十年前なら、あなたを好きになれたのに。―10歳下の後輩に本気で恋をしました―
第22話 仕事じゃない話
第22話 仕事じゃない話
一ノ瀬くんが婚礼部に異動して。
一週間が経った。
「水野主任」
「なに?」
「これ確認お願いします」
「置いといて」
「今見てもらえません?」
「今、新郎新婦にメール返してる」
「じゃあ終わったら」
「分かった」
「忘れないでくださいね」
「忘れない」
「主任たまに忘れるから」
「一ノ瀬くん?」
「失礼しました」
一ノ瀬くんが自分の席へ戻っていく。
「……」
一週間。
たった一週間だけど。
一ノ瀬くんが婚礼部にいる光景にも。
少しずつ慣れてきた。
朝。
出勤すればいる。
昼。
休憩の時間が重なることもある。
夕方。
私がパソコンに向かっている横で。
一ノ瀬くんも資料を作っている。
神崎さんたちの案件を担当していた頃とは。
似ているようで。
全然違う。
あの頃。
一ノ瀬くんは。
営業部から婚礼部へ来る人だった。
今は。
ここが。
一ノ瀬くんの部署。
「主任」
「……」
「水野主任」
「聞こえてる」
「返事してくださいよ」
「今しようと思ってた」
「絶対嘘だ」
「何?」
「さっきの資料」
「あ」
「ほら忘れてた」
「忘れてない」
「今の『あ』は何ですか」
「思い出しただけ」
「それを忘れてたって言うんですよ」
「うるさいなぁ」
資料を受け取る。
一ノ瀬くんが作った。
披露宴の進行案。
一通り見る。
「……」
「どうですか?」
「ここ」
指を差す。
「歓談十五分になってるけど」
「はい」
「この前に新婦のお色直しあるでしょ」
「はい」
「戻ってくる時間考えた?」
「……」
止まった。
「考えてない顔だね」
「考えてませんでした」
「正直でよろしい」
「何分くらい見ればいいですか?」
「会場にもよるし、衣装にもよる。今回は和装だから少し長めに考えて」
「なるほど」
「あと、ここ」
「はい」
「余興のあとすぐ新郎謝辞になってる」
「ダメですか?」
「ダメじゃないけど、余韻がない」
「余韻?」
「結婚式って、時間通りに終わればいいわけじゃないから」
「……」
一ノ瀬くんが。
私を見る。
「何?」
「いや」
「分からない?」
「逆です」
「?」
「なんとなく分かりました」
「ならいいけど」
「余韻か……」
一ノ瀬くんが。
小さく呟きながらメモする。
「主任」
「なに?」
「婚礼って難しいですね」
「今さら?」
「一週間で何回それ言われたんだろ」
「十回くらい」
「数えてるんですか?」
「適当」
「ですよね」
笑う。
それから。
少しずつ。
一ノ瀬くんは覚えていった。
まだ。
一人で任せられることは少ない。
でも。
一度教えたことは。
ほとんど忘れない。
分からないことがあれば聞く。
メモを取る。
次は自分でやってみる。
失敗したら。
もう一度やる。
「……」
思っていたより。
教えやすい。
営業部にいた頃から。
真面目なのは知っていたけど。
婚礼部に来て。
改めて分かった。
一ノ瀬くんは。
ちゃんと努力する人だ。
「水野主任」
「なに?」
「今、俺のこと見てました?」
「見てない」
「見てましたよ」
「気のせい」
「最近それ多くないですか?」
「何が?」
「俺が見ると主任が見てる」
「自意識過剰」
「ひど」
仕事。
仕事。
私は教育係だから。
ちゃんとやってるか確認してるだけ。
それ以上でも。
それ以下でもない。
「主任」
「今度は何?」
「お昼行きません?」
「もうそんな時間?」
時計を見る。
十二時四十分。
「ほんとだ」
「今日何食べます?」
「社員食堂でいい」
「じゃあ俺も」
「好きにすれば」
「冷たいなぁ」
結局。
何人かの後輩も一緒に。
社員食堂へ行った。
一ノ瀬くんは。
婚礼部にも馴染んできた。
最初は。
営業部から来た唯一の男性。
それだけで少し目立っていたけど。
