十年前なら、あなたを好きになれたのに。―10歳下の後輩に本気で恋をしました―
第20話 新しい連絡先
第20話 新しい連絡先
翌朝。
婚礼部は、いつもより少しだけ落ち着かなかった。
理由は分かっている。
今日から。
一人増える。
「主任」
「なに?」
「今日ですよ」
「何が?」
「一ノ瀬さん」
「知ってる」
「楽しみじゃないですか?」
「なんで私に聞くの」
「なんとなく」
朝からこれだ。
昨日。
人事異動の通知を見てから。
婚礼部のみんなは一ノ瀬くんの話ばかりしている。
営業部から婚礼部への異動。
それ自体が珍しい。
しかも。
一ヶ月前まで神崎さんたちの案件で、毎日のようにここへ来ていた人。
みんな知っている。
だから。
完全な新人が来るのとは少し違う。
「でも本当にびっくりしましたよね」
「そうだね」
「主任、聞いてなかったんですか?」
「聞いてない」
「一ノ瀬さんから?」
「うん」
そこ。
昨日から少しだけ引っかかっている。
この一ヶ月。
一ノ瀬くんとは何度か会った。
マンションのエントランス。
エレベーター。
朝、一緒に出勤したこともある。
なのに。
何も言わなかった。
いつ決まったんだろう。
昨日?
それとも。
もっと前?
「……」
別に。
私に報告する必要なんてないけど。
「おはようございます」
聞き慣れた声がした。
顔を上げる。
婚礼部の入口。
一ノ瀬くんが立っていた。
「おはようございます」
「おはよう、一ノ瀬さん」
「今日からですね」
「はい。よろしくお願いします」
一ヶ月前まで。
何度も見た光景。
でも。
今日は違う。
一ノ瀬くんは。
質問をしに来たわけじゃない。
自分の席へ来た。
少しして。
部長が全員を集める。
「じゃあ朝礼始めます。その前に、今日から一人加わるので」
みんなの視線が一ノ瀬くんへ向く。
「一ノ瀬くん」
「はい」
一ノ瀬くんが前へ出る。
「営業部から異動してきました、一ノ瀬悠です」
いつもより。
少しだけ緊張しているように見えた。
「神崎様の案件で三ヶ月半、婚礼の仕事には関わらせてもらいましたが、まだ分からないことの方が多いです」
そこで。
一ノ瀬くんがこちらを見る。
目が合う。
「そのときも、婚礼部のみなさんにはかなり助けてもらいました」
少し笑った。
「これからは正式に婚礼部の一員として頑張ります。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
拍手が起きる。
私も手を叩く。
本当に。
来たんだ。
一ノ瀬くんが。
婚礼部に。
「それと」
部長が続ける。
「一ノ瀬くんは婚礼の実務経験がまだ浅いので、しばらくは周りでフォローしてください」
嫌な予感がした。
「特に水野さん」
「……はい」
やっぱり。
「神崎様の案件で一緒にやってたから、一ノ瀬くんの理解度も一番分かってると思う。よろしく」
「分かりました」
一ノ瀬くんが私を見る。
「水野主任」
「なに?」
「またよろしくお願いします」
「……こちらこそ」
「いっぱい聞きますね」
「ほどほどにして」
笑いが起きる。
「一ヶ月前に戻ったみたいですね」
後輩が言う。
「ほんとだね」
「一ノ瀬さん、また主任のところ毎日来るんじゃないですか?」
「行きます」
「宣言しないで」
また笑われる。
でも。
少しだけ。
懐かしかった。
一ヶ月前まで。
これが普通だった。
「水野主任、ちょっといいですか?」
そう言われるのが。
面倒で。
また来た。
そう思っていたはずなのに。
一ヶ月なくなっただけで。
不思議と。
懐かしく感じた。
その日の仕事は。
一ノ瀬くんにとって、ほとんど説明で終わった。
営業部とは。
当然。
仕事の内容が違う。
「これが今月の担当一覧」
