十年前なら、あなたを好きになれたのに。―10歳下の後輩に本気で恋をしました―

第17話 同じマンション

第17話 同じマンション
店を出てから数分。
一ノ瀬くんが呼んでくれたタクシーが、私たちの前に止まった。
「水野主任、乗れます?」
「乗れる」
「ほんとに?」
「一ノ瀬くん、今日そればっかり」
「今日の主任が信用できないからです」
「失礼だなぁ」
自分では普通に歩いているつもりだった。
でも。
タクシーに乗ろうとした瞬間、足元が少しふらつく。
「危ない」
一ノ瀬くんの手が腕を支えた。
「……大丈夫」
「はいはい」
「その言い方やめて」
「じゃあちゃんと乗ってください」
「分かってる」
後部座席に座る。
そのまま一ノ瀬くんも隣に乗り込んできた。
「……一ノ瀬くんも乗るの?」
「乗りますよ」
「なんで?」
「送るって言ったでしょ」
「タクシー乗せるだけじゃなかった?」
「この状態の主任を一人で乗せたら、みんなに怒られます」
「大丈夫なのに」
「じゃあ住所言ってください」
「言えるよ」
「どうぞ」
「……」
一瞬。
頭が止まった。
「水野主任?」
「待って」
「住所忘れたんですか?」
「忘れてない」
「じゃあお願いします」
運転手さんまで待っている。
「月島」
「はい」
「レジデンス・ルミエール月島」
「……」
隣が静かになった。
「お願いします」
運転手さんがナビを操作する。
「水野主任」
「ん?」
「今、なんて言いました?」
「住所?」
「マンション」
「レジデンス・ルミエール月島」
「……」
一ノ瀬くんが私を見る。
「なに?」
「もう一回いいですか?」
「レジデンス・ルミエール月島」
「……マジですか」
「なにが?」
酔っているせいなのか。
一ノ瀬くんが何に驚いているのか分からない。
「俺もそこ住んでます」
「……」
今度は。
私が黙る番だった。
「……え?」
「俺もレジデンス・ルミエール月島です」
「……嘘」
「なんで嘘つくんですか」
「一ノ瀬くんが?」
「はい」
「同じ?」
「同じです」
「マンション?」
「マンション」
「……」
少しずつ。
酔った頭に意味が入ってくる。
「ええ?」
思ったより大きな声が出た。
運転手さんがミラー越しにこちらを見る。
「主任、声」
「だって」
「俺もびっくりしてます」
「なんで?」
「それ俺が聞きたいです」
「いつから?」
「入社したときからですよ」
「二年?」
「そうです」
「私もっと前から住んでる」
「じゃあ先輩ですね」
「そういう話じゃない」
一ノ瀬くんが笑う。
「いや、すご」
「……」
「三ヶ月半あんなに一緒に仕事してたのに」
「知らなかった」
「一回も会わなかったですね」
「時間違うんじゃない?」
「かもしれないですけど」
信じられない。
同じホテルで働いていて。
この三ヶ月半。
ほぼ毎日のように顔を合わせていた。
なのに。
仕事が終われば。
それぞれ別の場所へ帰っていると思っていた。
それが。
同じマンション。
「……待って」
一つ。
思い出した。
「なに?」
「結婚式の日」
「はい?」
「朝」
「朝?」
「……」
六時半。
スマートフォンを見つめながら。
電話するかどうか。
何分も悩んだ。
やっとかけた電話。
寝起きの一ノ瀬くんの声。
『……もしもし』
『……水野主任?』
あのとき。
「……最悪」
「え?」
「モーニングコール」
一ノ瀬くんも気づいたらしい。
一瞬黙って。
そして。
笑った。
「ちょっと待って」
「笑わないで」
「いや、だって」
「笑わないでって」
「俺たち、同じマンションでモーニングコールしてたんですか?」
「やめて」
「めちゃくちゃ近くにいた可能性ありますよね?」
「お願いだからやめて」
「何階ですか?」
「言わない」
「なんでですか」
「絶対言わない」
「俺、八階ですよ」
「聞いてない」
「主任は?」
「言わない」
「もしかして同じ階だったりして」
「それはない」
「なんで分かるんです?」
「見たことないから」
「じゃあ何階ですか」
「しつこい」
一ノ瀬くんが声を出して笑っている。
「そんな笑うこと?」
「いや、面白いでしょ」
「何が」
「主任、あの日わざわざ電話してくれたじゃないですか」
「仕事だから」
「同じマンションから」
「……」
「近かったんですね、俺たち」
「その言い方やめて」
「なんで?」
「なんか嫌」
「ひど」
私は窓の外を見る。
流れていく東京の夜景。
頭が熱い。
お酒のせい。
絶対。
お酒のせい。
「でも」
一ノ瀬くんが言った。
「これならよかったです」
「なにが?」
「送るの」
「……?」
「俺も家帰れるんで」
「ああ」
確かに。
「方向気にしなくていいし」
「結果的にめちゃくちゃ都合よかったですね」
「そうだね」
「みんなに感謝しないと」
「なんで?」
「主任押し付けてくれて」
「押し付けられたって言わないで」
「結構大変ですよ」
「じゃあ帰れば?」
「同じところ帰るんですって」
また。
同じ。
その言葉が妙に引っかかる。
同じマンション。
一ノ瀬くんと。
「……変なの」
「何がです?」
「なんでもない」
しばらくして。
タクシーが止まった。
見慣れたエントランス。
レジデンス・ルミエール月島。
「着きましたよ」