今では。
普通にみんなと話している。
「一ノ瀬さん、これ食べます?」
「何ですか?」
「デザート」
「いらないんですか?」
「お腹いっぱいで」
「じゃあもらいます」
「一ノ瀬さん甘いの好きなんですね」
「結構好きですよ」
「意外」
「そうですか?」
そんな会話を。
向かいで聞く。
「……」
甘いもの。
好きなんだ。
知らなかった。
「主任?」
「ん?」
「プリン食べないんですか?」
後輩に言われる。
「ああ」
目の前。
今日のデザート。
プリン。
「食べるよ」
「さっきからずっと置いてあるから」
「今食べようと思ってた」
蓋を開ける。
一口。
「……」
そういえば。
私も。
一ノ瀬くんのこと。
仕事以外は。
ほとんど知らない。
二十四歳。
営業部だった。
八階に住んでいる。
甘いものが好き。
「……」
何。
頭の中で整理してるんだろう。
「水野主任」
「なに?」
「それいらないなら俺食べますよ」
一ノ瀬くんがプリンを見る。
「食べてるでしょ」
「ですよね」
「自分のあるでしょ」
「もう食べました」
「早」
「主任が遅いんです」
「絶対あげない」
「そんな本気で守らなくても」
みんなが笑う。
なんでもない。
昼休みだった。
午後も。
仕事。
一ノ瀬くんの資料を確認して。
自分の担当の打ち合わせをして。
電話に出て。
メールを返して。
気づけば。
二十時を過ぎていた。
「……終わった」
パソコンから目を離す。
肩を回す。
婚礼部には。
もう数人しか残っていない。
「水野主任」
「ん?」
一ノ瀬くん。
まだいた。
「帰らないの?」
「今終わりました」
「そっか」
「主任は?」
「私も終わり」
「じゃあ帰ります?」
「うん」
パソコンを閉じる。
鞄を持つ。
「お先に失礼します」
「お疲れさまでした」
「お疲れさまです」
二人で婚礼部を出る。
一緒にエレベーターへ。
ホテルの従業員口から外へ出る。
夜。
少しだけ風が冷たい。
「疲れた」
一ノ瀬くんが言う。
「まだ一週間でしょ」
「一週間だから疲れるんですよ」
「これからもっと大変になるよ」
「脅さないでください」
「事実」
「主任って最初どうだったんですか?」
「最初?」
「婚礼部入った頃」
「……十一年前?」
「はい」
「覚えてない」
「嘘」
「ほんと」
「絶対覚えてるでしょ」
「まあ」
少しだけ。
思い出す。
二十三歳。
婚礼部に配属されたばかり。
右も左も分からなくて。
先輩の後ろをついて歩いて。
毎日。
必死だった。
「大変だったよ」
「やっぱり?」
「何回辞めようと思ったか」
「主任が?」
「私だって思うよ」
「意外」
「何その反応」
「主任、最初から何でもできそうだから」
「そんなわけないでしょ」
「でも今は何でもできますよね」
「何でもはできない」
「婚礼のことなら」
「十一年やってるからね」
「十一年かぁ」
一ノ瀬くんが前を向く。
「俺、十一年後三十五か」
「……」
「主任?」
「なに?」
「なんで黙ったんですか」
「いや」
十一年後。
一ノ瀬くん。
三十五歳。
その頃。
私は。
四十五。
「……」
何を。
計算してるんだろう。
「主任はそのとき――」
「言わなくていい」
「まだ何も言ってないですよ」
「分かるから」
「四十五」
「言った」
「若いじゃないですか」
「二十四歳には分からない」
「また年齢」
「事実でしょ」
「十歳しか違わないのに」
「十歳も、ね」
一ノ瀬くんは。
それ以上何も言わなかった。
駅へ向かう。
電車に乗る。
月島へ。
同じ駅で降りて。
同じ道を歩く。
この一週間。
帰る時間が重なった日は。
こうして一緒に帰ることが増えた。
別に。
約束しているわけじゃない。
終わる時間が同じだから。
帰る場所が同じだから。
ただ。
それだけ。
レジデンス・ルミエール月島が見えてくる。
「主任」
「なに?」
「明日何時ですか?」
