十年前なら、あなたを好きになれたのに。―10歳下の後輩に本気で恋をしました―
第29話 好きだと気づいた翌日
第29話 好きだと気づいた翌日
朝。
目が覚めた。
「……」
天井を見る。
いつもと同じ。
部屋も。
時間も。
何も変わっていない。
変わったのは。
たぶん。
俺だけ。
『俺は、水野主任のことが好きなんだと思う』
昨日。
寝る前に。
ようやく認めた。
「……」
好き。
水野主任を。
俺が。
「……マジか」
改めて考えると。
なんか。
恥ずかしい。
ベッドから起きる。
顔を洗って。
着替える。
朝飯を適当に食べる。
仕事へ行く準備をする。
いつもと同じ朝。
なのに。
部屋を出て。
エレベーターのボタンを押した瞬間。
思った。
十二階。
主任。
もう出たかな。
「……」
今までも。
気にしていた。
朝。
エレベーターに乗れば。
主任と会わないかなと思った。
帰りも。
時間が近ければ。
一緒にならないかなと思った。
でも。
それを。
特に気にしたことはなかった。
「……俺」
毎朝。
こんなこと考えてたのか。
音が鳴る。
エレベーターが。
八階で止まった。
扉が開く。
「……」
いた。
「おはよう」
「……おはようございます」
乗る。
扉が閉まる。
主任は。
いつも通り。
俺の隣。
昨日までと。
何も変わらない。
なのに。
「……」
何だこれ。
普通に。
可愛く見える。
いや。
昨日までだって。
綺麗な人だとは思っていた。
思っていたけど。
「一ノ瀬くん?」
「……はい」
「何?」
「何がです?」
「今、見てなかった?」
「見てないです」
「ほんと?」
「はい」
「ならいいけど」
前を向く。
危ない。
好きだと。
自分で認めただけ。
主任は。
何も変わってない。
なのに。
なんで。
こんなに違って見えるんだ。
「……」
好きって。
すごいな。
一階。
扉が開く。
「行こ」
「はい」
二人で。
駅へ向かう。
いつもの道。
いつもの主任。
「今日、一ノ瀬くん午前中打ち合わせだよね?」
「はい」
「資料確認した?」
「昨日しました」
「ほんと?」
「しましたって」
「一応もう一回見といた方がいいよ」
「主任」
「何?」
「信用してください」
「してるよ」
「絶対してない」
「してるから言ってるの」
「それ信用してる人に言います?」
「一ノ瀬くんだから言ってる」
「……」
「何?」
「いや」
何でもない。
ただ。
一ノ瀬くんだから。
その言葉だけで。
少し嬉しい。
「……重症だな」
「何か言った?」
「言ってないです」
「そう?」
「はい」
出勤。
午前中の打ち合わせを終える。
婚礼部へ戻る。
「お疲れさま」
「お疲れさまです」
主任は。
いつも通り。
仕事をしている。
電話を取って。
メールを返して。
後輩から相談されて。
資料を確認して。
「ここ、会場にも確認して」
「はい」
「あと新郎新婦にも今日中に連絡」
「分かりました」
仕事中の主任は。
やっぱり。
かっこいい。
「……」
今まで。
尊敬してるから。
そう思うんだと思ってた。
いや。
尊敬してるのは。
今も変わらない。
でも。
たぶん。
それだけじゃなかった。
「一ノ瀬さん」
「はい?」
後輩に呼ばれる。
「午前の打ち合わせどうでした?」
「大丈夫だったよ」
「ほんとですか?」
「なんで疑うの」
「一ノ瀬さんだから」
「主任と同じこと言うなよ」
「あ、主任」
「何?」
「一ノ瀬さんの打ち合わせ大丈夫だったみたいです」
「聞こえてた」
「主任、心配してたんですよね?」
「別に」
「朝から資料確認したか聞かれました」
「ほら」
「教育係だからでしょ」
「……」
分かってる。
そう。
教育係だから。
「一ノ瀬くん」
「はい」
「午前の記録見せて」
「もう入力しました」
「早いね」
「成長しました」
「自分で言わない」
「見ます?」
「見る」
主任が。
俺の席へ来る。
「ここです」
「うん」
パソコンを。
主任が覗き込む。
「……」
近い。
「ここは――」
「……」
昨日。
俺が主任の横から。
パソコンを見た。
そのとき。
主任が。
妙に固まっていた。
今日は。
逆。
主任が。
俺の横。
「一ノ瀬くん、ここの書き方なんだけど」
「……」
ふわっと。
何か。
匂いがした。
「……」
甘い。
香水?
