十年前なら、あなたを好きになれたのに。―10歳下の後輩に本気で恋をしました―
第19話 人事異動
第19話 人事異動
それから、一ヶ月が経った。
結論から言えば。
私と一ノ瀬くんの関係は、ほとんど何も変わらなかった。
同じマンションに住んでいる。
その事実を知ったところで。
毎日顔を合わせるようになったわけでもない。
たまにエントランスで会う。
たまにエレベーターが一緒になる。
朝、出勤する時間が重なったことも二度ほどあった。
そのときは普通に話す。
「おはようございます」
「おはよう」
「今日早いですね」
「一ノ瀬くんもでしょ」
そんな程度。
同じマンションだと知らなかった頃と比べれば。
少しだけ。
仕事以外の一ノ瀬くんを知った。
でも。
会社では。
むしろ逆だった。
一ノ瀬くんを見かけることが、ほとんどなくなった。
理由は単純。
部署が違う。
一ノ瀬くんは営業部。
私は婚礼部。
神崎さんたちの結婚式が終われば。
一ノ瀬くんが婚礼部に来る理由なんてない。
三ヶ月半。
ほとんど毎日のように。
「水野主任、ちょっといいですか?」
そう言って私のところへ来ていたのに。
それが。
ぱったりとなくなった。
最初の数日は。
少し変な感じがした。
仕事をしていて。
誰かが婚礼部へ入ってくるたびに。
一瞬だけ。
顔を上げる。
でも。
一ノ瀬くんじゃない。
当たり前なのに。
「……」
何やってるんだろう。
メールも来なくなった。
一ノ瀬 悠。
その名前が受信ボックスに表示されることもない。
当たり前。
神崎さんたちの案件について聞くことは、もう何もない。
新しい案件が始まれば。
それぞれ自分の仕事へ戻る。
本来は。
これが普通だった。
一ノ瀬くんは営業部。
私は婚礼部。
三ヶ月半だけ。
たまたま同じ仕事をしていただけ。
だから。
何もおかしくない。
ただ。
静かになったな。
そう思っただけ。
そう。
それだけ。
「主任」
「ん?」
「次の新郎新婦、十五時ですよね?」
「そう。資料できてる?」
「はい」
「じゃあ十分前に一回確認しよう」
「分かりました」
婚礼部には。
次の結婚式がある。
一つ終われば。
また次。
いつまでも一つの結婚式に浸っているわけにはいかない。
神崎さんたちの結婚式から。
四日後に打ち上げをして。
その翌日は休み。
そして。
休み明け。
「水野主任!」
出勤した瞬間だった。
「……なに?」
「待ってました」
後輩が私のところへ来る。
一人じゃない。
二人。
三人。
「何?」
「昨日どうでした?」
「昨日?」
「一ノ瀬さんですよ」
「ああ……」
嫌な予感しかしない。
「ちゃんと送ってもらったんですよね?」
「送ってもらったよ」
「どこまで?」
「どこまでって」
「駅?」
「タクシー」
「一緒に乗ったんですか?」
「乗ったよ」
「えっ」
「何その反応」
「じゃあ家まで?」
「……家まで」
「ええっ」
「声大きい」
朝から元気すぎる。
「一ノ瀬さん、家まで来たんですか?」
「来たっていうか、送ってもらっただけ」
「部屋まで?」
「……玄関の前まで」
三人の顔が変わった。
「何?」
「いやいやいや」
「主任」
「なに?」
「何もなかったんですか?」
「あるわけないでしょ」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「部屋入ってない?」
「入ってない!」
思ったより大きな声が出た。
今度は私が周りを見る。
幸い。
まだ出勤しているスタッフは少ない。
「もう。朝から何なの」
「だって気になるじゃないですか」
「何が」
「主任が男の人に送ってもらうとか珍しいし」
「私が頼んだんじゃないでしょ」
「でも一ノ瀬さん、ちゃんと家まで送ったんだ」
「みんなが押し付けたんでしょ」
「人聞き悪いなぁ」
「実際そうだったじゃん」
笑い声。
私は鞄を机に置く。
「はい、この話終わり」
「えー」
「仕事するよ」
「もう一個だけ」
「嫌」
「主任」
「嫌って言ってるでしょ」
「一ノ瀬さん、優しかったですか?」
「……」
昨日。
タクシー。
エントランス。
エレベーター。
十二階。
鍵まで探してもらって。
水を飲めと言われて。
メールまで来た。
「普通」
「間があった」
「ない」
「ありましたよ」
「普通だった」
「怪しい」
「何もないって」
本当に。
何もない。
なのに。
こうやって聞かれると。
何かあったみたいに思えてくるから不思議だ。
「あ」
一人が言った。
「何?」