「九時」
「俺もです」
「じゃあ一緒だね」
「朝会うかもしれないですね」
「起きられたらね」
「起きますよ」
「ほんとに?」
「まだモーニングコール引きずってます?」
「寝坊したの一ノ瀬くんでしょ」
「寝坊してないです。主任が起こしてくれたから」
「じゃあ明日は自分で起きて」
「チャット通話待ってます」
「しません」
エントランスへ入る。
エレベーター。
八階。
扉が開く。
「じゃあ、おやすみなさい」
「うん。お疲れさま」
「主任も」
一ノ瀬くんが降りる。
扉が閉まる。
十二階。
部屋へ戻る。
シャワー。
夕食。
明日の準備。
気づけば。
二十三時半。
ベッドに入る。
スマートフォンを見る。
婚礼部のグループチャットに。
何件か通知が来ている。
明日のランチの話。
新しくできた店の話。
適当に眺める。
画面を閉じる。
「……寝よ」
充電器に繋ごうとした。
そのとき。
震えた。
悠。
「……?」
チャットを開く。
『主任、まだ起きてます?』
「……」
時計を見る。
二十三時四十二分。
なんだろう。
『起きてるけど』
送信。
既読。
すぐ。
返信。
『十二階って雨の音すごいですか?』
「……は?」
窓を見る。
いつの間にか。
雨が降っていた。
結構。
強い。
窓に雨粒が当たっている。
『急に何?』
既読。
『八階めっちゃ音するんですよ』
『さっきから気になって』
「……」
仕事じゃない。
明日の資料でも。
打ち合わせでも。
進行でもない。
本当に。
どうでもいい話。
『十二階もするよ』
送る。
既読。
『やっぱりするんだ』
『上の方がもっとすごいかと思いました』
『そんな変わらないでしょ』
『四階違いますよ』
『たった四階』
送って。
少し。
止まる。
たった四階。
前にも。
同じことを思った。
『確かに』
悠から返ってくる。
そこで。
終わると思った。
でも。
『主任って雨の日好きですか?』
「……」
なんで?
スマートフォンを見る。
『普通』
『一番困る答え』
『じゃあ一ノ瀬くんは?』
送ってから。
気づく。
私。
聞き返した。
別に。
聞かなくてもよかったのに。
既読。
少しして。
『結構好きです』
『家にいるとき限定ですけど』
『外なら?』
『嫌いです』
『私も』
『主任もじゃないですか笑』
「……」
笑う。
本当に。
どうでもいい。
『雨の日の結婚式は大変ですけどね』
一ノ瀬くん。
『結局仕事の話するんですね』
『一ノ瀬くんが婚礼部だからでしょ』
『主任もです』
『知ってる』
『十一年』
『それ今日聞きました』
『忘れないで』
『忘れませんよ』
会話が続く。
特に。
意味もなく。
雨の話。
仕事の話。
今日の社員食堂のプリン。
『主任プリン守りすぎです』
『私のだから』
『一口くらいいいじゃないですか』
『嫌』
『ケチ』
『自分の食べたでしょ』
『甘いもの好きなんですよ』
『今日知った』
送った。
「……」
少しして。
返信。
『俺のこと知らなすぎじゃないですか?』
「……」
指が止まる。
知らない。
確かに。
三ヶ月半。
一緒に仕事をして。
同じマンションだと知って。
同じ部署になって。
それでも。
一ノ瀬くんのこと。
仕事以外は。
ほとんど知らない。
『仕事しかしてなかったからね』
送信。
既読。
少し。
間が空く。
悠
『じゃあこれから知ってください』
「……」
画面を見る。
一度。
読む。
もう一度。
『じゃあこれから知ってください』
「……何それ」
少し。
胸の奥が変な感じになる。
でも。
すぐ次のメッセージ。
『甘いもの好きです』
「……」
思わず笑った。
『それはもう知ってる』
『じゃあ一個増えましたね』
『そうだね』
『主任は?』
『何が?』
『甘いもの好きですか?』
『普通』
『また普通』
『プリンは好き』
『今日めっちゃ守ってましたもんね』
『しつこい』
