十年前なら、あなたを好きになれたのに。―10歳下の後輩に本気で恋をしました―
第7話 二人でやれば
第7話 二人でやれば
神崎さんたちの結婚式まで、あと二週間。
ここまで来ると、時間の進み方がおかしくなる。
つい昨日まで一ヶ月あったような気がするのに、気づけば十四日。
確認事項は減るどころか、むしろ増えていた。
「席次、最終版確認しました」
「ありがとう。料理のアレルギー変更は?」
「宴会部に共有済みです」
「新婦側のご親族二名、到着時間変更になったからクロークにも伝えておいて」
「はい」
「あと――」
時計を見る。
二十時四十七分。
「……もうこんな時間」
婚礼部門の事務所を見渡す。
さっきまで何人もいたスタッフは、いつの間にかほとんど帰っていた。
「主任、私そろそろ上がります」
「うん。お疲れさま」
「主任は?」
「これ終わったら帰る」
「本当ですか?」
「本当」
「昨日も聞きました、それ」
「今日は本当だから」
後輩が疑わしそうな顔をする。
「無理しないでくださいね」
「分かってる」
「お疲れさまでした」
「お疲れさま」
扉が閉まる。
静かになった。
私は大きく息を吐き、再びパソコンへ向き直る。
神崎さんたちの当日進行表。
午前中は四十名での挙式。
午後から三百五十名規模の披露宴。
通常の婚礼より、スタッフの動きも複雑になる。
一つ間違えれば、全部がずれる。
「挙式終了が十一時四十分……」
披露宴会場への移動。
親族写真。
新婦のお色直し。
VIPの到着。
報道関係者の入館。
一つずつ時間を確認する。
「ここ、十五分じゃ厳しいな……」
「何がです?」
「うわっ」
思わず肩が跳ねた。
振り返る。
「……一ノ瀬くん」
「はい」
「びっくりさせないでよ」
「普通に入ってきただけですけど」
「声かけて」
「かけましたよ。二回」
「嘘」
「本当です」
一ノ瀬くんが笑いながら近づいてくる。
手にはファイルを持っていた。
「まだ帰らないんですか?」
「一ノ瀬くんこそ、なんでいるの?」
「神崎様の最終招待客リスト。営業側の確認終わったんで持ってきました」
机にファイルが置かれる。
「メールでいいのに」
「いると思ったんで」
「……私が?」
「はい」
「なんで?」
「この時間までいるかなって」
さらっと言って、向かいの椅子を引く。
「何してるんです?」
「当日の進行表」
「見てもいいですか?」
「見ても分からないでしょ」
「だから見るんじゃないですか」
「勉強熱心だね」
「使えるものは使わないと」
「また私を教材扱いしてる」
一ノ瀬くんが笑う。
私は進行表を向けた。
「ここ。挙式が終わったあと、親族写真を撮るでしょ?」
「はい」
「そのあと新郎新婦は披露宴の準備。でも同じ時間にVIPが到着し始める」
「なるほど」
「だからスタッフを完全に分けないと回らない」
「営業側でVIP対応引き取れますよ」
「え?」
「受付までですよね?」
「そうだけど」
「じゃあ俺と営業二人でやります。その分、婚礼スタッフを新郎新婦側に回してください」
私は一ノ瀬くんを見る。
「できる?」
「招待客の会社名と役職は全部入ってます」
「全部?」
「神崎様の案件ですよ? 間違えたら怖いんで覚えました」
「……すご」
「今ちょっと褒めました?」
「ちょっとだけ」
「じゃあやります」
「お願い」
進行表を書き換える。
一ノ瀬くんはまだ帰らない。
「一ノ瀬くん」
「はい?」
「もう大丈夫だよ」
「何がです?」
「リスト持ってきただけでしょ?」
「そうですけど」
「じゃあ帰りな」
「水野主任は?」
「これ終わったら」
「それ、何時です?」
「……二十二時くらい?」
一ノ瀬くんが進行表を見る。
「俺でもできることあります?」
「ないよ」
「本当に?」