「そういえば主任の家と一ノ瀬さんの家、方向一緒だったんですか?」
「……」
一瞬。
言葉に詰まった。
同じ方向。
どころじゃない。
同じマンション。
しかも。
四階下。
「まあ……そんな感じ」
「へえ」
「近いんですか?」
「……それなりに」
嘘ではない。
ものすごく近い。
「じゃあ送ってもらって正解でしたね」
「そうだね」
なぜか。
同じマンションだということは言わなかった。
別に。
隠すことでもない。
言ったっていい。
『実は同じマンションだった』
それだけ。
なのに。
なんとなく。
言いたくなかった。
理由は。
自分でも分からない。
「はい、本当に終わり。仕事」
「主任照れてる?」
「照れてない」
「顔赤くないですか?」
「朝から怒らせるからでしょ」
「逃げた」
「仕事!」
みんなが笑いながら散っていく。
私は椅子に座る。
パソコンを起動する。
「……まったく」
でも。
少しだけ。
おかしかった。
こんなふうに。
男の人とのことを根掘り葉掘り聞かれるのも。
何もないと言っているのに。
何かあるみたいにからかわれるのも。
私にしたら。
随分、久しぶりだった。
昔は。
こんな会話もした気がする。
彼氏がどうとか。
好きな人がどうとか。
誰とご飯に行ったとか。
連絡が来たとか。
来ないとか。
いつからだろう。
そういう話から。
自分が少しずつ離れていったのは。
「……」
パソコンが立ち上がる。
「仕事しよ」
それから。
一週間。
二週間。
時間が経つにつれて。
一ノ瀬くんの名前が婚礼部で出ることも減っていった。
最初の頃は。
「あのとき一ノ瀬さん走ってましたよね」
とか。
「一ノ瀬さん、営業戻って忙しいのかな」
とか。
そんな話もしていた。
でも。
婚礼部は忙しい。
次の新郎新婦が来る。
次の結婚式がある。
新しい打ち合わせが始まる。
神崎さんたちの結婚式も。
少しずつ。
最近の仕事から。
終わった仕事へ変わっていった。
それと一緒に。
一ノ瀬くんの名前も。
婚礼部では聞かなくなっていった。
一ヶ月も経てば。
それが普通になった。
そんなある朝。
「おはようございます」
「おはよう」
いつも通り出勤する。
パソコンを立ち上げる。
メールを確認する。
新郎新婦から二件。
衣装部から一件。
宴会部から三件。
社内連絡。
その中に。
人事部からの通知があった。
「……人事異動?」
珍しい。
時期としては。
なくはない。
でも。
婚礼部にはあまり関係のない話だと思った。
婚礼部は少し特殊だ。
学生時代からブライダルについて学んできた人が。
そのまま婚礼の仕事を希望して入ってくることも多い。
もちろん全員ではないけれど。
専門的な知識も必要になる。
新郎新婦との打ち合わせ。
衣装。
料理。
装花。
演出。
進行。
当日の運営。
覚えることは多い。
だから。
他部署から婚礼部へ異動してくる人は。
それほど多くない。
逆も同じ。
一度婚礼部に配属されれば。
長く働く人が多い。
私も。
その一人。
十一年。
ずっとここ。
「主任」
隣から声。
「ん?」
「人事異動見ました?」
「今開いたところ」
「珍しいですよね」
「何が?」
「婚礼部」
手が止まる。
「婚礼部?」
「一人来るみたいですよ」
「え?」
それは珍しい。
画面をスクロールする。
いくつかの部署。
いくつかの名前。
営業部。
宿泊部。
料飲部。
そして。
婚礼部。
「……」
一度。
通り過ぎた。
「え?」
戻る。
異動前。
営業部。
異動先。
婚礼部。
氏名。
一ノ瀬 悠。
「……」
見る。
一ノ瀬 悠。
「……え?」
もう一度。
営業部。
婚礼部。
一ノ瀬 悠。
「主任?」
「ちょっと待って」
「どうしました?」
「……」
三回目。
見る。
一ノ瀬 悠。
何度見ても。
変わらない。
「……なんで?」
思わず。
声に出た。
「一ノ瀬さんですよね?」
後輩が私の画面を覗き込む。
「ほら。神崎様のときの」
「……うん」
「営業から婚礼って珍しいですね」
「珍しい」
というか。
聞いてない。
一ノ瀬くんから。
何も。
同じマンションに住んでいて。
この一ヶ月。
何度か顔も合わせた。
エレベーターで一緒になったこともある。
朝。
一緒にマンションを出た日だってある。
なのに。
一言も。
『異動することになりました』
なんて。
聞いていない。
「……いつ決まったの」
「主任?」
「え?」
「さっきから人事表めっちゃ見てますよ」
「見てない」
「見てましたよ」
「確認してただけ」
「三回も?」
「……」
数えてたの?