『覚えときます』
「……」
プリンが好き。
たった。
それだけ。
そんなこと。
覚えてどうするんだろう。
時計を見る。
零時を過ぎていた。
「……こんな時間」
チャットを見る。
『もう寝るよ』
既読。
『はい』
『明日起きれなくなりますよ』
『一ノ瀬くんがね』
『俺は起きます』
『じゃあおやすみ』
送る。
すぐに。
『おやすみなさい』
既読。
画面を閉じる。
スマートフォンを枕元に置く。
部屋が静かになる。
聞こえるのは。
窓を叩く雨の音。
「……」
変な感じ。
メールでは。
何十通もやり取りしてきた。
でも。
あれは全部。
仕事だった。
今の会話には。
仕事じゃないことが。
たくさんあった。
雨が好きとか。
甘いものが好きとか。
プリンが好きとか。
本当に。
どうでもいいこと。
でも。
そういう。
どうでもいいことを。
私は。
一ノ瀬くんと初めて話した。
「……これから知ってください、か」
小さく呟く。
四階下。
今頃。
一ノ瀬くんも。
同じ雨の音を聞いている。
そう思うと。
少しだけ。
不思議だった。
そして。
翌朝。
目覚ましが鳴るより。
少しだけ早く。
目が覚めた。
スマートフォンを見る。
七時十二分。
通知は。
ない。
「……」
当たり前。
何を確認してるんだろう。
起き上がる。
支度をして。
部屋を出る。
エレベーター。
十二階から。
下へ。
十一。
十。
九。
八。
音が鳴る。
扉が開く。
「おはようございます」
一ノ瀬くん。
「……おはよう」
乗ってくる。
扉が閉まる。
「ちゃんと起きました」
「偉いね」
「子ども扱いしてる」
「してない」
「主任も早いですね」
「普通」
「また普通」
「うるさい」
一ノ瀬くんが笑う。
私も。
少しだけ笑った。
昨日までと。
何も変わらない朝。
ただ。
一つだけ。
私は。
一ノ瀬くんが。
雨の日は。
家にいるなら結構好きで。
甘いものが好きだということを。
知っていた。
たった。
それだけ。
なのに。
昨日より。
少しだけ。
近くなった気がした。
一ノ瀬くんが婚礼部に異動して。
一週間が経った。
「水野主任」
「なに?」
「これ確認お願いします」
「置いといて」
「今見てもらえません?」
「今、新郎新婦にメール返してる」
「じゃあ終わったら」
「分かった」
「忘れないでくださいね」
「忘れない」
「主任たまに忘れるから」
「一ノ瀬くん?」
「失礼しました」
一ノ瀬くんが自分の席へ戻っていく。
「……」
一週間。
たった一週間だけど。
一ノ瀬くんが婚礼部にいる光景にも。
少しずつ慣れてきた。
朝。
出勤すればいる。
昼。
休憩の時間が重なることもある。
夕方。
私がパソコンに向かっている横で。
一ノ瀬くんも資料を作っている。
神崎さんたちの案件を担当していた頃とは。
似ているようで。
全然違う。
あの頃。
一ノ瀬くんは。
営業部から婚礼部へ来る人だった。
今は。
ここが。
一ノ瀬くんの部署。
「主任」
「……」
「水野主任」
「聞こえてる」
「返事してくださいよ」
「今しようと思ってた」
「絶対嘘だ」
「何?」
「さっきの資料」
「あ」
「ほら忘れてた」
「忘れてない」
「今の『あ』は何ですか」
「思い出しただけ」
「それを忘れてたって言うんですよ」
「うるさいなぁ」
資料を受け取る。
一ノ瀬くんが作った。
披露宴の進行案。
一通り見る。
「……」
「どうですか?」
「ここ」
指を差す。
「歓談十五分になってるけど」
「はい」
「この前に新婦のお色直しあるでしょ」
「はい」
「戻ってくる時間考えた?」
「……」
止まった。
「考えてない顔だね」
「考えてませんでした」
「正直でよろしい」
「何分くらい見ればいいですか?」
「会場にもよるし、衣装にもよる。今回は和装だから少し長めに考えて」
「なるほど」
「あと、ここ」
「はい」
