来週も、このケーキありますか?

第03話 最後のモンブラン ~高瀬雄介~

 金曜日の午後六時を過ぎた。俺はレジの前に立ちながら、入口のガラス扉を何度も見ていた。いつもなら、この時間になると小さなベルが鳴って、美緒が店へ入ってくる。制服姿で鞄を抱えて、少し疲れた顔でショーケースを眺め、それから決まってモンブランを一つ注文する。
 先週までは、それが当たり前の光景だった。だから今日も、そろそろ来るだろうと思っていた。ショーケースの中には、モンブランが三つ残っている。そのうち一つを見るたびに、美緒が来たら渡そうと考えてしまう。六時半を過ぎてもベルは鳴らず、七時になっても扉は開かなかった。
 俺はレジを拭くふりをしながら外を眺める。商店街には人が行き交っているのに、探している姿だけが見つからない。今日は休みなのかもしれない。そう思えば簡単な話なのに、胸の奥には嫌な予感が残っていた。

「高瀬、さっきから何をそんなに見てるんだい?」

 厨房から出てきた店長が、俺の視線の先を追う。

「えっと……毎週来る子がいるんです。今日も来ると思ってたんですけど」

「毎週モンブランを買っていく子か?」

「そうです。覚えてたんですね」

「そりゃ覚えるだろ。毎週同じ曜日、同じ時間、同じケーキだからな」

 店長はそう言って笑ったが、俺は笑えなかった。毎週、同じ時間に来ることが、当たり前だと思っていたからだ。美緒が来ないだけで、こんなにも店が広く感じるなんて知らなかった。
 閉店時間が近づいても、結局ベルは鳴らなかった。俺は残ったモンブランを冷蔵庫へ片づけながら、明日は来るかもしれないと思う。金曜日に来られなかったなら、次の週には来るかもしれない。そうやって自分を納得させようとした。

 ところが、週が明けても美緒は学校へ来なかった。月曜日も、火曜日も、水曜日も姿を見ない。俺は休み時間になるたび廊下へ出て、別のクラスの前まで歩いていく。友達から見れば、かなり怪しい行動だったと思う。それでも、姿を見つけられないまま時間だけが過ぎていった。木曜日の昼休み、俺が教室へ戻ろうとしていると、廊下で同じ学年の男子に声を掛けられた。美緒と同じクラスの生徒だった。

「高瀬、お前、桜井探してる?」

「え? なんで知ってるんだよ」

「この前から何回も三組の前を通ってるだろ」

「……見てたのか」

「そりゃ目立つって。桜井なら、今週ずっと休んでるぞ」

「体調悪いの?」

「それが、詳しくは知らない。でも、入院してる弟がかなり悪いらしいって話は聞いた」

 その言葉を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。弟が入院している。その言葉が、これまでの記憶と一つずつ繋がっていく。毎週金曜日に買っていたモンブラン。来週もあるかと何度も確認していたこと。ケーキを受け取ったあと、すぐに病院へ向かっていた姿。そして、モンブランを見るときだけ少し寂しそうに笑っていたこと。俺はどうして気づかなかったのだろうと思った。
 いや、気づけるはずがなかった。美緒は何も話していなかったし、俺も聞かなかった。聞けばよかったという後悔が胸に残る。もっと早く知っていれば何かできたのかもしれない。そんな考えが浮かんだところで、自分には何もできないという現実が重くのしかかった。

 
 その日のアルバイトでも、美緒は来なかった。午後六時を過ぎ、ショーケースの前に立っても、モンブランを買う人はいない。俺はケーキを眺めながら、あの日の美緒の言葉を思い出していた。

『これ、来週もありますか?』

 あのとき、俺はただ商品の在庫を心配しているのだと思った。でも違ったのかもしれない。美緒は、来週も弟と一緒に食べられることを願っていたのだ。そう考えると、胸が苦しくなった。店長が隣へ来て、ショーケースの中を見ながら口を開く。

