来週も、このケーキありますか?
第02話 金曜日の理由 ~桜井美緒~
金曜日の放課後は、私にとって少しだけ特別な時間だった。授業が終わると、友達と一緒に駅へ向かう日もあるし、そのまま家へ帰る日もある。でも金曜日だけは、駅前の商店街へ向かう。学校から歩いて十分ほどの場所にある、小さなケーキ屋さん。パティスリー・リラ。
ガラス越しに見えるショーケースには、色とりどりのケーキが並んでいて、店の前まで来ると、いつも甘い香りがする。私はその匂いを胸いっぱいに吸い込んでから、扉についたベルを鳴らす。店の中に入ると、レジの向こうに高瀬くんがいる。
最初はただの店員さんだった。でも最近は、彼がいることを確認すると、少しだけ安心する自分がいる。今日も来ている。そんなことを思うだけで、病院へ向かう足取りがほんの少し軽くなる。だから私は、金曜日が嫌いじゃなかった。これから待っている時間のことを考えれば、なおさらだった。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは」
高瀬くんが笑う。私はショーケースの前へ行き、いつもの場所を見る。モンブランは今日も残っている。栗のクリームの形まで先週と変わらない。それを確認すると、私は胸の奥にあった小さな緊張をようやく手放せる気がした。もちろん、ケーキが売り切れていたところで、大きな問題になるわけじゃない。そう思う自分もいる。でも私にとって、このモンブランはただのお菓子ではなかった。弟の春樹が好きだからだ。病院へ持っていけば、春樹はいつも嬉しそうな顔をする。最近は食べられるものが少なくなっているから、全部を食べられない日もある。それでも、箱を開けた瞬間に見せる笑顔だけは昔と変わらない。その顔を見たくて、私は毎週ここへ来る。高瀬くんにはまだ、そのことを話していない。話せばきっと聞いてくれると思う。でも、病院のことを話してしまえば、今までのように何も考えず笑うことができなくなりそうで、それが少し怖かった。
「モンブラン、一つお願いします」
「はい。いつものですね」
「うん」
高瀬くんは、私が頼む前から分かっていたようにモンブランを取り出してくれる。そんな些細なことが、なぜか嬉しい。私はカウンターの前で待ちながら、彼の手元を眺めていた。箱を開ける音、保冷剤を入れる音、蓋を閉じる音。毎週聞いているはずなのに、今日は少し違って聞こえる。
先週、学校でも彼を見かけたからだ。同じ高校だったなんて知らなかった。教室も違うし、廊下ですれ違っても気づかないくらいなのに、店では何度も顔を合わせている。そんなことを考えていると、高瀬くんが箱を差し出してきた。
「今日は学校、疲れた?」
「ちょっとだけ。数学の小テストがあったから」
「うわっ、それは嫌だな」
「高瀬くん、数学苦手?」
「普通。普通って言ってるやつは、だいたい苦手だけど」
「ふふふっ」
思わず笑ってしまった。高瀬くんと話すと、不思議なくらい肩の力が抜ける。学校では、春樹のことを知っている友達もいる。心配してくれることも嬉しい。でも、病院や病気の話をしていると、どうしても自分まで苦しくなってしまう。
その点、高瀬くんは何も知らない。だから私は、普通の高校生として話せる。テストのことや、先生のこと、好きなケーキのこと。そんな当たり前の話をしている時間が、今の私には大切だった。会計を済ませて箱を受け取ると、私はいつものように胸の前で抱える。箱の中には春樹が好きなモンブランが一つ。これを持って病院へ行けば、今日も春樹に会える。そう思うと嬉しいはずなのに、最近は病院へ近づくほど胸が苦しくなる。それでも私は、笑顔を作って高瀬くんを見る。
「じゃあ、また来週」
「うん。また来週」
その言葉を交わして店を出る。商店街の空は、もう夕方の色になっていた。私はケーキの箱を落とさないように抱え直し、駅とは反対方向へ歩き出す。病院までは、ここから電車で二駅。いつもの道なのに、今日は少しだけ足が重かった。それでも、右手にはモンブランがある。そして病院には春樹が待っている。私はそのことだけを考えながら歩いた。
————
病院の個室へ入ると、窓際のベッドで春樹が眠っていた。白いカーテンが夕方の風でわずかに揺れ、窓から差し込んだ光が床の上に細長く伸びている。以前なら、私が入ってきた気配だけで春樹は顔を上げていた。でも今は、眠っている時間が長くなった。私は音を立てないように椅子へ座り、持ってきたケーキの箱をテーブルへ置く。少し待っていると、春樹がゆっくり目を開けた。
「お姉ちゃん?」
「あっ、起こしちゃったかな?」
「うん。今日、金曜日?」
「そうだよ」
「じゃあ……」
「うん。モンブラン」
春樹の顔に笑顔が浮かんだ。その笑顔を見た瞬間、私は胸がいっぱいになった。昔なら、こんなことで泣きそうになることなんてなかった。学校から帰れば春樹がいて、くだらないことで喧嘩をして、一緒にテレビを見て、冷蔵庫に入っているプリンをどちらが食べるかで揉めた。そんな毎日がずっと続くと思っていた。
