十年前なら、あなたを好きになれたのに。―10歳下の後輩に本気で恋をしました―

第8話 一ノ瀬でよかった

第8話 一ノ瀬でよかった
結婚式まで、あと三日。
ここまで来れば、もう大きな変更はない。
――はずだった。
「水野主任」
午前十時過ぎ。
後輩に呼ばれて顔を上げる。
「神崎様の件で、営業部からお電話です」
「営業?」
嫌な予感がした。
内線を取る。
「はい、水野です」
『水野主任、俺です』
一ノ瀬くんだった。
「どうしたの?」
『ちょっと面倒なことになりました』
「……ちょっと?」
『かなり、かもしれません』
「どっち?」
『かなりです』
「何があったの?」
一瞬の間。
『招待客、増えます』
「何人?」
『六名』
六人。
数字だけなら、それほど大きな変更ではない。
三百五十人が三百五十六人になるだけ。
でも。
「誰?」
『神崎グループの海外取引先です。昨日来日が決まったらしくて、会長からぜひ披露宴に招待したいと』
「……VIP?」
『かなり』
思わず目を閉じた。
「一ノ瀬くん」
『はい』
「三日前なんだけど」
『俺もさっき同じこと言いました』
「料理は?」
『まだ確認してません』
「席は?」
『これからです』
「通訳」
『必要です』
「警備」
『追加になると思います』
「控室」
『必要です』
「…………」
『水野主任?』
「ちょっと待って。今、現実を受け入れてる」
電話の向こうで一ノ瀬くんが笑った。
『俺も五分前にやりました』
「笑い事じゃないよ」
『はい』
頭を切り替える。
席を六つ増やすだけでは済まない。
重要な取引先なら末席に座らせるわけにはいかない。
席次を変更すれば、その周囲のゲストにも影響する。
料理。
アレルギー。
通訳。
警備。
控室。
当日の導線。
確認することが一気に増えた。
「分かった。一ノ瀬くん、今から来られる?」
『五分で行きます』
本当に五分後。
一ノ瀬くんが婚礼部門へ入ってきた。
「詳細です」
資料を受け取る。
六名全員、海外企業の役員。
うち二名は神崎グループにとって特に重要な取引先らしい。
「到着時間は?」
「確認中です」
「日本語は?」
「二人は話せます。残り四人は通訳が必要です」
「じゃあ最低二人は欲しい」
「俺もそう思ってます」
「控室は?」
「VIPルーム一つ追加できるか確認します」
私は席次表を広げた。
「六席ならここを動かせば入る。でも、このテーブルを丸ごと調整しないと」
「神崎側への説明、俺がやります」
「料理は私から宴会部に確認する」
「警備と通訳も俺が」
「できる?」
口にしてから。
一ノ瀬くんが私を見る。
「水野主任」
「なに?」
「そろそろ信用してくださいよ」
「……」
「神崎家との窓口は俺です。海外ゲストの情報も営業側の方が早い」
確かにそうだ。
「通訳、警備、控室、神崎様側との調整。全部俺がやります」
「でも三日しか」
「三日ある、でしょ?」
言われてしまった。
一ノ瀬くんは笑っている。
でも、その目は真剣だった。
三ヶ月前。
二十四歳。
入社二年目。
大型婚礼の経験なし。
不安しかなかった。
今は。
「……分かった」
私は資料を一ノ瀬くんへ渡した。
「任せた」
一ノ瀬くんが一瞬だけ止まる。
「はい」
いつもより少しだけ短い返事だった。
「婚礼側は私がやる。何かあったらすぐ連絡して」
「了解です」
「無理なら無理って言って」
「それも了解です」
「あと――」
「水野主任」
「なに?」
「早くやりましょう。三日しかないんで」
「さっき三日あるって言ったじゃん」
「気持ちは三日ある。現実は三日しかないです」
「どっちなのよ」
一ノ瀬くんが笑いながら営業部へ戻っていった。
そこからは慌ただしかった。
宴会部へ料理の追加を依頼。
アレルギー情報はまだ届いていない。
席次を組み直す。
サービススタッフの配置変更。
VIPの導線を確認。
披露宴の進行そのものには影響が出ないよう、一つずつ調整する。
昼食を取る暇もなかった。
午後一時二十六分。
パソコンにメールが届く。
差出人:一ノ瀬 悠 <y.ichinose@granciel-tokyo.co.jp>
宛先:水野 千尋 <c.mizuno@granciel-tokyo.co.jp>
件名:【至急/神崎様婚礼】海外ゲスト6名対応状況
水野主任
お疲れさまです。
海外ゲスト6名について、現時点の対応状況を共有します。
【対応済み】
・通訳2名確保
・VIP控室1室追加
・警備担当へ6名分の情報共有
・神崎様側へ席次変更の可能性を説明済み
・ホテル到着予定時刻確認済み
 当日11:30頃予定
【確認中】
・食物アレルギー
・当日の車両情報
婚礼側では席次および料理の調整をお願いします。
追加で必要な対応があれば、こちらで動きます。
よろしくお願いいたします。
――――――――――
ホテル・グランシエル東京
営業部
一ノ瀬 悠
内線:314