「はい」
「最初は先輩について打ち合わせの流れを覚えて」
「はい」
「神崎さんのときに見てたと思うけど、担当になったら最初から最後まで見るからね」
「分かりました」
「あと、衣装部と宴会部との連携。これは絶対」
「はい」
「分からなかったら聞いて」
「水野主任に?」
「誰でもいい」
「そこは俺が一番分かってる人じゃないんですか?」
「さっき部長が言ったからでしょ」
「じゃあ主任に聞きます」
「人の話聞いてた?」
「聞いてます」
「本当に?」
一ノ瀬くんが笑う。
こうして話していると。
本当に。
一ヶ月前に戻ったみたいだった。
ただ。
違うこともある。
今度は。
一ノ瀬くんがここにいることに。
理由はいらない。
営業部から来た人ではなく。
婚礼部の人。
それが。
まだ少しだけ変な感じがした。
そして。
仕事が終わったあと。
「じゃあ行きますか!」
後輩の一人が声を上げる。
「どこに?」
一ノ瀬くんが聞く。
「歓迎会ですよ」
「今日なんですか?」
「今日です」
「聞いてないんですけど」
「今決めました」
「急だなぁ」
「一ノ瀬さん、明日仕事ですよね?」
「仕事ですけど」
「じゃあ飲みすぎなければ大丈夫です」
「その理屈なら毎日飲めるじゃないですか」
「細かいことはいいんです」
結局。
誰も断らなかった。
私を含めて。
婚礼部のみんなで。
仕事終わりに近くのお店へ向かう。
前回。
神崎さんたちの打ち上げをしたときと。
ほとんど同じメンバー。
ただ。
今日は意味が違う。
「一ノ瀬さん、婚礼部へようこそー!」
「ありがとうございます」
グラスがぶつかる。
私も一口だけ飲む。
「水野主任」
「なに?」
「今日はペース遅いですね」
「……」
一ノ瀬くんを見る。
「何?」
「いや」
「前回くらい飲まないんですか?」
「二度と飲まない」
「それがいいです」
「誰のせいで言ってると思ってるの」
「主任自身のせいですよ」
「送ったからって偉そうに」
「結構大変だったんですからね」
「はいはい」
向かいから。
視線を感じる。
「……」
後輩二人。
ニヤニヤしている。
「何?」
「別に?」
「その顔やめて」
「仲いいなと思って」
「どこが」
「今の会話全部」
「普通でしょ」
「そうですか?」
「そうです」
一ノ瀬くんは気にせず料理を食べている。
こういうところ。
少し羨ましい。
「そういえば」
後輩の一人がスマートフォンを取り出した。
「一ノ瀬さん」
「はい?」
「婚礼部のグループチャット入ってくださいよ!」
「グループチャット?」
「はい。婚礼部のみんな入ってるんで」
「あ、あるんですね」
「ありますよ」
「仕事用ですか?」
「仕事の正式な連絡はメールですけど、こっちはもっと適当です」
「適当?」
「シフトのこととか、ご飯行くときとか」
「あと写真送ったり」
「あと主任の愚痴」
「ちょっと」
全員が笑う。
「それ本当ですか?」
一ノ瀬くんが私を見る。
「嘘に決まってるでしょ」
「主任が入ってるグループで主任の愚痴言わないですよ」
「別のグループがあるかもしれない」
「ないですって」
「ほんとに?」
「たぶん」
「たぶんって何」
また笑いが起きる。
「ほら、一ノ瀬さん。アカウント出してください」
「はい」
一ノ瀬くんがスマートフォンを取り出す。
後輩と何か操作して。
少しして。
私のスマートフォンが震えた。
画面を見る。
婚礼部のグループチャット。
《悠がグループに参加しました》
「……」
悠。
表示された名前を。
なんとなく見る。
一ノ瀬 悠。
でもなく。
一ノ瀬くん。
でもない。
ただ。
悠。
「……」
変な感じ。
今まで。
メールでは何度も見た名前なのに。
たったそれだけで。