「婚礼の進行表だよ?」
「じゃあ教えてください」
「え?」
「できるところだけやります」
「いや、でも」
「二人でやった方が早いでしょ」
そう言って、当たり前のように隣の席へ移動してくる。
「これ何です?」
「送賓準備」
「送賓?」
「披露宴終わったあと、新郎新婦がゲストを見送る準備」
「ああ。なるほど」
「こっちは?」
「記念品搬入確認」
「これは俺でもできます?」
「それならできる」
「じゃあやります」
本当に始めた。
分からないことだけ聞く。
「この確認先、宴会部で合ってます?」
「そこは婚礼」
「了解です」
「こっちは?」
「宴会部」
「なるほど」
数分後。
「水野主任、これ前に教えてもらったやつですよね?」
「どれ?」
「親族写真の前に、新婦のドレス確認入れるやつ」
「あ、そう」
「じゃあここ五分じゃ足りないですよね」
私は画面を見る。
「……本当だ」
「十分?」
「十五分ほしい」
「じゃあその前の移動を五分詰めれば」
「できる。そこ直して」
「了解です」
気づけば私は、自分の作業に集中していた。
隣に一ノ瀬くんがいることが、いつの間にか普通になっていた。
「水野主任」
「ん?」
「終わりました」
「え?」
時計を見る。
二十一時三十二分。
「……早」
「一人だったら何時までやるつもりだったんです?」
「二十二時半くらい」
「一時間浮きましたね」
「全部一ノ瀬くんのおかげではないけどね」
「素直じゃないなぁ」
「でも」
私は完成した進行表を見る。
「助かった。ありがとう」
一ノ瀬くんが止まった。
そして、ゆっくりこちらを見る。
「……ついに?」
「なにが?」
「『一ノ瀬でよかった』」
「言ってない」
「今ほぼ言ったじゃないですか」
「助かったって言っただけ」
「同じようなもんでしょ」
「全然違う」
「厳しいなぁ」
笑いながら資料を片付ける。
事務所にはもう、私たちしかいなかった。
昼間は電話や話し声が絶えない場所なのに、夜になると別の場所みたいに静かだ。
「疲れた」
思わず背伸びをする。
「主任って、いつもこんな時間までいるんですか?」
「婚礼前はね」
「十一年ずっと?」
「まあ、毎日じゃないけど」
「すげえな……」
「またそれ?」
「だって普通にすごくないですか?」
一ノ瀬くんが椅子の背もたれに体を預ける。
「この仕事、好きなんですね」
少しだけ考えた。
「うん」
たぶん、迷う必要なんてなかった。
「好きじゃなかったら、十一年もやってないよ」
「なんでブライダルだったんです?」
「面接?」
「気になっただけです」
また質問。
でも。
不思議と嫌じゃない。
「結婚式って、たった一日じゃん」
「はい」
「準備は何ヶ月もするのに、本番は数時間で終わる」
「確かに」
「でも、その数時間のことを何十年経っても覚えてる人がいるんだよ」
一ノ瀬くんが黙って聞いている。
「昔担当した新婦さんが、何年かしてホテルに遊びに来てくれたことがあってね」
「へえ」
「子ども連れて。『今でも結婚式の話します』って言ってくれたの」
思い出すだけで、少し嬉しくなる。
「そのとき、ああ、この仕事やっててよかったなって思った」
「……なるほど」
「だから続いてるのかも」
一ノ瀬くんがしばらく何も言わなかった。
「なに?」
「いや」
少し笑う。
「俺、今回この仕事できてよかったです」
「営業なのに?」
「だからですよ」
「どういうこと?」
「営業だけだったら、契約取ったところで俺の仕事ってほとんど終わるじゃないですか」
一ノ瀬くんが完成した進行表を見る。
「でも今は、その先が見えるから」
「その先?」
「契約した結婚式が、どうやって作られていくのか」
少しだけ楽しそうに話す。
「最初は正直、三百五十人の大型案件取れた、くらいに思ってました」