「うん」
一ノ瀬くんが先に降りる。
私も続く。
立った瞬間。
「……」
少しふらついた。
「ほら」
また腕を支えられる。
「大丈夫」
「もうその言葉信用してないです」
「歩ける」
「じゃあ歩いてください」
「歩いてる」
「俺につかまってますけど」
「一ノ瀬くんが勝手に支えてる」
「離しますよ?」
「……それはダメ」
口にしてから。
一ノ瀬くんが止まった。
私も止まる。
「……」
「……」
一瞬。
目が合った。
「いや」
慌てて言う。
「転んだら危ないから」
「分かってます」
一ノ瀬くんは。
それ以上、何も言わなかった。
エントランスの自動ドアが開く。
二人で中へ入る。
「……ほんとに同じだ」
「まだ疑ってたんですか?」
「だって」
一ノ瀬くんが慣れた様子でオートロックを通る。
本当に。
住んでる。
「すごい偶然ですね」
「東京で?」
「東京で」
「同じ会社で」
「同じホテルで」
「三ヶ月半一緒に仕事して」
「同じマンション」
「……」
二人で顔を見合わせる。
「怖」
「それ俺が言おうとした」
エレベーターのボタンを押す。
扉が開いた。
二人で乗る。
「で」
一ノ瀬くんが操作盤の前に立つ。
「水野主任、何階ですか?」
「……」
「言わないと押せないですよ」
確かに。
「……十二階」
「十二階?」
「なに?」
「いや」
一ノ瀬くんが八階と十二階を押す。
「俺の四階上じゃないですか」
「だから?」
「結構近いですね」
「同じマンションなんだから近いでしょ」
「確かに」
エレベーターが上がっていく。
一階。
二階。
三階。
狭い空間。
二人だけ。
急に。
さっきまでの賑やかな打ち上げが遠く感じた。
八階。
音が鳴る。
扉が開く。
「じゃあ」
一ノ瀬くんが降りようとする。
「……」
なぜか。
少しだけ不安になった。
でも。
一ノ瀬くんは降りなかった。
閉じるボタンを押す。
「……降りないの?」
「主任、十二階でしょ」
「でも一ノ瀬くん八階」
「部屋まで送ります」
「ここまででいいよ」
「さっきふらついてた人が何言ってるんですか」
「もう歩ける」
「十二階まで四階分しかないんで」
「エレベーターだけどね」
「そういうところだけちゃんとしてるなぁ」
扉が閉まる。
九階。
十階。
十一階。
十二階。
扉が開いた。
「どっちです?」
「右」
廊下を歩く。
自分の部屋の前まで来る。
「ここ」
「はい」
鞄から鍵を探す。
「……」
ない。
「水野主任?」
「待って」
「鍵ないんですか?」
「ある」
「どこです?」
「鞄」
「それは分かります」
探す。
見つからない。
「……ない」
「ちょっと貸してください」
「自分でできる」
「さっきからそればっかり」
一ノ瀬くんが私の鞄を覗き込む。
「これじゃないですか?」
「あ」
すぐ見つかった。
「……あった」
「ありましたね」
「私も今見つけようと思ってた」
「はいはい」
鍵を受け取る。
ドアを開ける。
ようやく。
家。
「じゃあ」
一ノ瀬くんが少し離れる。
「水野主任」
「ん?」
「水飲んでから寝てください」
「分かった」
「ちゃんと」
「分かったって」
「明日休みだからって昼まで寝ないでくださいよ」
「それは自由でしょ」
「あと」
「まだあるの?」
「気持ち悪くなったら無理しないでくださいね」
「……一ノ瀬くん」
「はい?」
「お母さんみたい」
「誰のせいですか」
笑う。
「今日はありがとう」
自然に。
言葉が出た。
「送ってくれて」
「いえ」
「一ノ瀬くんも疲れてるのに」
「四階下なんで」
「……そうだった」
また。
笑ってしまう。
「おやすみなさい、水野主任」
「うん」
少しだけ間が空く。
「おやすみ、一ノ瀬くん」
ドアを閉める。
鍵をかける。
靴を脱いで。
そのまま玄関に座り込んだ。
静か。
「……」
一ノ瀬くん。
四階下。
今。
同じ建物の中にいる。
「……嘘でしょ」
今まで。
仕事が終われば。
一ノ瀬くんとは別の世界に戻るような気がしていた。
私は私の家へ。
一ノ瀬くんは一ノ瀬くんの家へ。
それが。
たった四階しか離れていなかった。
スマートフォンが震えた。
「……?」
画面を見る。
一ノ瀬 悠。
メール。
件名:無事ですか
水野主任
ちゃんと部屋入りました?
水飲んで寝てください。
お疲れさまでした。
一ノ瀬
「……」
さっき。
ドアの前で言われたばかりなのに。
私は返信する。
件名:Re:無事ですか
一ノ瀬くん
ちゃんと入りました。
今日はありがとう。
一ノ瀬くんもお疲れさま。
おやすみ。
水野
送信。
スマートフォンを置く。
四階下。
たぶん。
今頃、一ノ瀬くんも自分の部屋に入っている。
同じマンション。
同じエレベーター。
同じエントランス。
これから。
仕事以外でも会うことがあるのかな。
朝。
夜。
休みの日。
コンビニへ行くとき。
ゴミを出すとき。
「……」
そこまで考えて。
顔を覆った。
「やだなぁ……」
何が嫌なのか。
自分でもよく分からない。
ただ。
明日から。
レジデンス・ルミエール月島が。
昨日までとは少し違う場所になってしまった気がした。
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