少し違って見える。
「一ノ瀬さん、何か送ってくださいよ」
「何を?」
「最初の挨拶」
「ここで?」
「ここで」
「全員目の前にいるのに?」
「いいから」
「なんだこれ」
一ノ瀬くんがスマートフォンを操作する。
すぐに通知。
悠
『今日からよろしくお願いします!』
「普通」
「普通でいいでしょ」
「もっと面白いこと言ってくださいよ」
「初日からハードル高くないですか?」
次々に返信が入る。
『よろしくー!』
『婚礼部へようこそ!』
『頑張ってね!』
私も。
少し迷ってから。
『よろしくお願いします』
送る。
「あ」
一ノ瀬くんが言った。
「水野主任」
「なに?」
「主任もちゃんとチャットするんですね」
「するよ」
「メールしか使わない人かと思ってました」
「私を何歳だと思ってるの」
「三十四」
「知ってるなら言わないで」
笑い声。
「そうだ」
後輩がまた言う。
「一ノ瀬さん、みんな追加しました?」
「え?」
「個人の方」
「まだです」
「せっかくだから追加しといたらいいじゃないですか」
「必要?」
「ご飯とか誘いやすいですよ」
「まあ、確かに」
嫌な予感。
一ノ瀬くんがスマートフォンを触る。
数秒。
私のスマートフォンが震えた。
「……」
画面。
《悠さんから追加されました》
早い。
「……一ノ瀬くん」
「はい?」
「早くない?」
「今追加したんで」
「それは分かってる」
「主任も追加してくださいよ」
「なんで?」
「俺だけ追加してるの嫌じゃないですか」
「何それ」
「ほら」
「……」
仕方なく。
追加する。
これで。
一ノ瀬くんが。
私の連絡先に入った。
今までも。
メールアドレスは知っていた。
何十通。
もしかしたら百通近く。
やり取りしている。
なのに。
チャットの連絡先に。
『悠』
その名前があるだけで。
なんだか。
急にプライベートへ入ってきた気がした。
「追加しました?」
「した」
「ありがとうございます」
「何がお礼なの」
「別に」
一ノ瀬くんが笑う。
その後も。
歓迎会は続いた。
一ノ瀬くんがなぜ婚礼部に来たのか。
そんな話も出た。
「神崎様の案件が大きかったですね」
一ノ瀬くんはそう言った。
「営業も好きだったんですけど」
グラスを置く。
「三ヶ月半やってみて、結婚式を作る側の仕事をもっとやってみたいと思ったんです」
「へえ」
「それで希望出したの?」
「はい」
私は。
黙って聞いていた。
「あの結婚式終わったとき、結構嬉しかったんですよ」
一ノ瀬くんが笑う。
「自分の結婚式でもないのに」
「それ分かります」
「分かる」
みんなが頷く。
婚礼部なら。
たぶん全員。
知っている感覚。
何ヶ月もかけて準備して。
当日は。
一日で終わる。
それでも。
最後に二人が笑って帰っていくと。
また次も。
そう思える。
「だから」
一ノ瀬くんが言う。
「やってみようかなって」
その言葉を聞いて。
少しだけ。
嬉しかった。
私が十一年続けてきた仕事を。
一ノ瀬くんが。
やってみたいと思ってくれたことが。
「まあ」
私は言う。
「大変だけどね」
「水野主任見てたら分かります」
「どういう意味?」
「いつも忙しそうだったんで」
「一ノ瀬くんが質問しに来るからでしょ」
「あれ俺のせいだったんですか?」
「半分くらい」
「多いなぁ」
笑う。
歓迎会が終わったのは。
二十二時前だった。
「お疲れさまでしたー」
「一ノ瀬さん、明日から頑張ってくださいね」
「はい。ありがとうございます」
それぞれ帰っていく。
そして。
気づけば。
私と一ノ瀬くんだけが残った。
「……」
「……」
一ヶ月前と同じ。
でも。
今日は違う。
「水野主任」
「なに?」
「今日は歩けます?」
「歩ける」
「ほんとに?」