「営業だね」
「でしょ?」
「うん」
「でも今は、ちゃんと成功してほしいです」
その言葉が、少し嬉しかった。
「じゃあ最後まで頑張って」
「もちろん」
「まだ二週間あるよ」
「質問しまくります」
「ほどほどにして」
「それは無理です」
二人で笑った。
時計を見る。
「帰ろっか」
「ですね」
電気を消し、二人で事務所を出る。
エレベーターの中。
さすがに疲れたのか、しばらく会話がなかった。
「……腹減った」
突然、一ノ瀬くんが呟いた。
「また?」
「昼から何も食ってないんですよ」
「ちゃんと食べなよ」
「主任にだけは言われたくないです」
「私は食べた」
「何を?」
「……サンドイッチ」
「何時に?」
「十六時」
「それ昼飯じゃないですよ」
「うるさいな」
一階に着く。
エントランスを出ると、夜の東京の空気が少し冷たかった。
「じゃあ俺、コンビニ寄って帰ります」
「晩ご飯コンビニ?」
「この時間から作る気しないんで」
「自炊するの?」
「一応。簡単なのだけですけど」
「意外」
「俺を何だと思ってるんですか」
「ハンバーグであんなに喜ぶ二十四歳」
「まだ言うんですか、それ」
笑う。
「じゃ、お疲れさまでした」
「うん。お疲れさま」
一ノ瀬くんは駅とは反対側にあるコンビニへ歩いていく。
私は駅へ向かった。
同じ東京の夜。
同じ時間に仕事を終えて。
それぞれ別の方向へ帰っていく。
電車に乗り、空いた席に座る。
鞄からスマートフォンを取り出したところで、ふと今日のことを思い出した。
一人でやるのが当たり前だった仕事が、今日は少しだけ早く終わった。
理由を考えるまでもない。
一ノ瀬くんがいたからだ。
『一ノ瀬でよかった』
エレベーターで言われた言葉が頭に浮かぶ。
「……まだ言わない」
誰にも聞こえない声で呟いた。
でも。
ほんの少しだけ。
その言葉を言う日は、思っていたより近いのかもしれない。
神崎さんたちの結婚式まで、あと二週間。
ここまで来ると、時間の進み方がおかしくなる。
つい昨日まで一ヶ月あったような気がするのに、気づけば十四日。
確認事項は減るどころか、むしろ増えていた。
「席次、最終版確認しました」
「ありがとう。料理のアレルギー変更は?」
「宴会部に共有済みです」
「新婦側のご親族二名、到着時間変更になったからクロークにも伝えておいて」
「はい」
「あと――」
時計を見る。
二十時四十七分。
「……もうこんな時間」
婚礼部門の事務所を見渡す。
さっきまで何人もいたスタッフは、いつの間にかほとんど帰っていた。
「主任、私そろそろ上がります」
「うん。お疲れさま」
「主任は?」
「これ終わったら帰る」
「本当ですか?」
「本当」
「昨日も聞きました、それ」
「今日は本当だから」
後輩が疑わしそうな顔をする。
「無理しないでくださいね」
「分かってる」
「お疲れさまでした」
「お疲れさま」
扉が閉まる。
静かになった。
私は大きく息を吐き、再びパソコンへ向き直る。
神崎さんたちの当日進行表。
午前中は四十名での挙式。
午後から三百五十名規模の披露宴。
通常の婚礼より、スタッフの動きも複雑になる。
一つ間違えれば、全部がずれる。
「挙式終了が十一時四十分……」
披露宴会場への移動。
親族写真。
新婦のお色直し。
VIPの到着。
報道関係者の入館。
一つずつ時間を確認する。
「ここ、十五分じゃ厳しいな……」
「何がです?」
「うわっ」
思わず肩が跳ねた。
振り返る。
「……一ノ瀬くん」
「はい」
「びっくりさせないでよ」
「普通に入ってきただけですけど」
「声かけて」
「かけましたよ。二回」
「嘘」
「本当です」
一ノ瀬くんが笑いながら近づいてくる。
手にはファイルを持っていた。