「だって見間違いかと思って」
「一ノ瀬さんが来るの、そんなにびっくりですか?」
「びっくりするでしょ」
「まあ、確かに」
後輩が画面を見る。
そして。
私を見る。
「主任」
「なに?」
少し。
嫌な笑い方をした。
「よかったですね」
「……何が?」
「一ノ瀬さん、また来ますよ」
「だから何」
「毎日」
「仕事でね」
「また質問攻めにされるかもしれませんよ」
「それは困る」
「でも」
後輩が笑う。
「ちょっと嬉しそう」
「……は?」
「顔」
「どこが」
「なんとなく」
「気のせい」
「そうですか?」
「そうです」
画面を閉じる。
その直前。
もう一度だけ。
名前が目に入った。
一ノ瀬 悠。
営業部から。
婚礼部へ。
一ヶ月。
婚礼部でほとんど聞かなくなっていた名前を。
私はその朝。
三回も確認した。
……いや。
最後のを入れたら。
四回だった。
それから、一ヶ月が経った。
結論から言えば。
私と一ノ瀬くんの関係は、ほとんど何も変わらなかった。
同じマンションに住んでいる。
その事実を知ったところで。
毎日顔を合わせるようになったわけでもない。
たまにエントランスで会う。
たまにエレベーターが一緒になる。
朝、出勤する時間が重なったことも二度ほどあった。
そのときは普通に話す。
「おはようございます」
「おはよう」
「今日早いですね」
「一ノ瀬くんもでしょ」
そんな程度。
同じマンションだと知らなかった頃と比べれば。
少しだけ。
仕事以外の一ノ瀬くんを知った。
でも。
会社では。
むしろ逆だった。
一ノ瀬くんを見かけることが、ほとんどなくなった。
理由は単純。
部署が違う。
一ノ瀬くんは営業部。
私は婚礼部。
神崎さんたちの結婚式が終われば。
一ノ瀬くんが婚礼部に来る理由なんてない。
三ヶ月半。
ほとんど毎日のように。
「水野主任、ちょっといいですか?」
そう言って私のところへ来ていたのに。
それが。
ぱったりとなくなった。
最初の数日は。
少し変な感じがした。
仕事をしていて。
誰かが婚礼部へ入ってくるたびに。
一瞬だけ。
顔を上げる。
でも。
一ノ瀬くんじゃない。
当たり前なのに。
「……」
何やってるんだろう。
メールも来なくなった。
一ノ瀬 悠。
その名前が受信ボックスに表示されることもない。
当たり前。
神崎さんたちの案件について聞くことは、もう何もない。
新しい案件が始まれば。
それぞれ自分の仕事へ戻る。
本来は。
これが普通だった。
一ノ瀬くんは営業部。
私は婚礼部。
三ヶ月半だけ。
たまたま同じ仕事をしていただけ。
だから。
何もおかしくない。
ただ。
静かになったな。
そう思っただけ。
そう。
それだけ。
「主任」
「ん?」
「次の新郎新婦、十五時ですよね?」
「そう。資料できてる?」
「はい」
「じゃあ十分前に一回確認しよう」
「分かりました」
婚礼部には。
次の結婚式がある。
一つ終われば。
また次。
いつまでも一つの結婚式に浸っているわけにはいかない。
神崎さんたちの結婚式から。
四日後に打ち上げをして。
その翌日は休み。
そして。
休み明け。
「水野主任!」
出勤した瞬間だった。
「……なに?」
「待ってました」
後輩が私のところへ来る。
一人じゃない。
二人。
三人。
「何?」
「昨日どうでした?」
「昨日?」
「一ノ瀬さんですよ」
「ああ……」
嫌な予感しかしない。
「ちゃんと送ってもらったんですよね?」
「送ってもらったよ」
「どこまで?」
「どこまでって」
「駅?」
「タクシー」
「一緒に乗ったんですか?」