「飲んでないから」
「飲んでましたよ」
「二杯だけ」
「じゃあ大丈夫か」
「最初から大丈夫」
「前回も言ってましたけどね」
「今日は本当に大丈夫」
「じゃあ送らなくていいですね」
「そもそも」
私は一ノ瀬くんを見る。
「同じところ帰るでしょ」
「あ」
「忘れてたの?」
「いや」
一ノ瀬くんが笑う。
「そうでした」
二人で歩き出す。
駅へ向かう道。
一ヶ月前なら。
仕事が終わって。
二人でこうして歩くことなんて。
ほとんどなかった。
今は。
帰る場所まで同じだと知っている。
「そういえば」
私は言った。
「なに?」
「異動」
「ああ」
「なんで言わなかったの?」
口にしてから。
少しだけ後悔した。
別に。
聞く必要なんてないのに。
「え?」
「この一ヶ月、何回か会ったでしょ」
「会いましたね」
「いつ決まったの?」
「正式に決まったのは、この前ですよ」
「そうなんだ」
「主任に言おうかなとは思ったんですけど」
「……」
「人事発表前だったんで」
「ああ」
そういうこと。
「だから言わなかっただけです」
「そっか」
「気になってたんですか?」
「別に」
「昨日人事表見てびっくりしました?」
「まあ」
「どのくらい?」
「三回見た」
「三回?」
「見間違いかと思って」
一ノ瀬くんが笑う。
「そんなに?」
「営業から婚礼なんて珍しいから」
「俺じゃなくて異動自体にびっくりした?」
「そう」
「ほんとかなぁ」
「ほんと」
「じゃあそういうことにしときます」
「何その言い方」
そんな話をしながら。
レジデンス・ルミエール月島へ帰った。
エントランス。
エレベーター。
八階。
「じゃあ、主任」
「うん」
「また明日」
「明日からちゃんと覚えてね」
「頑張ります」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
一ノ瀬くんが降りる。
扉が閉まる。
十二階。
部屋へ戻る。
シャワーを浴びて。
ベッドに入る。
スマートフォンを見る。
婚礼部のグループチャット。
まだ動いている。
『今日はお疲れさまでした!』
『一ノ瀬さん明日から頑張ってー』
『また飲みましょう!』
一ノ瀬くんも。
『今日はありがとうございました!』
と返している。
私は画面を眺める。
そして。
連絡先。
悠。
個人のチャットを開く。
何もない。
当たり前。
今日追加したばかり。
今まで。
何十通もメールしてきたのに。
ここには。
一つもない。
「……」
別に。
個人的に話すことなんてないし。
画面を閉じようとした。
そのとき。
スマートフォンが震えた。
「……?」
通知。
悠。
一瞬。
止まる。
個人チャットを開く。
悠
『今日はありがとうございました。
改めて、明日からよろしくお願いします』
「……」
普通。
普通の挨拶。
少しだけ安心して。
返信しようとしたところで。
もう一通。
悠
『あと、今度はモーニングコール、チャット通話でもできますね』
「……」
思わず。
声が出た。
「しないから」
指を動かす。
『しません。
自分で起きてください』
送信。
すぐに。
表示が変わった。
既読。
「……」
見つめる。
既読。
メールには。
なかったもの。
読んだ。
ただ。
それだけの表示。
なのに。
「……既読つくんだ」
当たり前なのに。
少しだけ変な感じ。
すぐに返信が来る。
悠
『了解です笑
おやすみなさい』
「……」
私は。
少し迷って。
『おやすみ』
送信。
すぐに。
既読。
たった。
二文字。
今まで。
一ノ瀬くんとは何十通もメールをしてきた。
仕事の話。
確認。
質問。
報告。
それだけだった。
なのに。
画面に表示された。
たった二文字の「既読」が。
なぜか。