シャンプー?
分からない。
でも。
「……うわ」
「え?」
「……」
しまった。
「何?」
「いや」
「今うわって言った?」
「言ってないです」
「言ったよね?」
「気のせいです」
「絶対言った」
「言ってないですって」
主任が。
少しだけ。
俺を見る。
そのせいで。
さらに。
顔が近くなる。
「……」
いい匂い。
マジで。
いい匂い。
「一ノ瀬くん?」
「はい」
「聞いてる?」
「聞いてます」
嘘。
全然。
聞いてなかった。
「じゃあ、ここ」
「……」
主任が。
画面を指すために。
もう少しだけ。
近づく。
「……」
近いって。
主任。
「ここ、新婦さんが気にしてたところだから」
「はい」
「次の打ち合わせで確認して」
「はい」
「あとこっち」
「はい」
「……一ノ瀬くん」
「はい」
「ほんとに聞いてる?」
「聞いてます」
「全部はいしか言ってないけど」
「聞いてますって」
「怪しい」
「大丈夫です」
主任が。
俺を見る。
「顔赤くない?」
「……」
「暑い?」
「暑いです」
「空調?」
「たぶん」
「そう?」
主任が。
離れる。
「……」
助かった。
いや。
助かったって何だ。
昨日までも。
これくらい近くなることはあった。
たぶん。
同じ匂いも。
していた。
なのに。
一度。
好きだと認めた途端。
距離も。
声も。
匂いまで。
全部。
気になる。
「……面倒くさ」
「何か言った?」
「何も」
「今日変だよ?」
「主任に言われたくないです」
「何それ」
「昨日の主任も変だったんで」
「……仕事しなさい」
「はい」
主任が。
自分の席へ戻っていく。
俺は。
その背中を見る。
「……」
これ。
思ってたより。
大変かもしれない。
昼。
午後。
仕事を続ける。
できるだけ。
普通に。
主任を。
意識しないように。
「水野主任」
「はい?」
後輩の女性が。
主任の席へ行く。
「今日このあと予定あります?」
「今日?」
「はい」
「ないけど」
「じゃあ、みんなでご飯行きません?」
「今日?」
「行きましょうよ」
「んー」
主任が。
少し考える。
「今日はやめとく」
「えー」
「ちょっと疲れた」
「昨日休みだったのに?」
「休みでも疲れるの」
「主任、最近付き合い悪い」
「また今度行くから」
「約束ですよ」
「はいはい」
俺は。
パソコンを見ながら。
聞いていた。
今日。
予定ないんだ。
「……」
だから何だ。
予定がないからって。
何もない。
昨日。
一緒に飯食ったばっかりだ。
「主任って」
後輩が。
まだ話している。
「何?」
「彼氏とか待ってないんですか?」
「いないって」
「ほんとですか?」
「ほんと」
「主任ならいそうなのに」
「いないものはいない」
「作らないんですか?」
「昨日も似たようなこと聞かれた」
「誰に?」
「友達」
「何て答えたんです?」
「今はいらないって」
「もったいない」
「何が」
「絶対モテるのに」
「はいはい」
俺は。
画面を見る。
知ってる。
彼氏がいないこと。
昨日。
本人から聞いた。
好きな人も。
いないって。
「……」
やっぱり。
嬉しい。
最低かもしれないけど。
嬉しいものは。
嬉しい。
夕方。
資料を取りに。
席を立つ。
戻ろうとしたとき。
主任が。
婚礼部の入口で。
男の人と話しているのが見えた。
「水野さん」
「お疲れさまです」
「この前の件、助かりました」
「いえいえ」
見たことがある。
宴会部の人。
たぶん。
俺より少し上。
主任とは。
普通に話している。
「そういえば」
男の人が。
笑いながら言う。
「今度、例の店行きません?」
「例の店?」
「この前話してたところ」
「ああ」
「なかなか予約取れないらしいですけど」
「そうなんですね」
「時間合えば行きましょうよ」
「そうですね」
「また連絡します」
「はい」
「じゃあ、お疲れさまです」
「お疲れさまです」
「……」
主任が。
戻ってくる。
俺は。
自分の席へ戻る。
「……」
何だよ。
今の。
別に。
普通の会話。
仕事仲間。
飯の話。
それだけ。
分かってる。