――――――――――
「……早っ」
思わず声が出た。
「どうしました?」
後輩がこちらを見る。
「なんでもない」
午前中に話してから、まだ三時間も経っていない。
通訳まで二人確保している。
私は返信する。
件名:Re:【至急/神崎様婚礼】海外ゲスト6名対応状況
一ノ瀬さん
お疲れさまです。
確認しました。
婚礼側は下記対応中です。
・席次変更
・料理6名分追加
・サービススタッフ配置変更
・披露宴会場内の導線確認
到着が11:30の場合、挙式ゲストの移動時間と重なる可能性があります。
VIP控室への案内は東側エレベーターを使用してください。
また、アレルギー情報が分かり次第共有をお願いします。
よろしくお願いいたします。
水野
送信。
その十二分後。
差出人:一ノ瀬 悠 <y.ichinose@granciel-tokyo.co.jp>
件名:Re:【至急/神崎様婚礼】海外ゲスト6名対応状況
水野主任
お疲れさまです。
承知しました。
東側エレベーター使用で警備担当にも共有します。
アレルギー情報ですが、先ほど回答がありました。
6名とも特別対応不要です。
料理は通常メニューでお願いします。
一ノ瀬
「……ほんと早いな」
今度は小さく笑った。
夕方には、席次が完成した。
料理も問題なし。
サービススタッフの配置も変更できた。
午後六時を過ぎた頃。
「水野主任」
聞き慣れた声がした。
顔を上げる。
一ノ瀬くんが立っていた。
朝より少しだけ疲れた顔をしている。
「終わった?」
「全部」
「通訳は?」
「確定」
「警備」
「確定」
「車両」
「確定」
「神崎家」
「説明済み」
「……早いね」
「営業なんで」
「久しぶりに聞いた、それ」
「便利なんで」
一ノ瀬くんが私の机を見る。
「婚礼側は?」
「終わった」
「全部?」
「全部」
一ノ瀬くんが息を吐いた。
「よかったぁ……」
椅子に座る。
「余裕そうだったじゃん」
「だから顔に出してないだけですって」
「今日はちょっと出てるよ」
「疲れました」
「私も」
二人で顔を見合わせる。
三日前。
突然増えた六人のVIP。
朝はどうなることかと思った。
でも。
一ノ瀬くんに任せてから、一度も不安にならなかった。
通訳はどうなっただろう。
神崎家への説明は大丈夫だろうか。
警備は。
控室は。
途中から、そんなことすら考えていなかった。
任せたから。
任せられると思ったから。
「一ノ瀬くん」
「はい?」
「一ノ瀬でよかった」
一ノ瀬くんが止まった。
「…………」
「なに?」
「今、なんて?」
「一回しか言わない」
「いやいや、もう一回お願いします」
「嫌」
「待ってください。心の準備できてなかった」
「知らないよ」
「録音しとけばよかった……」
「調子乗るなら取り消すよ」
「それはなしです」
一ノ瀬くんが笑う。
私も笑った。
でも。
「ありがとうございます」
一ノ瀬くんが、少しだけ真面目な声で言った。
「何が?」
「信用してくれて」
私は一瞬、言葉に詰まった。
「……仕事だから」
「はい」
「できると思った人に任せただけ」
「それが嬉しいんです」
「そう」
「最初、めちゃくちゃ不安そうでしたもんね」
「そりゃそうでしょ。二年目だったし」
「今は?」
私は一ノ瀬くんを見る。
「聞かなくても分かるでしょ」
「言葉にしてほしいタイプなんで」
「めんどくさい」
「よく言われます」
「嘘。絶対言われてないでしょ」
「初めて言われました」
「ほら」
また笑う。
結婚式前日。
披露宴会場には、三百五十六名分の席が並んでいた。
テーブルクロス。
装花。
グラス。
カトラリー。
一つ一つが綺麗に整えられている。
まだ誰もいない会場は、不思議なくらい静かだった。
「すごいですね」
隣で一ノ瀬くんが呟く。
「うん」
「三ヶ月半前、これ本当にできるのかと思ってました」
「私も」
「え?」
「なに?」
「水野主任でも思うんですね」
「当たり前でしょ」
「主任なら最初から余裕なのかと」
「そんなわけないじゃん」
「顔に出さないだけ?」
「そう」
「あ、俺のやつ」
「便利だから」
「パクられた」
二人で笑う。
会場の奥。
新郎新婦が座る高砂を見る。
紗季さんが望んだ、小さな挙式。
神崎家が望んだ、大きな披露宴。
最初は両立なんて難しいと思った。
でも明日。
その両方が形になる。
「水野主任」
「ん?」
一ノ瀬くんが会場を見たまま言った。
「明日、成功させましょう」
私は隣を見る。
三ヶ月半前。
この人と組むと聞いて、不安だった。
若い。
経験がない。
大丈夫なのかと思った。
でも今は。
明日、この人が隣にいることを心強いと思っている。
「うん」
私は頷いた。
「絶対に」
明日。
私たちが三ヶ月半かけて作ってきた一日が、始まる。
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