今までより少しだけ。
一ノ瀬くんが近くなったように見えた。
翌朝。
婚礼部は、いつもより少しだけ落ち着かなかった。
理由は分かっている。
今日から。
一人増える。
「主任」
「なに?」
「今日ですよ」
「何が?」
「一ノ瀬さん」
「知ってる」
「楽しみじゃないですか?」
「なんで私に聞くの」
「なんとなく」
朝からこれだ。
昨日。
人事異動の通知を見てから。
婚礼部のみんなは一ノ瀬くんの話ばかりしている。
営業部から婚礼部への異動。
それ自体が珍しい。
しかも。
一ヶ月前まで神崎さんたちの案件で、毎日のようにここへ来ていた人。
みんな知っている。
だから。
完全な新人が来るのとは少し違う。
「でも本当にびっくりしましたよね」
「そうだね」
「主任、聞いてなかったんですか?」
「聞いてない」
「一ノ瀬さんから?」
「うん」
そこ。
昨日から少しだけ引っかかっている。
この一ヶ月。
一ノ瀬くんとは何度か会った。
マンションのエントランス。
エレベーター。
朝、一緒に出勤したこともある。
なのに。
何も言わなかった。
いつ決まったんだろう。
昨日?
それとも。
もっと前?
「……」
別に。
私に報告する必要なんてないけど。
「おはようございます」
聞き慣れた声がした。
顔を上げる。
婚礼部の入口。
一ノ瀬くんが立っていた。
「おはようございます」
「おはよう、一ノ瀬さん」
「今日からですね」
「はい。よろしくお願いします」
一ヶ月前まで。
何度も見た光景。
でも。
今日は違う。
一ノ瀬くんは。
質問をしに来たわけじゃない。
自分の席へ来た。
少しして。
部長が全員を集める。
「じゃあ朝礼始めます。その前に、今日から一人加わるので」
みんなの視線が一ノ瀬くんへ向く。
「一ノ瀬くん」
「はい」
一ノ瀬くんが前へ出る。
「営業部から異動してきました、一ノ瀬悠です」
いつもより。
少しだけ緊張しているように見えた。
「神崎様の案件で三ヶ月半、婚礼の仕事には関わらせてもらいましたが、まだ分からないことの方が多いです」
そこで。
一ノ瀬くんがこちらを見る。
目が合う。
「そのときも、婚礼部のみなさんにはかなり助けてもらいました」
少し笑った。
「これからは正式に婚礼部の一員として頑張ります。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
拍手が起きる。
私も手を叩く。
本当に。
来たんだ。
一ノ瀬くんが。
婚礼部に。
「それと」
部長が続ける。
「一ノ瀬くんは婚礼の実務経験がまだ浅いので、しばらくは周りでフォローしてください」
嫌な予感がした。
「特に水野さん」
「……はい」
やっぱり。
「神崎様の案件で一緒にやってたから、一ノ瀬くんの理解度も一番分かってると思う。よろしく」
「分かりました」
一ノ瀬くんが私を見る。
「水野主任」
「なに?」
「またよろしくお願いします」
「……こちらこそ」
「いっぱい聞きますね」
「ほどほどにして」
笑いが起きる。
「一ヶ月前に戻ったみたいですね」
後輩が言う。
「ほんとだね」
「一ノ瀬さん、また主任のところ毎日来るんじゃないですか?」
「行きます」
「宣言しないで」
また笑われる。
でも。
少しだけ。
懐かしかった。
一ヶ月前まで。
これが普通だった。
「水野主任、ちょっといいですか?」
そう言われるのが。
面倒で。
また来た。
そう思っていたはずなのに。
一ヶ月なくなっただけで。
不思議と。
懐かしく感じた。
その日の仕事は。
一ノ瀬くんにとって、ほとんど説明で終わった。
営業部とは。
当然。
仕事の内容が違う。
「これが今月の担当一覧」
「はい」
「最初は先輩について打ち合わせの流れを覚えて」