「高瀬」

「はい」

「桜井さんの弟さんのこと、聞いたよ」

「店長も?」

「少し前に、お母さんが店に来たんだ。病院へ持っていくからって、モンブランを買っていった」

「……そうだったんですか」

「最近は、あまり食べられないらしい」

 俺はモンブランを見つめた。自分が毎週何気なく箱へ入れていたケーキが、美緒にとってどれだけ大切なものだったのか、今になって分かった気がする。病気を治すことなんてできない。病院へ連れていくこともできない。それでも、俺にも何かできることがあるのではないか。そう考えたとき、ショーケースの中のモンブランが目に入った。

「店長」

「なんだ?」

「これ、少し小さくして作れませんか?」

「小さく?」

「弟さんが食べやすいように。クリームも少し軽くして、スポンジも柔らかくして……一口でも食べてもらえるようなものにしたいんです」

 店長は黙って俺を見る。それからショーケースへ視線を戻し、しばらく考えた。

「高瀬、作ってみるか?」

「いいんですか?」

「売り物じゃないなら、失敗しても構わない。ただし、材料は無駄にするなよ」

「分かりました」

 その言葉を聞いた瞬間、俺はエプロンの紐を締め直した。美緒がいつ戻ってくるのかは分からない。それでも、戻ってきたときに渡せるものを作っておきたかった。俺にできることは、それくらいしかない。そう思いながら、俺は厨房へ入った。


 閉店後の厨房には、昼間とは違う空気が流れていた。店内の照明が落とされ、厨房だけに明かりが残っている。俺は店長の横でスポンジを焼き、栗のクリームを作った。普段なら教えてもらった通りに作ればいいのに、今日は何度も手が止まる。春樹という名前の弟が、どんな顔で食べるのか想像できない。そもそも食べられるのかどうかも分からない。それでも、できるだけ柔らかく、少しでも食べやすくしたい。四回目の試作を前に、俺はクリームを見つめた。

「店長、これで大丈夫ですか?」

「味を見てみろ」

「俺が?」

「作った本人が食べなきゃ分からんだろ」

 スプーンで少しだけ口に入れる。栗の甘さが広がった。いつものモンブランより軽くしてあるから、口の中で溶けるような感じがする。

「どうだ?」

「……これなら、食べやすいと思います」

「なら、それでいい」

「本当に大丈夫ですかね」

「高瀬」

「はい」

「お前が今できることをやった。それで十分だ」

 その言葉を聞いて、俺は少しだけ顔を上げた。自分でも分かっている。
 俺は医者じゃない。
 病気を治せるわけでもない。
 春樹くんを元気にできるわけでもない。
 でも、ケーキを作ることならできる。それなら、それをやればいい。俺は完成した小さなモンブランを箱へ入れ、翌日の夕方、病院へ向かった。受付で美緒の名前を伝えると、病室を教えてもらえる。廊下を歩きながら、足が重くなる。突然来た俺を美緒はどう思うだろう。迷惑かもしれない。それでも、ここまで来た以上は帰れなかった。病室の前で一度だけ深呼吸をして、扉を叩く。