「乗ったよ」
「えっ」
「何その反応」
「じゃあ家まで?」
「……家まで」
「ええっ」
「声大きい」
朝から元気すぎる。
「一ノ瀬さん、家まで来たんですか?」
「来たっていうか、送ってもらっただけ」
「部屋まで?」
「……玄関の前まで」
三人の顔が変わった。
「何?」
「いやいやいや」
「主任」
「なに?」
「何もなかったんですか?」
「あるわけないでしょ」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「部屋入ってない?」
「入ってない!」
思ったより大きな声が出た。
今度は私が周りを見る。
幸い。
まだ出勤しているスタッフは少ない。
「もう。朝から何なの」
「だって気になるじゃないですか」
「何が」
「主任が男の人に送ってもらうとか珍しいし」
「私が頼んだんじゃないでしょ」
「でも一ノ瀬さん、ちゃんと家まで送ったんだ」
「みんなが押し付けたんでしょ」
「人聞き悪いなぁ」
「実際そうだったじゃん」
笑い声。
私は鞄を机に置く。
「はい、この話終わり」
「えー」
「仕事するよ」
「もう一個だけ」
「嫌」
「主任」
「嫌って言ってるでしょ」
「一ノ瀬さん、優しかったですか?」
「……」
昨日。
タクシー。
エントランス。
エレベーター。
十二階。
鍵まで探してもらって。
水を飲めと言われて。
メールまで来た。
「普通」
「間があった」
「ない」
「ありましたよ」
「普通だった」
「怪しい」
「何もないって」
本当に。
何もない。
なのに。
こうやって聞かれると。
何かあったみたいに思えてくるから不思議だ。
「あ」
一人が言った。
「何?」
「そういえば主任の家と一ノ瀬さんの家、方向一緒だったんですか?」
「……」
一瞬。
言葉に詰まった。
同じ方向。
どころじゃない。
同じマンション。
しかも。
四階下。
「まあ……そんな感じ」
「へえ」
「近いんですか?」
「……それなりに」
嘘ではない。
ものすごく近い。
「じゃあ送ってもらって正解でしたね」
「そうだね」
なぜか。
同じマンションだということは言わなかった。
別に。
隠すことでもない。
言ったっていい。
『実は同じマンションだった』
それだけ。
なのに。
なんとなく。
言いたくなかった。
理由は。
自分でも分からない。
「はい、本当に終わり。仕事」
「主任照れてる?」
「照れてない」
「顔赤くないですか?」
「朝から怒らせるからでしょ」
「逃げた」
「仕事!」
みんなが笑いながら散っていく。
私は椅子に座る。
パソコンを起動する。
「……まったく」
でも。
少しだけ。
おかしかった。
こんなふうに。
男の人とのことを根掘り葉掘り聞かれるのも。
何もないと言っているのに。
何かあるみたいにからかわれるのも。
私にしたら。
随分、久しぶりだった。
昔は。
こんな会話もした気がする。
彼氏がどうとか。
好きな人がどうとか。
誰とご飯に行ったとか。
連絡が来たとか。
来ないとか。
いつからだろう。
そういう話から。
自分が少しずつ離れていったのは。
「……」
パソコンが立ち上がる。
「仕事しよ」
それから。
一週間。
二週間。
時間が経つにつれて。
一ノ瀬くんの名前が婚礼部で出ることも減っていった。
最初の頃は。
「あのとき一ノ瀬さん走ってましたよね」
とか。
「一ノ瀬さん、営業戻って忙しいのかな」
とか。
そんな話もしていた。
でも。
婚礼部は忙しい。
次の新郎新婦が来る。
次の結婚式がある。
新しい打ち合わせが始まる。
神崎さんたちの結婚式も。