「はい」
「神崎さんのときに見てたと思うけど、担当になったら最初から最後まで見るからね」
「分かりました」
「あと、衣装部と宴会部との連携。これは絶対」
「はい」
「分からなかったら聞いて」
「水野主任に?」
「誰でもいい」
「そこは俺が一番分かってる人じゃないんですか?」
「さっき部長が言ったからでしょ」
「じゃあ主任に聞きます」
「人の話聞いてた?」
「聞いてます」
「本当に?」
一ノ瀬くんが笑う。
こうして話していると。
本当に。
一ヶ月前に戻ったみたいだった。
ただ。
違うこともある。
今度は。
一ノ瀬くんがここにいることに。
理由はいらない。
営業部から来た人ではなく。
婚礼部の人。
それが。
まだ少しだけ変な感じがした。
そして。
仕事が終わったあと。
「じゃあ行きますか!」
後輩の一人が声を上げる。
「どこに?」
一ノ瀬くんが聞く。
「歓迎会ですよ」
「今日なんですか?」
「今日です」
「聞いてないんですけど」
「今決めました」
「急だなぁ」
「一ノ瀬さん、明日仕事ですよね?」
「仕事ですけど」
「じゃあ飲みすぎなければ大丈夫です」
「その理屈なら毎日飲めるじゃないですか」
「細かいことはいいんです」
結局。
誰も断らなかった。
私を含めて。
婚礼部のみんなで。
仕事終わりに近くのお店へ向かう。
前回。
神崎さんたちの打ち上げをしたときと。
ほとんど同じメンバー。
ただ。
今日は意味が違う。
「一ノ瀬さん、婚礼部へようこそー!」
「ありがとうございます」
グラスがぶつかる。
私も一口だけ飲む。
「水野主任」
「なに?」
「今日はペース遅いですね」
「……」
一ノ瀬くんを見る。
「何?」
「いや」
「前回くらい飲まないんですか?」
「二度と飲まない」
「それがいいです」
「誰のせいで言ってると思ってるの」
「主任自身のせいですよ」
「送ったからって偉そうに」
「結構大変だったんですからね」
「はいはい」
向かいから。
視線を感じる。
「……」
後輩二人。
ニヤニヤしている。
「何?」
「別に?」
「その顔やめて」
「仲いいなと思って」
「どこが」
「今の会話全部」
「普通でしょ」
「そうですか?」
「そうです」
一ノ瀬くんは気にせず料理を食べている。
こういうところ。
少し羨ましい。
「そういえば」
後輩の一人がスマートフォンを取り出した。
「一ノ瀬さん」
「はい?」
「婚礼部のグループチャット入ってくださいよ!」
「グループチャット?」
「はい。婚礼部のみんな入ってるんで」
「あ、あるんですね」
「ありますよ」
「仕事用ですか?」
「仕事の正式な連絡はメールですけど、こっちはもっと適当です」
「適当?」
「シフトのこととか、ご飯行くときとか」
「あと写真送ったり」
「あと主任の愚痴」
「ちょっと」
全員が笑う。
「それ本当ですか?」
一ノ瀬くんが私を見る。
「嘘に決まってるでしょ」
「主任が入ってるグループで主任の愚痴言わないですよ」
「別のグループがあるかもしれない」
「ないですって」
「ほんとに?」
「たぶん」
「たぶんって何」
また笑いが起きる。
「ほら、一ノ瀬さん。アカウント出してください」
「はい」
一ノ瀬くんがスマートフォンを取り出す。
後輩と何か操作して。
少しして。
私のスマートフォンが震えた。
画面を見る。
婚礼部のグループチャット。
《悠がグループに参加しました》
「……」
悠。
表示された名前を。
なんとなく見る。
一ノ瀬 悠。
でもなく。
一ノ瀬くん。
でもない。
ただ。
悠。
「……」
変な感じ。
今まで。
メールでは何度も見た名前なのに。
たったそれだけで。
少し違って見える。
「一ノ瀬さん、何か送ってくださいよ」
「何を?」