「一ノ瀬くん」
「……はい」
主任が。
資料を持ってくる。
「これお願い」
「はい」
受け取る。
「今日中にできる?」
「できます」
「じゃあお願い」
「はい」
「……」
主任が。
動かない。
「何ですか?」
「一ノ瀬くん」
「はい」
「なんか機嫌悪くない?」
「……」
危ない。
「普通です」
「……」
「何ですか?」
主任が。
少しだけ。
目を細める。
「それ」
「何がです?」
「この前、私が言ってたやつ」
「そうでしたっけ」
「絶対機嫌悪い」
「悪くないです」
「じゃあ普通?」
「普通です」
「……」
「何ですか」
「何でもない」
主任が。
自分の席へ戻る。
「……」
俺。
分かりやす。
何やってんだ。
仕事。
仕事しろ。
そう思っても。
少し経つと。
さっきの会話が。
頭に浮かぶ。
『時間合えば行きましょうよ』
『そうですね』
「……」
誰だよ。
いや。
宴会部の人。
知ってる。
そうじゃない。
「……」
俺。
めちゃくちゃ。
嫉妬してるじゃん。
好きだと。
自覚した次の日。
もう。
これ。
「……最悪」
「一ノ瀬さん?」
「え?」
後輩が。
こっちを見る。
「どうしました?」
「何でもない」
「今日変ですよ」
「みんなそれ言うな」
「だって変ですもん」
「仕事して」
「はいはい」
二十時過ぎ。
仕事が終わる。
「お疲れさまでした」
「お疲れさまです」
何人かが。
帰っていく。
俺も。
パソコンを閉じる。
主任を見る。
「主任」
「何?」
「帰ります?」
「うん」
「俺も終わりました」
「じゃあ行こ」
「はい」
二人で。
ホテルを出る。
駅へ向かう。
「……」
聞きたい。
さっきの男。
誰なのか。
いや。
知ってる。
宴会部。
そうじゃなくて。
主任と。
どういう関係なのか。
本当に。
飯に行くのか。
二人なのか。
でも。
聞く理由がない。
「一ノ瀬くん」
「はい」
「今日ほんとに変だよ?」
「そうですか?」
「うん」
「普通です」
「またそれ」
「普通なんで」
「……」
歩く。
「主任」
「何?」
言ってしまった。
「さっきの人」
「さっき?」
「夕方話してた人」
「ああ」
「宴会部の?」
「そう」
「仲いいんですか?」
「……」
主任が。
俺を見る。
「普通」
「普通」
「何」
「いや」
「なんで?」
「聞こえたから」
「何が?」
「飯行くって」
「ああ」
「行くんです?」
「時間合えばね」
「……へえ」
「何?」
「別に」
「一ノ瀬くん」
「はい」
「やっぱり機嫌悪い?」
「悪くないです」
「じゃあ何」
「……」
聞く。
もう。
聞いてしまえ。
「主任って」
「うん」
「男の人と二人で結構ご飯行くんですか?」
「……え?」
「いや」
「何で?」
「何となく」
「行かないよ」
「……」
思ったより。
すぐ。
答えが返ってきた。
「そうなんだ」
「うん」
「……」
なんだ。
よかった。
「何?」
「何がです?」
「今」
「はい」
「ちょっと機嫌直った?」
「……」
バレた。
「直ってないです」
「じゃあやっぱり悪かったんじゃん」
「悪くないです」
「どっち?」
「普通です」
主任が。
少し笑う。
「今日の一ノ瀬くん、面倒くさい」
「すみません」
「何なの?」
「何でもないです」
「ほんと?」
「はい」
言えるわけない。
主任が。
他の男と飯に行くのが。
嫌だった。
なんて。
電車に乗る。
月島。
降りる。
マンションまで。
二人で歩く。
「……」
横を見る。
主任。
今日。
何度も見た。
朝。
仕事中。
隣に来たとき。
他の男と話していたとき。
今。
昨日まで。
同じ人だった。
でも。
俺が。
好きだと認めただけで。
全部。
違って見える。
レジデンス・ルミエール月島。
エントランス。
エレベーター。
二人で乗る。
一階。
二階。
三階。
「主任」
「何?」
「今日」
「うん」
「俺、変でした?」
「うん」
即答。
「早」
「だって変だったもん」
「どの辺が?」
「分かんない」
「何ですかそれ」
「なんか」
主任が。
少し考える。
「この前の私みたいだった」