少しずつ。
最近の仕事から。
終わった仕事へ変わっていった。
それと一緒に。
一ノ瀬くんの名前も。
婚礼部では聞かなくなっていった。
一ヶ月も経てば。
それが普通になった。
そんなある朝。
「おはようございます」
「おはよう」
いつも通り出勤する。
パソコンを立ち上げる。
メールを確認する。
新郎新婦から二件。
衣装部から一件。
宴会部から三件。
社内連絡。
その中に。
人事部からの通知があった。
「……人事異動?」
珍しい。
時期としては。
なくはない。
でも。
婚礼部にはあまり関係のない話だと思った。
婚礼部は少し特殊だ。
学生時代からブライダルについて学んできた人が。
そのまま婚礼の仕事を希望して入ってくることも多い。
もちろん全員ではないけれど。
専門的な知識も必要になる。
新郎新婦との打ち合わせ。
衣装。
料理。
装花。
演出。
進行。
当日の運営。
覚えることは多い。
だから。
他部署から婚礼部へ異動してくる人は。
それほど多くない。
逆も同じ。
一度婚礼部に配属されれば。
長く働く人が多い。
私も。
その一人。
十一年。
ずっとここ。
「主任」
隣から声。
「ん?」
「人事異動見ました?」
「今開いたところ」
「珍しいですよね」
「何が?」
「婚礼部」
手が止まる。
「婚礼部?」
「一人来るみたいですよ」
「え?」
それは珍しい。
画面をスクロールする。
いくつかの部署。
いくつかの名前。
営業部。
宿泊部。
料飲部。
そして。
婚礼部。
「……」
一度。
通り過ぎた。
「え?」
戻る。
異動前。
営業部。
異動先。
婚礼部。
氏名。
一ノ瀬 悠。
「……」
見る。
一ノ瀬 悠。
「……え?」
もう一度。
営業部。
婚礼部。
一ノ瀬 悠。
「主任?」
「ちょっと待って」
「どうしました?」
「……」
三回目。
見る。
一ノ瀬 悠。
何度見ても。
変わらない。
「……なんで?」
思わず。
声に出た。
「一ノ瀬さんですよね?」
後輩が私の画面を覗き込む。
「ほら。神崎様のときの」
「……うん」
「営業から婚礼って珍しいですね」
「珍しい」
というか。
聞いてない。
一ノ瀬くんから。
何も。
同じマンションに住んでいて。
この一ヶ月。
何度か顔も合わせた。
エレベーターで一緒になったこともある。
朝。
一緒にマンションを出た日だってある。
なのに。
一言も。
『異動することになりました』
なんて。
聞いていない。
「……いつ決まったの」
「主任?」
「え?」
「さっきから人事表めっちゃ見てますよ」
「見てない」
「見てましたよ」
「確認してただけ」
「三回も?」
「……」
数えてたの?
「だって見間違いかと思って」
「一ノ瀬さんが来るの、そんなにびっくりですか?」
「びっくりするでしょ」
「まあ、確かに」
後輩が画面を見る。
そして。
私を見る。
「主任」
「なに?」
少し。
嫌な笑い方をした。
「よかったですね」
「……何が?」
「一ノ瀬さん、また来ますよ」
「だから何」
「毎日」
「仕事でね」
「また質問攻めにされるかもしれませんよ」
「それは困る」
「でも」
後輩が笑う。
「ちょっと嬉しそう」
「……は?」
「顔」
「どこが」
「なんとなく」
「気のせい」
「そうですか?」
「そうです」
画面を閉じる。
その直前。
もう一度だけ。
名前が目に入った。
一ノ瀬 悠。
営業部から。
婚礼部へ。
一ヶ月。
婚礼部でほとんど聞かなくなっていた名前を。
私はその朝。
三回も確認した。
……いや。
最後のを入れたら。
四回だった。