「余興のあとすぐ新郎謝辞になってる」
「ダメですか?」
「ダメじゃないけど、余韻がない」
「余韻?」
「結婚式って、時間通りに終わればいいわけじゃないから」
「……」
一ノ瀬くんが。
私を見る。
「何?」
「いや」
「分からない?」
「逆です」
「?」
「なんとなく分かりました」
「ならいいけど」
「余韻か……」
一ノ瀬くんが。
小さく呟きながらメモする。
「主任」
「なに?」
「婚礼って難しいですね」
「今さら?」
「一週間で何回それ言われたんだろ」
「十回くらい」
「数えてるんですか?」
「適当」
「ですよね」
笑う。
それから。
少しずつ。
一ノ瀬くんは覚えていった。
まだ。
一人で任せられることは少ない。
でも。
一度教えたことは。
ほとんど忘れない。
分からないことがあれば聞く。
メモを取る。
次は自分でやってみる。
失敗したら。
もう一度やる。
「……」
思っていたより。
教えやすい。
営業部にいた頃から。
真面目なのは知っていたけど。
婚礼部に来て。
改めて分かった。
一ノ瀬くんは。
ちゃんと努力する人だ。
「水野主任」
「なに?」
「今、俺のこと見てました?」
「見てない」
「見てましたよ」
「気のせい」
「最近それ多くないですか?」
「何が?」
「俺が見ると主任が見てる」
「自意識過剰」
「ひど」
仕事。
仕事。
私は教育係だから。
ちゃんとやってるか確認してるだけ。
それ以上でも。
それ以下でもない。
「主任」
「今度は何?」
「お昼行きません?」
「もうそんな時間?」
時計を見る。
十二時四十分。
「ほんとだ」
「今日何食べます?」
「社員食堂でいい」
「じゃあ俺も」
「好きにすれば」
「冷たいなぁ」
結局。
何人かの後輩も一緒に。
社員食堂へ行った。
一ノ瀬くんは。
婚礼部にも馴染んできた。
最初は。
営業部から来た唯一の男性。
それだけで少し目立っていたけど。
今では。
普通にみんなと話している。
「一ノ瀬さん、これ食べます?」
「何ですか?」
「デザート」
「いらないんですか?」
「お腹いっぱいで」
「じゃあもらいます」
「一ノ瀬さん甘いの好きなんですね」
「結構好きですよ」
「意外」
「そうですか?」
そんな会話を。
向かいで聞く。
「……」
甘いもの。
好きなんだ。
知らなかった。
「主任?」
「ん?」
「プリン食べないんですか?」
後輩に言われる。
「ああ」
目の前。
今日のデザート。
プリン。
「食べるよ」
「さっきからずっと置いてあるから」
「今食べようと思ってた」
蓋を開ける。
一口。
「……」
そういえば。
私も。
一ノ瀬くんのこと。
仕事以外は。
ほとんど知らない。
二十四歳。
営業部だった。
八階に住んでいる。
甘いものが好き。
「……」
何。
頭の中で整理してるんだろう。
「水野主任」
「なに?」
「それいらないなら俺食べますよ」
一ノ瀬くんがプリンを見る。
「食べてるでしょ」
「ですよね」
「自分のあるでしょ」
「もう食べました」
「早」
「主任が遅いんです」
「絶対あげない」
「そんな本気で守らなくても」
みんなが笑う。
なんでもない。
昼休みだった。
午後も。
仕事。
一ノ瀬くんの資料を確認して。
自分の担当の打ち合わせをして。
電話に出て。
メールを返して。
気づけば。
二十時を過ぎていた。
「……終わった」
パソコンから目を離す。
肩を回す。
婚礼部には。
もう数人しか残っていない。
「水野主任」
「ん?」
一ノ瀬くん。
まだいた。
「帰らないの?」
「今終わりました」
「そっか」
「主任は?」
「私も終わり」
「じゃあ帰ります?」
「うん」
パソコンを閉じる。
鞄を持つ。
「お先に失礼します」
「お疲れさまでした」
「お疲れさまです」
二人で婚礼部を出る。
一緒にエレベーターへ。
ホテルの従業員口から外へ出る。
夜。
少しだけ風が冷たい。