「……」
「何?」
「いや」
四階。
五階。
六階。
この前。
主任が。
俺に。
冷たかった日。
俺が。
他の後輩に仕事を聞いて。
一緒に昼を食べて。
プリンをもらった日。
「主任」
「何?」
「あの日」
「どの日?」
「主任が普通ってめっちゃ言ってた日」
「……」
「何で機嫌悪かったんですか?」
「悪くなかった」
「まだ言う」
「ほんとに」
「じゃあ普通だった?」
「……普通」
「ふっ」
「何」
「いや」
七階。
もしかして。
本当に。
あの日の主任と。
今日の俺は。
同じだったんじゃないか。
八階。
音が鳴る。
扉が開く。
「じゃあ、おやすみなさい」
「うん。おやすみ」
降りる。
振り返る。
「主任」
「何?」
「昨日の店」
「うん」
「また行きましょうね」
「……」
少しだけ。
主任が笑う。
「覚えてたんだ」
「約束なんで」
「約束してないって」
「しました」
「してない」
「じゃあ今します?」
「……また今度ね」
「はい」
扉が閉じる。
「……」
部屋へ向かう。
鍵を開ける。
中へ入る。
「……分かりやす」
自分で。
笑う。
好きだと。
気づいた次の日。
他の男と。
話しているだけで。
面白くなかった。
飯に行くかもしれない。
それだけで。
気になった。
二人では行かないと聞いて。
安心した。
「……」
ソファへ座る。
そして。
ふと思う。
この前。
俺が。
他の女性に仕事を聞いていた日。
主任も。
こんな感じだったんだろうか。
俺が。
別の人と話すたび。
気になって。
プリンをもらっただけで。
少し。
面白くなくて。
だから。
あんなに。
普通。
普通。
って。
言っていたんだろうか。
「……」
いや。
期待するな。
主任は。
教育係。
俺は。
十歳下の後輩。
それだけかもしれない。
でも。
もし。
あの日。
主任が言っていた。
『普通』
と。
今日。
俺が言っていた。
『普通』
が。
同じ意味だったら。
「……」
少しくらい。
期待しても。
いいのにな。
朝。
目が覚めた。
「……」
天井を見る。
いつもと同じ。
部屋も。
時間も。
何も変わっていない。
変わったのは。
たぶん。
俺だけ。
『俺は、水野主任のことが好きなんだと思う』
昨日。
寝る前に。
ようやく認めた。
「……」
好き。
水野主任を。
俺が。
「……マジか」
改めて考えると。
なんか。
恥ずかしい。
ベッドから起きる。
顔を洗って。
着替える。
朝飯を適当に食べる。
仕事へ行く準備をする。
いつもと同じ朝。
なのに。
部屋を出て。
エレベーターのボタンを押した瞬間。
思った。
十二階。
主任。
もう出たかな。
「……」
今までも。
気にしていた。
朝。
エレベーターに乗れば。
主任と会わないかなと思った。
帰りも。
時間が近ければ。
一緒にならないかなと思った。
でも。
それを。
特に気にしたことはなかった。
「……俺」
毎朝。
こんなこと考えてたのか。
音が鳴る。
エレベーターが。
八階で止まった。
扉が開く。
「……」
いた。
「おはよう」
「……おはようございます」
乗る。
扉が閉まる。
主任は。
いつも通り。
俺の隣。
昨日までと。
何も変わらない。
なのに。
「……」
何だこれ。
普通に。
可愛く見える。
いや。
昨日までだって。
綺麗な人だとは思っていた。
思っていたけど。
「一ノ瀬くん?」
「……はい」
「何?」
「何がです?」
「今、見てなかった?」
「見てないです」
「ほんと?」
「はい」
「ならいいけど」
前を向く。
危ない。
好きだと。
自分で認めただけ。
主任は。
何も変わってない。
なのに。
なんで。
こんなに違って見えるんだ。
「……」
好きって。
すごいな。
一階。
扉が開く。
「行こ」
「はい」
二人で。
駅へ向かう。
いつもの道。
いつもの主任。
「今日、一ノ瀬くん午前中打ち合わせだよね?」
「はい」
「資料確認した?」
「昨日しました」
「ほんと?」
「しましたって」
「一応もう一回見といた方がいいよ」
「主任」
「何?」
「信用してください」