「まだ帰らないんですか?」
「一ノ瀬くんこそ、なんでいるの?」
「神崎様の最終招待客リスト。営業側の確認終わったんで持ってきました」
机にファイルが置かれる。
「メールでいいのに」
「いると思ったんで」
「……私が?」
「はい」
「なんで?」
「この時間までいるかなって」
さらっと言って、向かいの椅子を引く。
「何してるんです?」
「当日の進行表」
「見てもいいですか?」
「見ても分からないでしょ」
「だから見るんじゃないですか」
「勉強熱心だね」
「使えるものは使わないと」
「また私を教材扱いしてる」
一ノ瀬くんが笑う。
私は進行表を向けた。
「ここ。挙式が終わったあと、親族写真を撮るでしょ?」
「はい」
「そのあと新郎新婦は披露宴の準備。でも同じ時間にVIPが到着し始める」
「なるほど」
「だからスタッフを完全に分けないと回らない」
「営業側でVIP対応引き取れますよ」
「え?」
「受付までですよね?」
「そうだけど」
「じゃあ俺と営業二人でやります。その分、婚礼スタッフを新郎新婦側に回してください」
私は一ノ瀬くんを見る。
「できる?」
「招待客の会社名と役職は全部入ってます」
「全部?」
「神崎様の案件ですよ? 間違えたら怖いんで覚えました」
「……すご」
「今ちょっと褒めました?」
「ちょっとだけ」
「じゃあやります」
「お願い」
進行表を書き換える。
一ノ瀬くんはまだ帰らない。
「一ノ瀬くん」
「はい?」
「もう大丈夫だよ」
「何がです?」
「リスト持ってきただけでしょ?」
「そうですけど」
「じゃあ帰りな」
「水野主任は?」
「これ終わったら」
「それ、何時です?」
「……二十二時くらい?」
一ノ瀬くんが進行表を見る。
「俺でもできることあります?」
「ないよ」
「本当に?」
「婚礼の進行表だよ?」
「じゃあ教えてください」
「え?」
「できるところだけやります」
「いや、でも」
「二人でやった方が早いでしょ」
そう言って、当たり前のように隣の席へ移動してくる。
「これ何です?」
「送賓準備」
「送賓?」
「披露宴終わったあと、新郎新婦がゲストを見送る準備」
「ああ。なるほど」
「こっちは?」
「記念品搬入確認」
「これは俺でもできます?」
「それならできる」
「じゃあやります」
本当に始めた。
分からないことだけ聞く。
「この確認先、宴会部で合ってます?」
「そこは婚礼」
「了解です」
「こっちは?」
「宴会部」
「なるほど」
数分後。
「水野主任、これ前に教えてもらったやつですよね?」
「どれ?」
「親族写真の前に、新婦のドレス確認入れるやつ」
「あ、そう」
「じゃあここ五分じゃ足りないですよね」
私は画面を見る。
「……本当だ」
「十分?」
「十五分ほしい」
「じゃあその前の移動を五分詰めれば」
「できる。そこ直して」
「了解です」
気づけば私は、自分の作業に集中していた。
隣に一ノ瀬くんがいることが、いつの間にか普通になっていた。
「水野主任」
「ん?」
「終わりました」
「え?」
時計を見る。
二十一時三十二分。
「……早」
「一人だったら何時までやるつもりだったんです?」
「二十二時半くらい」
「一時間浮きましたね」
「全部一ノ瀬くんのおかげではないけどね」
「素直じゃないなぁ」
「でも」
私は完成した進行表を見る。
「助かった。ありがとう」
一ノ瀬くんが止まった。
そして、ゆっくりこちらを見る。
「……ついに?」
「なにが?」
「『一ノ瀬でよかった』」
「言ってない」
「今ほぼ言ったじゃないですか」
「助かったって言っただけ」
「同じようなもんでしょ」
「全然違う」
「厳しいなぁ」
笑いながら資料を片付ける。
事務所にはもう、私たちしかいなかった。