「疲れた」
一ノ瀬くんが言う。
「まだ一週間でしょ」
「一週間だから疲れるんですよ」
「これからもっと大変になるよ」
「脅さないでください」
「事実」
「主任って最初どうだったんですか?」
「最初?」
「婚礼部入った頃」
「……十一年前?」
「はい」
「覚えてない」
「嘘」
「ほんと」
「絶対覚えてるでしょ」
「まあ」
少しだけ。
思い出す。
二十三歳。
婚礼部に配属されたばかり。
右も左も分からなくて。
先輩の後ろをついて歩いて。
毎日。
必死だった。
「大変だったよ」
「やっぱり?」
「何回辞めようと思ったか」
「主任が?」
「私だって思うよ」
「意外」
「何その反応」
「主任、最初から何でもできそうだから」
「そんなわけないでしょ」
「でも今は何でもできますよね」
「何でもはできない」
「婚礼のことなら」
「十一年やってるからね」
「十一年かぁ」
一ノ瀬くんが前を向く。
「俺、十一年後三十五か」
「……」
「主任?」
「なに?」
「なんで黙ったんですか」
「いや」
十一年後。
一ノ瀬くん。
三十五歳。
その頃。
私は。
四十五。
「……」
何を。
計算してるんだろう。
「主任はそのとき――」
「言わなくていい」
「まだ何も言ってないですよ」
「分かるから」
「四十五」
「言った」
「若いじゃないですか」
「二十四歳には分からない」
「また年齢」
「事実でしょ」
「十歳しか違わないのに」
「十歳も、ね」
一ノ瀬くんは。
それ以上何も言わなかった。
駅へ向かう。
電車に乗る。
月島へ。
同じ駅で降りて。
同じ道を歩く。
この一週間。
帰る時間が重なった日は。
こうして一緒に帰ることが増えた。
別に。
約束しているわけじゃない。
終わる時間が同じだから。
帰る場所が同じだから。
ただ。
それだけ。
レジデンス・ルミエール月島が見えてくる。
「主任」
「なに?」
「明日何時ですか?」
「九時」
「俺もです」
「じゃあ一緒だね」
「朝会うかもしれないですね」
「起きられたらね」
「起きますよ」
「ほんとに?」
「まだモーニングコール引きずってます?」
「寝坊したの一ノ瀬くんでしょ」
「寝坊してないです。主任が起こしてくれたから」
「じゃあ明日は自分で起きて」
「チャット通話待ってます」
「しません」
エントランスへ入る。
エレベーター。
八階。
扉が開く。
「じゃあ、おやすみなさい」
「うん。お疲れさま」
「主任も」
一ノ瀬くんが降りる。
扉が閉まる。
十二階。
部屋へ戻る。
シャワー。
夕食。
明日の準備。
気づけば。
二十三時半。
ベッドに入る。
スマートフォンを見る。
婚礼部のグループチャットに。
何件か通知が来ている。
明日のランチの話。
新しくできた店の話。
適当に眺める。
画面を閉じる。
「……寝よ」
充電器に繋ごうとした。
そのとき。
震えた。
悠。
「……?」
チャットを開く。
『主任、まだ起きてます?』
「……」
時計を見る。
二十三時四十二分。
なんだろう。
『起きてるけど』
送信。
既読。
すぐ。
返信。
『十二階って雨の音すごいですか?』
「……は?」
窓を見る。
いつの間にか。
雨が降っていた。
結構。
強い。
窓に雨粒が当たっている。
『急に何?』
既読。
『八階めっちゃ音するんですよ』
『さっきから気になって』
「……」
仕事じゃない。
明日の資料でも。
打ち合わせでも。
進行でもない。
本当に。
どうでもいい話。
『十二階もするよ』
送る。
既読。
『やっぱりするんだ』
『上の方がもっとすごいかと思いました』
『そんな変わらないでしょ』
『四階違いますよ』
『たった四階』
送って。
少し。
止まる。
たった四階。
前にも。
同じことを思った。
『確かに』
悠から返ってくる。
そこで。
終わると思った。
でも。
『主任って雨の日好きですか?』
「……」
なんで?