「はい」

「桜井さん?」

「……高瀬くん?」

 扉を開けた美緒は、店で見るよりずっと疲れた顔をしていた。髪も少し乱れている。俺を見ると驚いたように目を丸くし、それから立ち上がろうとする。

「どうしてここに?」

「ごめん。急に来て」

「ううん。どうしたの?」

「これ……春樹くんに」

 俺は箱を差し出した。美緒は箱と俺の顔を交互に見る。

「これ、モンブラン?」

「うん。店長と一緒に作った」

「どうして……」

「春樹くん、モンブラン好きなんだろ?」

 美緒の目が揺れた。何か言おうとしているのに、声が出てこない。俺はその様子を見て、来てよかったのかもしれないと思った。

「食べられるか分からないけど……一口でも食べられたらと思って」

「……ありがとう」

 美緒が箱を開ける。栗の香りが広がった瞬間、ベッドから小さな声が聞こえた。

「お姉ちゃん?」

「春樹、起きたの?」

「なんか、甘い匂いする」

「高瀬くんが持ってきてくれたの」

「高瀬くん?」

 春樹くんがこちらを見る。俺は少し緊張しながら頭を下げた。

「初めまして。高瀬雄介です」

「ケーキ屋さんのお兄ちゃん?」

「そう。お姉ちゃんが毎週来てくれてる店で働いてる」

「じゃあ、モンブランのお兄ちゃんだ」

「……その呼び方、ちょっと恥ずかしいな」

 春樹くんが笑った。その笑顔を見た瞬間、俺の胸にあった緊張が少しだけほどけた。美緒も笑っている。俺はその二人を見ながら、作ってきたケーキを春樹くんの前へ置いた。美緒が小さく切り分け、春樹くんの口元へ運ぶ。

「食べられそう?」

「うん」

「無理しないでね」

「分かってるって」

 春樹くんが一口食べる。すぐには何も言わなかった。俺は息を止めるようにして、その顔を見つめる。やがて春樹くんがゆっくり目を開けた。

「おいしい」

「本当?」

「うん。栗の味がする」

「よかった……」

 美緒の声が震えた。俺は何も言わずに二人を見ていた。春樹くんはもう一口食べると、嬉しそうに笑った。

「お姉ちゃん、いつものよりこっちがいい」

「そう?」

「うん。もう一個食べたい」

「駄目。今日は一個だけ」

「えー」

「また今度ね」

「じゃあ、来週」

 その言葉に、美緒の手が止まった。

「……来週?」

「うん。来週も食べたい」

「じゃあ……また買ってくる」

「約束?」

「約束」

 美緒が春樹くんの小指に自分の小指を絡める。俺はその光景を見ながら、胸の奥が熱くなるのを感じていた。こんな小さな約束が、二人にとってどれほど大切なのかは分からない。それでも、来週もモンブランを作ろうと思った。春樹くんがまた笑えるように、美緒がまた笑えるように。

 しばらくして春樹くんが眠ると、美緒はベッドの横で俯いた。俺は何を言えばいいのか分からず、少し離れた場所で立っていた。

「高瀬くん」

「うん」

「来てくれて、本当にありがとう」

「俺はケーキを持ってきただけだから」

「それでも嬉しかった」

「……そっか」

「春樹、最近あまり食べられなかったの。でも今日は、ちゃんと笑ってくれた」

 美緒は涙を拭いながら笑った。俺はその顔を見て、何もできない自分が悔しくなった。それでも、今日この時間だけは、春樹くんに笑ってもらえた。それだけを大切にしようと思った。

「また作るよ」

「え?」

「来週も。春樹くんが食べたいって言ってたから」

「……うん。お願い」

「約束する」

 病院を出る頃には、外はもう暗くなっていた。俺は駅へ向かいながら、来週のことを考えていた。美緒が店へ来る。俺がモンブランを作る。春樹くんが笑う。その光景を当たり前のように想像していた。

 
 だから翌朝、スマートフォンに届いた美緒からのメッセージを見たとき、俺は何度も画面を読み返した。

『春樹が、昨日の夜に亡くなりました』

 昨日、笑っていた。
 おいしいと言っていた。
 来週も食べたいと言っていた。

 俺はスマートフォンを握ったまま、何もできなかった。

 約束したのに。来週も作ると、約束したのに。

 その日の夕方、店のショーケースにはモンブランが並んでいた。俺はその中の一つを見つめながら、昨日の春樹くんの笑顔を思い出していた。あの笑顔だけは、まだ俺の中に残っている。

 だから俺は、モンブランを一つだけ冷蔵庫の奥へしまった。
 いつか美緒が戻ってきたときに、渡せるように。

 それだけは、しておきたかった。
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