「してるよ」
「絶対してない」
「してるから言ってるの」
「それ信用してる人に言います?」
「一ノ瀬くんだから言ってる」
「……」
「何?」
「いや」
何でもない。
ただ。
一ノ瀬くんだから。
その言葉だけで。
少し嬉しい。
「……重症だな」
「何か言った?」
「言ってないです」
「そう?」
「はい」
出勤。
午前中の打ち合わせを終える。
婚礼部へ戻る。
「お疲れさま」
「お疲れさまです」
主任は。
いつも通り。
仕事をしている。
電話を取って。
メールを返して。
後輩から相談されて。
資料を確認して。
「ここ、会場にも確認して」
「はい」
「あと新郎新婦にも今日中に連絡」
「分かりました」
仕事中の主任は。
やっぱり。
かっこいい。
「……」
今まで。
尊敬してるから。
そう思うんだと思ってた。
いや。
尊敬してるのは。
今も変わらない。
でも。
たぶん。
それだけじゃなかった。
「一ノ瀬さん」
「はい?」
後輩に呼ばれる。
「午前の打ち合わせどうでした?」
「大丈夫だったよ」
「ほんとですか?」
「なんで疑うの」
「一ノ瀬さんだから」
「主任と同じこと言うなよ」
「あ、主任」
「何?」
「一ノ瀬さんの打ち合わせ大丈夫だったみたいです」
「聞こえてた」
「主任、心配してたんですよね?」
「別に」
「朝から資料確認したか聞かれました」
「ほら」
「教育係だからでしょ」
「……」
分かってる。
そう。
教育係だから。
「一ノ瀬くん」
「はい」
「午前の記録見せて」
「もう入力しました」
「早いね」
「成長しました」
「自分で言わない」
「見ます?」
「見る」
主任が。
俺の席へ来る。
「ここです」
「うん」
パソコンを。
主任が覗き込む。
「……」
近い。
「ここは――」
「……」
昨日。
俺が主任の横から。
パソコンを見た。
そのとき。
主任が。
妙に固まっていた。
今日は。
逆。
主任が。
俺の横。
「一ノ瀬くん、ここの書き方なんだけど」
「……」
ふわっと。
何か。
匂いがした。
「……」
甘い。
香水?
シャンプー?
分からない。
でも。
「……うわ」
「え?」
「……」
しまった。
「何?」
「いや」
「今うわって言った?」
「言ってないです」
「言ったよね?」
「気のせいです」
「絶対言った」
「言ってないですって」
主任が。
少しだけ。
俺を見る。
そのせいで。
さらに。
顔が近くなる。
「……」
いい匂い。
マジで。
いい匂い。
「一ノ瀬くん?」
「はい」
「聞いてる?」
「聞いてます」
嘘。
全然。
聞いてなかった。
「じゃあ、ここ」
「……」
主任が。
画面を指すために。
もう少しだけ。
近づく。
「……」
近いって。
主任。
「ここ、新婦さんが気にしてたところだから」
「はい」
「次の打ち合わせで確認して」
「はい」
「あとこっち」
「はい」
「……一ノ瀬くん」
「はい」
「ほんとに聞いてる?」
「聞いてます」
「全部はいしか言ってないけど」
「聞いてますって」
「怪しい」
「大丈夫です」
主任が。
俺を見る。
「顔赤くない?」
「……」
「暑い?」
「暑いです」
「空調?」
「たぶん」
「そう?」
主任が。
離れる。
「……」
助かった。
いや。
助かったって何だ。
昨日までも。
これくらい近くなることはあった。
たぶん。
同じ匂いも。
していた。
なのに。
一度。
好きだと認めた途端。
距離も。
声も。
匂いまで。
全部。
気になる。
「……面倒くさ」
「何か言った?」
「何も」
「今日変だよ?」
「主任に言われたくないです」
「何それ」
「昨日の主任も変だったんで」
「……仕事しなさい」
「はい」
主任が。
自分の席へ戻っていく。
俺は。
その背中を見る。
「……」
これ。
思ってたより。
大変かもしれない。
昼。
午後。
仕事を続ける。
できるだけ。
普通に。
主任を。
意識しないように。
「水野主任」
「はい?」
後輩の女性が。
主任の席へ行く。
「今日このあと予定あります?」
「今日?」
「はい」
「ないけど」
「じゃあ、みんなでご飯行きません?」
