい悩みました?」
「一秒も悩んでない」
「ほんとですか?」
「仕事だからかけただけ」
「じゃあそういうことにしときます」
「その言い方腹立つ」
一ノ瀬くんが笑う。
私は。
また飲んだ。
なんだか今日は。
いつもより一ノ瀬くんのことを考えさせられる。
かっこいいとか。
彼女とか。
好きな人とか。
モーニングコールとか。
全部。
普段なら考えないことばかり。
「主任、次何飲みます?」
「ワイン」
「まだ飲むんですか?」
「飲むよ」
「水も頼みましょう」
「いらない」
「いります」
一ノ瀬くんが店員を呼ぶ。
「赤ワイン一つと、お水もお願いします」
「勝手に頼まないで」
「主任のためです」
「一ノ瀬くん最近ほんと私の上司みたい」
「水野主任が危なっかしいんですよ」
「私、三十四歳なんだけど」
「知ってます」
「一ノ瀬くんより十歳上」
「それも知ってます」
「じゃあ大丈夫」
「どういう理屈ですか」
また笑いが起きる。
楽しい。
仕事中とは違う。
誰も時間を気にしていない。
電話も鳴らない。
進行表もない。
何か起きるかもしれないと構える必要もない。
三ヶ月半。
ずっと張り詰めていたものが。
少しずつ解けていく。
ワインが来る。
飲む。
料理を食べる。
また飲む。
話す。
笑う。
気づけば。
一時間。
二時間。
「主任」
「んー?」
「これ覚えてます?」
後輩がスマートフォンを見せてくる。
神崎さんたちの会場を準備していたときの写真。
「懐かしい」
「四日前ですよ」
「なんかもっと前な感じする」
「分かります」
写真を横へ送っていく。
スタッフたち。
会場。
料理。
装花。
そして。
「あ」
一枚。
私と一ノ瀬くん。
いつ撮ったんだろう。
二人で進行表を見ながら話している。
撮られていたことすら知らない。
「これ、いい写真じゃないですか?」
「いつ撮ったの?」
「前日です」
「勝手に撮らないでよ」
「二人とも仕事してるからいいかなって」
「俺にも送ってください」
一ノ瀬くんが横から覗き込む。
近い。
肩が。
少しだけ触れた。
「……」
いつもなら。
何とも思わない。
仕事中だって。
もっと近くで資料を見たことは何度もある。
なのに。
さっき。
みんなが余計なことを言ったから。
普通にかっこいい。
彼女はいない。
好きな人は秘密。
「主任?」
「なに?」
「写真見ないんですか?」
「見てる」
「顔赤くないです?」
「飲んでるから」
「水飲みました?」
「飲んだ」
「ほんとに?」
「飲んだって」
「これ水ですよ」
一ノ瀬くんがグラスを渡してくる。
受け取る。
一口飲む。
「……水だ」
「だから水ですって」
「味しない」
「水なんで」
「お酒の方がおいしい」
「結構酔ってます?」
「酔ってない」
「酔ってる人みんなそれ言いますよ」
「大丈夫」
「怪しい」
「一ノ瀬くん」
「はい?」
「今日うるさい」
「主任が飲みすぎるからです」
「明日休み」
「知ってます」
「だからいいの」
「よくないです」
私は笑った。
なんだろう。
すごく楽しい。
仕事じゃない一ノ瀬くんと。
こんなふうに話すのは。
初めてかもしれない。
「一ノ瀬くん」
「はい?」
「来てよかったね」
「打ち上げ?」
「うん」
「そりゃ来ますよ」
「遅かったけど」
「仕事だったんですって」
「三十分」
「まだ言います?」
「遅刻」
「打ち上げに遅刻ってあります?」
「ある」
「厳しいなぁ」
また笑う。
気づけば。
もう何杯飲んだのか。
よく分からなくなっていた。
「そろそろ出ます?」
誰かが言った。
時計を見る。
二十二時を過ぎている。
「ほんとだ」
「明日休みとはいえ、結構飲みましたね」
「楽しかったー」
「主任、大丈夫ですか?」
「大丈夫」
立ち上がる。
「……」
少し。
床が揺れた。
いや。
床は揺れてない。
「水野主任」
腕を掴まれた。
「大丈夫ですか?」
一ノ瀬くん。
「大丈夫」
「全然大丈夫じゃないですよ」
「ちょっと立つの早かっただけ」
「それ酔ってる人の言い訳です」
「酔ってない」
「はいはい」
「子ども扱いしないで」
「してません」
「私の方が十歳上だから」
「今日それ何回言うんですか」
店を出る。
夜風が気持ちいい。
「主任、ほんと大丈夫?」
「電車乗れます?」
「乗れるよ」
みんなが心配そうに見ている。
「一人で帰れる?」
「帰れるって」
「絶対寝そう」
「寝ない」
「主任、今日いつもより飲んでますよね」
「明日休みだから」
「またそれ」
笑い声。
でも。
一歩歩いたところで。
少しふらついた。
「危な」
一ノ瀬くんが支える。
「ほら」
「……大丈夫」
「いや、大丈夫じゃないです」
後輩たちが顔を見合わせる。
「どうしよう」
「私、逆方向なんですよね」
「私も」
「主任の家ってどっちでしたっけ?」
「……」
答えようとしたけど。
頭が少し回らない。
「一ノ瀬さん」
嫌な予感がした。
「はい?」
「主任、お願いしていいですか?」
「え、俺ですか?」
「男、一ノ瀬さんしかいないんで」
「それ理由になってます?」
「なってます」
「タクシー乗せてあげてください」
「いや、俺、主任の家知らないですよ」
「本人に聞けば大丈夫です」
「本人がこの状態なんですけど」
「大丈夫」
私は言った。
「ほら、本人も大丈夫って」
「それ一番信用できないやつですよ」
一ノ瀬くんがため息をつく。
でも。
私の腕を支えたまま離さない。
「分かりました」
「お願いします」
「ちゃんと送り届けてくださいね」
「タクシー乗せます」
「主任、一人にしないでくださいよ」
「え?」
「この状態で一人にしたら絶対寝ます」
「……俺が送るんですか?」
「お願いします」
女性陣が一斉に頭を下げる。
「いやいやいや」
一ノ瀬くんが困ったように笑う。
「水野主任」
「んー?」
「家、帰れます?」
「帰れる」
「住所言えます?」
「言える」
「じゃあ」
一ノ瀬くんが小さく息を吐く。
「送ります」
「一人で帰れるよ」
「信用ないです」
「失礼」
「今日の主任に言われたくないです」
みんなと別れる。
「主任、お疲れさまでしたー!」
「また休み明けに!」
「一ノ瀬さん、お願いしますね!」
「はいはい」
手を振る。
私も振った。
そして。
気づけば。
一ノ瀬くんと二人になっていた。
さっきまで七人いたのに。
急に。
静かになる。
「水野主任」
「なに?」
「タクシー呼びますよ」
「うん」
「住所、車乗ったら教えてくださいね」
「分かった」
「ほんとに分かってます?」
「分かってるって」
一ノ瀬くんが笑う。
「じゃあ行きましょう」
「うん」
このとき。
酔っていた私は。
まだ何も知らなかった。
このあと。
一ノ瀬くんに自宅のマンション名を伝えた瞬間。
三ヶ月半一緒に仕事をしてきた私たちが。
思っていたよりずっと近い場所で暮らしていたことを。
知ることになる。
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