「最初の挨拶」
「ここで?」
「ここで」
「全員目の前にいるのに?」
「いいから」
「なんだこれ」
一ノ瀬くんがスマートフォンを操作する。
すぐに通知。
悠
『今日からよろしくお願いします!』
「普通」
「普通でいいでしょ」
「もっと面白いこと言ってくださいよ」
「初日からハードル高くないですか?」
次々に返信が入る。
『よろしくー!』
『婚礼部へようこそ!』
『頑張ってね!』
私も。
少し迷ってから。
『よろしくお願いします』
送る。
「あ」
一ノ瀬くんが言った。
「水野主任」
「なに?」
「主任もちゃんとチャットするんですね」
「するよ」
「メールしか使わない人かと思ってました」
「私を何歳だと思ってるの」
「三十四」
「知ってるなら言わないで」
笑い声。
「そうだ」
後輩がまた言う。
「一ノ瀬さん、みんな追加しました?」
「え?」
「個人の方」
「まだです」
「せっかくだから追加しといたらいいじゃないですか」
「必要?」
「ご飯とか誘いやすいですよ」
「まあ、確かに」
嫌な予感。
一ノ瀬くんがスマートフォンを触る。
数秒。
私のスマートフォンが震えた。
「……」
画面。
《悠さんから追加されました》
早い。
「……一ノ瀬くん」
「はい?」
「早くない?」
「今追加したんで」
「それは分かってる」
「主任も追加してくださいよ」
「なんで?」
「俺だけ追加してるの嫌じゃないですか」
「何それ」
「ほら」
「……」
仕方なく。
追加する。
これで。
一ノ瀬くんが。
私の連絡先に入った。
今までも。
メールアドレスは知っていた。
何十通。
もしかしたら百通近く。
やり取りしている。
なのに。
チャットの連絡先に。
『悠』
その名前があるだけで。
なんだか。
急にプライベートへ入ってきた気がした。
「追加しました?」
「した」
「ありがとうございます」
「何がお礼なの」
「別に」
一ノ瀬くんが笑う。
その後も。
歓迎会は続いた。
一ノ瀬くんがなぜ婚礼部に来たのか。
そんな話も出た。
「神崎様の案件が大きかったですね」
一ノ瀬くんはそう言った。
「営業も好きだったんですけど」
グラスを置く。
「三ヶ月半やってみて、結婚式を作る側の仕事をもっとやってみたいと思ったんです」
「へえ」
「それで希望出したの?」
「はい」
私は。
黙って聞いていた。
「あの結婚式終わったとき、結構嬉しかったんですよ」
一ノ瀬くんが笑う。
「自分の結婚式でもないのに」
「それ分かります」
「分かる」
みんなが頷く。
婚礼部なら。
たぶん全員。
知っている感覚。
何ヶ月もかけて準備して。
当日は。
一日で終わる。
それでも。
最後に二人が笑って帰っていくと。
また次も。
そう思える。
「だから」
一ノ瀬くんが言う。
「やってみようかなって」
その言葉を聞いて。
少しだけ。
嬉しかった。
私が十一年続けてきた仕事を。
一ノ瀬くんが。
やってみたいと思ってくれたことが。
「まあ」
私は言う。
「大変だけどね」
「水野主任見てたら分かります」
「どういう意味?」
「いつも忙しそうだったんで」
「一ノ瀬くんが質問しに来るからでしょ」
「あれ俺のせいだったんですか?」
「半分くらい」
「多いなぁ」
笑う。
歓迎会が終わったのは。
二十二時前だった。
「お疲れさまでしたー」
「一ノ瀬さん、明日から頑張ってくださいね」
「はい。ありがとうございます」
それぞれ帰っていく。
そして。
気づけば。
私と一ノ瀬くんだけが残った。
「……」
「……」
一ヶ月前と同じ。
でも。
今日は違う。
「水野主任」
「なに?」
「今日は歩けます?」
「歩ける」
「ほんとに?」
「飲んでないから」
「飲んでましたよ」
「二杯だけ」