昼間は電話や話し声が絶えない場所なのに、夜になると別の場所みたいに静かだ。
「疲れた」
思わず背伸びをする。
「主任って、いつもこんな時間までいるんですか?」
「婚礼前はね」
「十一年ずっと?」
「まあ、毎日じゃないけど」
「すげえな……」
「またそれ?」
「だって普通にすごくないですか?」
一ノ瀬くんが椅子の背もたれに体を預ける。
「この仕事、好きなんですね」
少しだけ考えた。
「うん」
たぶん、迷う必要なんてなかった。
「好きじゃなかったら、十一年もやってないよ」
「なんでブライダルだったんです?」
「面接?」
「気になっただけです」
また質問。
でも。
不思議と嫌じゃない。
「結婚式って、たった一日じゃん」
「はい」
「準備は何ヶ月もするのに、本番は数時間で終わる」
「確かに」
「でも、その数時間のことを何十年経っても覚えてる人がいるんだよ」
一ノ瀬くんが黙って聞いている。
「昔担当した新婦さんが、何年かしてホテルに遊びに来てくれたことがあってね」
「へえ」
「子ども連れて。『今でも結婚式の話します』って言ってくれたの」
思い出すだけで、少し嬉しくなる。
「そのとき、ああ、この仕事やっててよかったなって思った」
「……なるほど」
「だから続いてるのかも」
一ノ瀬くんがしばらく何も言わなかった。
「なに?」
「いや」
少し笑う。
「俺、今回この仕事できてよかったです」
「営業なのに?」
「だからですよ」
「どういうこと?」
「営業だけだったら、契約取ったところで俺の仕事ってほとんど終わるじゃないですか」
一ノ瀬くんが完成した進行表を見る。
「でも今は、その先が見えるから」
「その先?」
「契約した結婚式が、どうやって作られていくのか」
少しだけ楽しそうに話す。
「最初は正直、三百五十人の大型案件取れた、くらいに思ってました」
「営業だね」
「でしょ?」
「うん」
「でも今は、ちゃんと成功してほしいです」
その言葉が、少し嬉しかった。
「じゃあ最後まで頑張って」
「もちろん」
「まだ二週間あるよ」
「質問しまくります」
「ほどほどにして」
「それは無理です」
二人で笑った。
時計を見る。
「帰ろっか」
「ですね」
電気を消し、二人で事務所を出る。
エレベーターの中。
さすがに疲れたのか、しばらく会話がなかった。
「……腹減った」
突然、一ノ瀬くんが呟いた。
「また?」
「昼から何も食ってないんですよ」
「ちゃんと食べなよ」
「主任にだけは言われたくないです」
「私は食べた」
「何を?」
「……サンドイッチ」
「何時に?」
「十六時」
「それ昼飯じゃないですよ」
「うるさいな」
一階に着く。
エントランスを出ると、夜の東京の空気が少し冷たかった。
「じゃあ俺、コンビニ寄って帰ります」
「晩ご飯コンビニ?」
「この時間から作る気しないんで」
「自炊するの?」
「一応。簡単なのだけですけど」
「意外」
「俺を何だと思ってるんですか」
「ハンバーグであんなに喜ぶ二十四歳」
「まだ言うんですか、それ」
笑う。
「じゃ、お疲れさまでした」
「うん。お疲れさま」
一ノ瀬くんは駅とは反対側にあるコンビニへ歩いていく。
私は駅へ向かった。
同じ東京の夜。
同じ時間に仕事を終えて。
それぞれ別の方向へ帰っていく。
電車に乗り、空いた席に座る。
鞄からスマートフォンを取り出したところで、ふと今日のことを思い出した。
一人でやるのが当たり前だった仕事が、今日は少しだけ早く終わった。
理由を考えるまでもない。
一ノ瀬くんがいたからだ。
『一ノ瀬でよかった』
エレベーターで言われた言葉が頭に浮かぶ。
「……まだ言わない」
誰にも聞こえない声で呟いた。
でも。
ほんの少しだけ。
その言葉を言う日は、思っていたより近いのかもしれない。