「今日?」
「行きましょうよ」
「んー」
主任が。
少し考える。
「今日はやめとく」
「えー」
「ちょっと疲れた」
「昨日休みだったのに?」
「休みでも疲れるの」
「主任、最近付き合い悪い」
「また今度行くから」
「約束ですよ」
「はいはい」
俺は。
パソコンを見ながら。
聞いていた。
今日。
予定ないんだ。
「……」
だから何だ。
予定がないからって。
何もない。
昨日。
一緒に飯食ったばっかりだ。
「主任って」
後輩が。
まだ話している。
「何?」
「彼氏とか待ってないんですか?」
「いないって」
「ほんとですか?」
「ほんと」
「主任ならいそうなのに」
「いないものはいない」
「作らないんですか?」
「昨日も似たようなこと聞かれた」
「誰に?」
「友達」
「何て答えたんです?」
「今はいらないって」
「もったいない」
「何が」
「絶対モテるのに」
「はいはい」
俺は。
画面を見る。
知ってる。
彼氏がいないこと。
昨日。
本人から聞いた。
好きな人も。
いないって。
「……」
やっぱり。
嬉しい。
最低かもしれないけど。
嬉しいものは。
嬉しい。
夕方。
資料を取りに。
席を立つ。
戻ろうとしたとき。
主任が。
婚礼部の入口で。
男の人と話しているのが見えた。
「水野さん」
「お疲れさまです」
「この前の件、助かりました」
「いえいえ」
見たことがある。
宴会部の人。
たぶん。
俺より少し上。
主任とは。
普通に話している。
「そういえば」
男の人が。
笑いながら言う。
「今度、例の店行きません?」
「例の店?」
「この前話してたところ」
「ああ」
「なかなか予約取れないらしいですけど」
「そうなんですね」
「時間合えば行きましょうよ」
「そうですね」
「また連絡します」
「はい」
「じゃあ、お疲れさまです」
「お疲れさまです」
「……」
主任が。
戻ってくる。
俺は。
自分の席へ戻る。
「……」
何だよ。
今の。
別に。
普通の会話。
仕事仲間。
飯の話。
それだけ。
分かってる。
「一ノ瀬くん」
「……はい」
主任が。
資料を持ってくる。
「これお願い」
「はい」
受け取る。
「今日中にできる?」
「できます」
「じゃあお願い」
「はい」
「……」
主任が。
動かない。
「何ですか?」
「一ノ瀬くん」
「はい」
「なんか機嫌悪くない?」
「……」
危ない。
「普通です」
「……」
「何ですか?」
主任が。
少しだけ。
目を細める。
「それ」
「何がです?」
「この前、私が言ってたやつ」
「そうでしたっけ」
「絶対機嫌悪い」
「悪くないです」
「じゃあ普通?」
「普通です」
「……」
「何ですか」
「何でもない」
主任が。
自分の席へ戻る。
「……」
俺。
分かりやす。
何やってんだ。
仕事。
仕事しろ。
そう思っても。
少し経つと。
さっきの会話が。
頭に浮かぶ。
『時間合えば行きましょうよ』
『そうですね』
「……」
誰だよ。
いや。
宴会部の人。
知ってる。
そうじゃない。
「……」
俺。
めちゃくちゃ。
嫉妬してるじゃん。
好きだと。
自覚した次の日。
もう。
これ。
「……最悪」
「一ノ瀬さん?」
「え?」
後輩が。
こっちを見る。
「どうしました?」
「何でもない」
「今日変ですよ」
「みんなそれ言うな」
「だって変ですもん」
「仕事して」
「はいはい」
二十時過ぎ。
仕事が終わる。
「お疲れさまでした」
「お疲れさまです」
何人かが。
帰っていく。
俺も。
パソコンを閉じる。
主任を見る。
「主任」
「何?」
「帰ります?」
「うん」
「俺も終わりました」
「じゃあ行こ」
「はい」
二人で。
ホテルを出る。
駅へ向かう。
「……」
聞きたい。
さっきの男。
誰なのか。
いや。
知ってる。
宴会部。
そうじゃなくて。
主任と。
どういう関係なのか。
本当に。
飯に行くのか。
二人なのか。
でも。
聞く理由がない。
「一ノ瀬くん」
「はい」
「今日ほんとに変だよ?」
「そうですか?」
「うん」
「普通です」
「またそれ」
「普通なんで」