でも今は違う。病室のベッドに横たわる春樹を見ていると、普通だった日々がどれほど大切だったのか思い知らされる。私はそんなことを考えないようにして、箱を開けた。甘い栗の香りが広がると、春樹は嬉しそうに目を細めた。
「食べられそう?」
「ちょっとなら」
「無理しちゃ駄目だよ」
「分かってるって」
以前と同じようなやり取りだった。だから私は笑う。春樹も笑った。ほんの少しだけモンブランを口にすると、春樹はゆっくり噛んでから、満足そうに頷いた。その姿を見ているうちに、私の頭の中へ昼間のことが浮かんできた。
高瀬くんと話したこと。学校のテストの話で笑ったこと。あの店に行けば、高瀬くんがいること。病院とは関係のない話をしている時間が、自分にとってどれだけ大切なのか、そこで初めて気づいた気がした。私は春樹の隣に座りながら、いつかこの時間も終わってしまうのだろうかと考える。そんな未来を想像した瞬間、怖くなって、すぐに考えるのをやめた。
「お姉ちゃん」
「なに?」
「来週も、これ食べたい」
「来週?」
「うん。来週もモンブラン」
「じゃあ、また買ってくる」
「本当? 約束?」
「約束」
小指を差し出すと、春樹も弱々しく指を絡めてくる。昔から何度もしてきた約束だった。明日一緒に遊ぶ約束も、帰りにアイスを買う約束も、次の休みに映画を見る約束もあった。今度の約束も、きっと同じように守れる。私はそう思いたかった。
春樹の指を握りながら、来週もこの病室へ来る自分を想像する。金曜日になったらケーキを買って、病院へ来て、春樹と一緒にモンブランを食べる。それが当たり前に続いていく。そう信じたかった。病室の窓から見える空が少しずつ暗くなっていく。私は帰る時間になっても、なかなか椅子から立ち上がれなかった。春樹が眠ったあとも、その小指の感触が残っている。病室を出て廊下を歩きながら、私は何度も自分に言い聞かせた。
来週も来る。
絶対に来る。
そして、その帰り道に私はもう一度だけ、パティスリー・リラの前を通った。店の中では高瀬くんが閉店作業をしている。ガラス越しに目が合うと、彼は気づいて手を振った。私は小さく手を振り返す。ほんの数秒の出来事だった。でも、その瞬間だけ、病院で感じていた重さが少し軽くなった。私は笑って、駅へ向かう。来週になれば、またここへ来られる。春樹との約束も、高瀬くんとの時間も、まだ続いていく。そう思いながら歩いていると、バッグの中の空箱が小さく揺れた。私はその音を聞きながら、来週の金曜日を待つことにした。
ガラス越しに見えるショーケースには、色とりどりのケーキが並んでいて、店の前まで来ると、いつも甘い香りがする。私はその匂いを胸いっぱいに吸い込んでから、扉についたベルを鳴らす。店の中に入ると、レジの向こうに高瀬くんがいる。
最初はただの店員さんだった。でも最近は、彼がいることを確認すると、少しだけ安心する自分がいる。今日も来ている。そんなことを思うだけで、病院へ向かう足取りがほんの少し軽くなる。だから私は、金曜日が嫌いじゃなかった。これから待っている時間のことを考えれば、なおさらだった。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは」
高瀬くんが笑う。私はショーケースの前へ行き、いつもの場所を見る。モンブランは今日も残っている。栗のクリームの形まで先週と変わらない。それを確認すると、私は胸の奥にあった小さな緊張をようやく手放せる気がした。もちろん、ケーキが売り切れていたところで、大きな問題になるわけじゃない。そう思う自分もいる。でも私にとって、このモンブランはただのお菓子ではなかった。弟の春樹が好きだからだ。病院へ持っていけば、春樹はいつも嬉しそうな顔をする。最近は食べられるものが少なくなっているから、全部を食べられない日もある。それでも、箱を開けた瞬間に見せる笑顔だけは昔と変わらない。その顔を見たくて、私は毎週ここへ来る。高瀬くんにはまだ、そのことを話していない。話せばきっと聞いてくれると思う。でも、病院のことを話してしまえば、今までのように何も考えず笑うことができなくなりそうで、それが少し怖かった。
「モンブラン、一つお願いします」
「はい。いつものですね」
「うん」
高瀬くんは、私が頼む前から分かっていたようにモンブランを取り出してくれる。そんな些細なことが、なぜか嬉しい。私はカウンターの前で待ちながら、彼の手元を眺めていた。箱を開ける音、保冷剤を入れる音、蓋を閉じる音。毎週聞いているはずなのに、今日は少し違って聞こえる。
先週、学校でも彼を見かけたからだ。同じ高校だったなんて知らなかった。教室も違うし、廊下ですれ違っても気づかないくらいなのに、店では何度も顔を合わせている。そんなことを考えていると、高瀬くんが箱を差し出してきた。