スマートフォンを見る。
『普通』
『一番困る答え』
『じゃあ一ノ瀬くんは?』
送ってから。
気づく。
私。
聞き返した。
別に。
聞かなくてもよかったのに。
既読。
少しして。
『結構好きです』
『家にいるとき限定ですけど』
『外なら?』
『嫌いです』
『私も』
『主任もじゃないですか笑』
「……」
笑う。
本当に。
どうでもいい。
『雨の日の結婚式は大変ですけどね』
一ノ瀬くん。
『結局仕事の話するんですね』
『一ノ瀬くんが婚礼部だからでしょ』
『主任もです』
『知ってる』
『十一年』
『それ今日聞きました』
『忘れないで』
『忘れませんよ』
会話が続く。
特に。
意味もなく。
雨の話。
仕事の話。
今日の社員食堂のプリン。
『主任プリン守りすぎです』
『私のだから』
『一口くらいいいじゃないですか』
『嫌』
『ケチ』
『自分の食べたでしょ』
『甘いもの好きなんですよ』
『今日知った』
送った。
「……」
少しして。
返信。
『俺のこと知らなすぎじゃないですか?』
「……」
指が止まる。
知らない。
確かに。
三ヶ月半。
一緒に仕事をして。
同じマンションだと知って。
同じ部署になって。
それでも。
一ノ瀬くんのこと。
仕事以外は。
ほとんど知らない。
『仕事しかしてなかったからね』
送信。
既読。
少し。
間が空く。
悠
『じゃあこれから知ってください』
「……」
画面を見る。
一度。
読む。
もう一度。
『じゃあこれから知ってください』
「……何それ」
少し。
胸の奥が変な感じになる。
でも。
すぐ次のメッセージ。
『甘いもの好きです』
「……」
思わず笑った。
『それはもう知ってる』
『じゃあ一個増えましたね』
『そうだね』
『主任は?』
『何が?』
『甘いもの好きですか?』
『普通』
『また普通』
『プリンは好き』
『今日めっちゃ守ってましたもんね』
『しつこい』
『覚えときます』
「……」
プリンが好き。
たった。
それだけ。
そんなこと。
覚えてどうするんだろう。
時計を見る。
零時を過ぎていた。
「……こんな時間」
チャットを見る。
『もう寝るよ』
既読。
『はい』
『明日起きれなくなりますよ』
『一ノ瀬くんがね』
『俺は起きます』
『じゃあおやすみ』
送る。
すぐに。
『おやすみなさい』
既読。
画面を閉じる。
スマートフォンを枕元に置く。
部屋が静かになる。
聞こえるのは。
窓を叩く雨の音。
「……」
変な感じ。
メールでは。
何十通もやり取りしてきた。
でも。
あれは全部。
仕事だった。
今の会話には。
仕事じゃないことが。
たくさんあった。
雨が好きとか。
甘いものが好きとか。
プリンが好きとか。
本当に。
どうでもいいこと。
でも。
そういう。
どうでもいいことを。
私は。
一ノ瀬くんと初めて話した。
「……これから知ってください、か」
小さく呟く。
四階下。
今頃。
一ノ瀬くんも。
同じ雨の音を聞いている。
そう思うと。
少しだけ。
不思議だった。
そして。
翌朝。
目覚ましが鳴るより。
少しだけ早く。
目が覚めた。
スマートフォンを見る。
七時十二分。
通知は。
ない。
「……」
当たり前。
何を確認してるんだろう。
起き上がる。
支度をして。
部屋を出る。
エレベーター。
十二階から。
下へ。
十一。
十。
九。
八。
音が鳴る。
扉が開く。
「おはようございます」
一ノ瀬くん。
「……おはよう」
乗ってくる。
扉が閉まる。
「ちゃんと起きました」
「偉いね」
「子ども扱いしてる」
「してない」
「主任も早いですね」
「普通」
「また普通」
「うるさい」
一ノ瀬くんが笑う。
私も。
少しだけ笑った。
昨日までと。
何も変わらない朝。
ただ。
一つだけ。
私は。
一ノ瀬くんが。
雨の日は。
家にいるなら結構好きで。
甘いものが好きだということを。
知っていた。
たった。
それだけ。
なのに。
昨日より。
少しだけ。
近くなった気がした。