「……」
歩く。
「主任」
「何?」
言ってしまった。
「さっきの人」
「さっき?」
「夕方話してた人」
「ああ」
「宴会部の?」
「そう」
「仲いいんですか?」
「……」
主任が。
俺を見る。
「普通」
「普通」
「何」
「いや」
「なんで?」
「聞こえたから」
「何が?」
「飯行くって」
「ああ」
「行くんです?」
「時間合えばね」
「……へえ」
「何?」
「別に」
「一ノ瀬くん」
「はい」
「やっぱり機嫌悪い?」
「悪くないです」
「じゃあ何」
「……」
聞く。
もう。
聞いてしまえ。
「主任って」
「うん」
「男の人と二人で結構ご飯行くんですか?」
「……え?」
「いや」
「何で?」
「何となく」
「行かないよ」
「……」
思ったより。
すぐ。
答えが返ってきた。
「そうなんだ」
「うん」
「……」
なんだ。
よかった。
「何?」
「何がです?」
「今」
「はい」
「ちょっと機嫌直った?」
「……」
バレた。
「直ってないです」
「じゃあやっぱり悪かったんじゃん」
「悪くないです」
「どっち?」
「普通です」
主任が。
少し笑う。
「今日の一ノ瀬くん、面倒くさい」
「すみません」
「何なの?」
「何でもないです」
「ほんと?」
「はい」
言えるわけない。
主任が。
他の男と飯に行くのが。
嫌だった。
なんて。
電車に乗る。
月島。
降りる。
マンションまで。
二人で歩く。
「……」
横を見る。
主任。
今日。
何度も見た。
朝。
仕事中。
隣に来たとき。
他の男と話していたとき。
今。
昨日まで。
同じ人だった。
でも。
俺が。
好きだと認めただけで。
全部。
違って見える。
レジデンス・ルミエール月島。
エントランス。
エレベーター。
二人で乗る。
一階。
二階。
三階。
「主任」
「何?」
「今日」
「うん」
「俺、変でした?」
「うん」
即答。
「早」
「だって変だったもん」
「どの辺が?」
「分かんない」
「何ですかそれ」
「なんか」
主任が。
少し考える。
「この前の私みたいだった」
「……」
「何?」
「いや」
四階。
五階。
六階。
この前。
主任が。
俺に。
冷たかった日。
俺が。
他の後輩に仕事を聞いて。
一緒に昼を食べて。
プリンをもらった日。
「主任」
「何?」
「あの日」
「どの日?」
「主任が普通ってめっちゃ言ってた日」
「……」
「何で機嫌悪かったんですか?」
「悪くなかった」
「まだ言う」
「ほんとに」
「じゃあ普通だった?」
「……普通」
「ふっ」
「何」
「いや」
七階。
もしかして。
本当に。
あの日の主任と。
今日の俺は。
同じだったんじゃないか。
八階。
音が鳴る。
扉が開く。
「じゃあ、おやすみなさい」
「うん。おやすみ」
降りる。
振り返る。
「主任」
「何?」
「昨日の店」
「うん」
「また行きましょうね」
「……」
少しだけ。
主任が笑う。
「覚えてたんだ」
「約束なんで」
「約束してないって」
「しました」
「してない」
「じゃあ今します?」
「……また今度ね」
「はい」
扉が閉じる。
「……」
部屋へ向かう。
鍵を開ける。
中へ入る。
「……分かりやす」
自分で。
笑う。
好きだと。
気づいた次の日。
他の男と。
話しているだけで。
面白くなかった。
飯に行くかもしれない。
それだけで。
気になった。
二人では行かないと聞いて。
安心した。
「……」
ソファへ座る。
そして。
ふと思う。
この前。
俺が。
他の女性に仕事を聞いていた日。
主任も。
こんな感じだったんだろうか。
俺が。
別の人と話すたび。
気になって。
プリンをもらっただけで。
少し。
面白くなくて。
だから。
あんなに。
普通。
普通。
って。
言っていたんだろうか。
「……」
いや。
期待するな。
主任は。
教育係。
俺は。
十歳下の後輩。
それだけかもしれない。
でも。
もし。
あの日。
主任が言っていた。
『普通』
と。
今日。
俺が言っていた。
『普通』
が。
同じ意味だったら。
「……」
少しくらい。
期待しても。
いいのにな。