「じゃあ大丈夫か」
「最初から大丈夫」
「前回も言ってましたけどね」
「今日は本当に大丈夫」
「じゃあ送らなくていいですね」
「そもそも」
私は一ノ瀬くんを見る。
「同じところ帰るでしょ」
「あ」
「忘れてたの?」
「いや」
一ノ瀬くんが笑う。
「そうでした」
二人で歩き出す。
駅へ向かう道。
一ヶ月前なら。
仕事が終わって。
二人でこうして歩くことなんて。
ほとんどなかった。
今は。
帰る場所まで同じだと知っている。
「そういえば」
私は言った。
「なに?」
「異動」
「ああ」
「なんで言わなかったの?」
口にしてから。
少しだけ後悔した。
別に。
聞く必要なんてないのに。
「え?」
「この一ヶ月、何回か会ったでしょ」
「会いましたね」
「いつ決まったの?」
「正式に決まったのは、この前ですよ」
「そうなんだ」
「主任に言おうかなとは思ったんですけど」
「……」
「人事発表前だったんで」
「ああ」
そういうこと。
「だから言わなかっただけです」
「そっか」
「気になってたんですか?」
「別に」
「昨日人事表見てびっくりしました?」
「まあ」
「どのくらい?」
「三回見た」
「三回?」
「見間違いかと思って」
一ノ瀬くんが笑う。
「そんなに?」
「営業から婚礼なんて珍しいから」
「俺じゃなくて異動自体にびっくりした?」
「そう」
「ほんとかなぁ」
「ほんと」
「じゃあそういうことにしときます」
「何その言い方」
そんな話をしながら。
レジデンス・ルミエール月島へ帰った。
エントランス。
エレベーター。
八階。
「じゃあ、主任」
「うん」
「また明日」
「明日からちゃんと覚えてね」
「頑張ります」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
一ノ瀬くんが降りる。
扉が閉まる。
十二階。
部屋へ戻る。
シャワーを浴びて。
ベッドに入る。
スマートフォンを見る。
婚礼部のグループチャット。
まだ動いている。
『今日はお疲れさまでした!』
『一ノ瀬さん明日から頑張ってー』
『また飲みましょう!』
一ノ瀬くんも。
『今日はありがとうございました!』
と返している。
私は画面を眺める。
そして。
連絡先。
悠。
個人のチャットを開く。
何もない。
当たり前。
今日追加したばかり。
今まで。
何十通もメールしてきたのに。
ここには。
一つもない。
「……」
別に。
個人的に話すことなんてないし。
画面を閉じようとした。
そのとき。
スマートフォンが震えた。
「……?」
通知。
悠。
一瞬。
止まる。
個人チャットを開く。
悠
『今日はありがとうございました。
改めて、明日からよろしくお願いします』
「……」
普通。
普通の挨拶。
少しだけ安心して。
返信しようとしたところで。
もう一通。
悠
『あと、今度はモーニングコール、チャット通話でもできますね』
「……」
思わず。
声が出た。
「しないから」
指を動かす。
『しません。
自分で起きてください』
送信。
すぐに。
表示が変わった。
既読。
「……」
見つめる。
既読。
メールには。
なかったもの。
読んだ。
ただ。
それだけの表示。
なのに。
「……既読つくんだ」
当たり前なのに。
少しだけ変な感じ。
すぐに返信が来る。
悠
『了解です笑
おやすみなさい』
「……」
私は。
少し迷って。
『おやすみ』
送信。
すぐに。
既読。
たった。
二文字。
今まで。
一ノ瀬くんとは何十通もメールをしてきた。
仕事の話。
確認。
質問。
報告。
それだけだった。
なのに。
画面に表示された。
たった二文字の「既読」が。
なぜか。
今までより少しだけ。
一ノ瀬くんが近くなったように見えた。