「今日は学校、疲れた?」
「ちょっとだけ。数学の小テストがあったから」
「うわっ、それは嫌だな」
「高瀬くん、数学苦手?」
「普通。普通って言ってるやつは、だいたい苦手だけど」
「ふふふっ」
思わず笑ってしまった。高瀬くんと話すと、不思議なくらい肩の力が抜ける。学校では、春樹のことを知っている友達もいる。心配してくれることも嬉しい。でも、病院や病気の話をしていると、どうしても自分まで苦しくなってしまう。
その点、高瀬くんは何も知らない。だから私は、普通の高校生として話せる。テストのことや、先生のこと、好きなケーキのこと。そんな当たり前の話をしている時間が、今の私には大切だった。会計を済ませて箱を受け取ると、私はいつものように胸の前で抱える。箱の中には春樹が好きなモンブランが一つ。これを持って病院へ行けば、今日も春樹に会える。そう思うと嬉しいはずなのに、最近は病院へ近づくほど胸が苦しくなる。それでも私は、笑顔を作って高瀬くんを見る。
「じゃあ、また来週」
「うん。また来週」
その言葉を交わして店を出る。商店街の空は、もう夕方の色になっていた。私はケーキの箱を落とさないように抱え直し、駅とは反対方向へ歩き出す。病院までは、ここから電車で二駅。いつもの道なのに、今日は少しだけ足が重かった。それでも、右手にはモンブランがある。そして病院には春樹が待っている。私はそのことだけを考えながら歩いた。
————
病院の個室へ入ると、窓際のベッドで春樹が眠っていた。白いカーテンが夕方の風でわずかに揺れ、窓から差し込んだ光が床の上に細長く伸びている。以前なら、私が入ってきた気配だけで春樹は顔を上げていた。でも今は、眠っている時間が長くなった。私は音を立てないように椅子へ座り、持ってきたケーキの箱をテーブルへ置く。少し待っていると、春樹がゆっくり目を開けた。
「お姉ちゃん?」
「あっ、起こしちゃったかな?」
「うん。今日、金曜日?」
「そうだよ」
「じゃあ……」
「うん。モンブラン」
春樹の顔に笑顔が浮かんだ。その笑顔を見た瞬間、私は胸がいっぱいになった。昔なら、こんなことで泣きそうになることなんてなかった。学校から帰れば春樹がいて、くだらないことで喧嘩をして、一緒にテレビを見て、冷蔵庫に入っているプリンをどちらが食べるかで揉めた。そんな毎日がずっと続くと思っていた。
でも今は違う。病室のベッドに横たわる春樹を見ていると、普通だった日々がどれほど大切だったのか思い知らされる。私はそんなことを考えないようにして、箱を開けた。甘い栗の香りが広がると、春樹は嬉しそうに目を細めた。
「食べられそう?」
「ちょっとなら」
「無理しちゃ駄目だよ」
「分かってるって」
以前と同じようなやり取りだった。だから私は笑う。春樹も笑った。ほんの少しだけモンブランを口にすると、春樹はゆっくり噛んでから、満足そうに頷いた。その姿を見ているうちに、私の頭の中へ昼間のことが浮かんできた。
高瀬くんと話したこと。学校のテストの話で笑ったこと。あの店に行けば、高瀬くんがいること。病院とは関係のない話をしている時間が、自分にとってどれだけ大切なのか、そこで初めて気づいた気がした。私は春樹の隣に座りながら、いつかこの時間も終わってしまうのだろうかと考える。そんな未来を想像した瞬間、怖くなって、すぐに考えるのをやめた。
「お姉ちゃん」
「なに?」
「来週も、これ食べたい」
「来週?」
「うん。来週もモンブラン」
「じゃあ、また買ってくる」
「本当? 約束?」
「約束」
小指を差し出すと、春樹も弱々しく指を絡めてくる。昔から何度もしてきた約束だった。明日一緒に遊ぶ約束も、帰りにアイスを買う約束も、次の休みに映画を見る約束もあった。今度の約束も、きっと同じように守れる。私はそう思いたかった。
春樹の指を握りながら、来週もこの病室へ来る自分を想像する。金曜日になったらケーキを買って、病院へ来て、春樹と一緒にモンブランを食べる。それが当たり前に続いていく。そう信じたかった。病室の窓から見える空が少しずつ暗くなっていく。私は帰る時間になっても、なかなか椅子から立ち上がれなかった。春樹が眠ったあとも、その小指の感触が残っている。病室を出て廊下を歩きながら、私は何度も自分に言い聞かせた。
来週も来る。
絶対に来る。
そして、その帰り道に私はもう一度だけ、パティスリー・リラの前を通った。店の中では高瀬くんが閉店作業をしている。ガラス越しに目が合うと、彼は気づいて手を振った。私は小さく手を振り返す。ほんの数秒の出来事だった。でも、その瞬間だけ、病院で感じていた重さが少し軽くなった。私は笑って、駅へ向かう。来週になれば、またここへ来られる。春樹との約束も、高瀬くんとの時間も、まだ続いていく。そう思いながら歩いていると、バッグの中の空箱が小さく揺れた。私はその音を聞きながら、来週の金曜日を待つことにした。