来週も、このケーキありますか?
第04話 もう一度、金曜日 ~桜井美緒~
春樹がいなくなってから、四週間が過ぎた。学校へ戻ってからも、時間だけは何事もなかったように進んでいく。
朝になれば制服を着て、電車に乗り、教室へ入る。授業を受けて、友達と昼休みに話して、放課後になれば帰る。それまでと同じ毎日なのに、私の中だけ何かが抜け落ちたままだった。
金曜日が来るたびに、私は駅前の商店街へ続く道を思い出す。あの角を曲がれば、パティスリー・リラがある。ガラス張りの小さな店で、高瀬くんが働いている。ショーケースにはモンブランが並んでいるはずだ。そう考えるだけで胸が苦しくなり、私はずっと店の前を避けていた。
春樹がいた頃は、金曜日になれば自然と足が向いた。今は同じ道を歩くだけで、胸の奥に痛みが走る。もうモンブランを買う理由がない。もう病院へ持っていく必要もない。そう思うたびに、自分が春樹との約束を失ったことを実感してしまうからだった。
その日の放課後、私は駅へ向かう途中で足を止めた。目の前には、何度も通った商店街の入口がある。いつもなら右へ曲がって駅へ向かう。
でも、その日は違った。気づけば私は商店街へ入っていた。自分でも、どうして歩き始めたのか分からない。ただ、ずっと避け続けることにも疲れていたのだと思う。
人の声や自転車のベルが聞こえる中を歩いていると、やがて見慣れた看板が見えてくる。パティスリー・リラ。ガラス越しにショーケースが見え、その奥に高瀬くんの姿があった。私の胸が大きく跳ねた。引き返そうかと思った。でも、そのまま立ち去ったら、もう二度と入れない気がした。私はゆっくり扉へ手を伸ばし、小さなベルを鳴らした。
「いらっしゃいませ……」
「……こんにちは」
高瀬くんの声が止まった。私も何を言えばいいのか分からない。目が合っただけなのに、胸の奥に溜めていたものが一気に込み上げてきた。高瀬くんは驚いた顔をしていたが、すぐにいつもの表情へ戻った。その優しさが、今の私にはつらかった。何も聞かず、何も責めず、ただ私がここにいることを受け止めてくれている。それだけで涙が出そうになる。
「久しぶり」
「うん。久しぶり」
「学校、戻ってきたんだね」
「うん。先週から」
「そっか」
それ以上、会話が続かなかった。私はショーケースを見る。そこにはモンブランが並んでいる。四週間前まで毎週買っていたケーキだ。視線を向けただけで、春樹の顔が浮かんだ。病室のベッドに横になって、箱を開けると嬉しそうに笑った顔。小さなスプーンでモンブランを食べて、おいしいと言ってくれた声。最後に交わした約束。そして、その約束を守れなかった現実が胸を締め付ける。私はショーケースから目を逸らし、拳を握った。
「……」
「……ごめん」
「何が?」
「来週も買ってくるって、春樹と約束したのに」
口にした瞬間、涙がこぼれ落ちた。私は慌てて顔を伏せる。泣きたくなかった。ここで泣くつもりなんてなかった。それなのに、一度こぼれた涙は止まらなかった。高瀬くんは何も言わず、少しだけ距離を置いた場所に立っている。私が落ち着くまで待ってくれているのだと分かった。そのことが余計に嬉しくて、私は何度も涙を拭った。
「……私、約束したの」
「うん」
「来週もモンブランを買ってくるって」
「うん」
「なのに、来週が来たときには……もう、春樹はいなかった。いなくなっちゃったんだ」
声が震えた。言葉にすると、改めて現実が突きつけられる。私は春樹の最後の願いを守れなかった。そう思っていた。でも高瀬くんは、すぐには何も答えなかった。しばらくして、ゆっくり口を開く。
「桜井は、約束を破ったんじゃないと思う」
「……どうして?」
「春樹くん、最後の日にモンブランを食べたよ」
「うん……」
「おいしいって言ってた」
「……うん」
「来週も食べたいって言ってた。でも、その前に桜井がちゃんとモンブランを持っていっただろ」
私は顔を上げた。高瀬くんはまっすぐ私を見ている。
「約束を守るって、ずっと先まで続けることだけじゃないと思う」
「……」
「そのときに大事な人のためにできることをする。それも、約束を守ることなんじゃないかな」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に張り詰めていたものが少しだけ緩んだ。私はずっと、最後の約束だけを見ていた。
来週も買ってくると言った。なのに、その”来週”が来なかった。だから私は、自分が春樹との約束を守れなかったと思っていた。
でも、最後の日に春樹はモンブランを食べてくれた。笑ってくれた。おいしいと言ってくれた。その時間を作ってくれたのは、私自身だったのだ。そう思った途端、また涙が出た。でも今度の涙は、少し違っていた。
私は涙を拭いてから、もう一度ショーケースを見た。そこには、春樹が好きだったモンブランが並んでいる。以前なら、その一つを買って病院へ向かっていた。今はもう、持っていく場所がない。そう思うと胸が痛む。それでも、今日はなぜか目を逸らしたくなかった。高瀬くんが隣に立っている。店の中には他のお客さんもいて、厨房からは店長さんの声が聞こえる。特別な場所ではない。いつものケーキ屋だ。それなのに、四週間前までとは見え方が違っていた。春樹がいなくなったことで、私はここまで来る道さえ失っていた。でも、ここには春樹と過ごした時間が残っている。モンブランの甘い匂いも、高瀬くんと話した時間も、全部消えたわけではない。私はショーケースの前に立ち、しばらく迷ってから、指を一本だけモンブランへ向けた。
「高瀬くん」
「うん」
「モンブラン、一つください」
「……うん」
「今日は、私が食べたいから」
自分で言って、少しだけ胸が苦しくなった。
春樹のためではない。
病院へ持っていくためでもない。
自分が食べるためにモンブランを買う。
それがこんなにも難しいことだとは思わなかった。高瀬くんは何も言わずにショーケースから一つ取り出し、箱へ入れてくれる。以前と同じ動作なのに、今日は一つ一つが妙にゆっくり見えた。箱を受け取ると、その重さが手のひらに伝わってくる。小さなケーキ一つなのに、ここまで来るまでに四週間かかった。そのことを思うと、胸の奥が熱くなった。会計を済ませても、私はすぐには帰らなかった。扉の向こうには夕暮れの商店街が広がっている。帰ろうと思えば帰れる。でも、今日はもう一つだけ聞きたいことがあった。
「高瀬くん」
「なに?」
「このモンブラン……来週もありますか?」
自分で言っておきながら、胸が少し震えた。以前と同じ言葉なのに、意味はもう違っている。春樹のために尋ねた言葉ではない。来週も自分がここへ来るために尋ねている。高瀬くんは少しだけ驚いた顔をして、それから笑った。
「あるよ」
「本当に?」
「うん。来週もちゃんと作るから」
「じゃあ……」
私は箱を抱きしめるように持った。
「来週も来るね」
「うん。待ってる」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に小さな灯りがともったような気がした。春樹がいなくなってから、私は未来のことを考えなくなっていた。
明日になれば学校へ行く。明後日になれば家で過ごす。それだけで精一杯だった。来週なんて考えるのが怖かった。来週が来れば、春樹がいないことをもう一度思い知らされるから。
でも今は違う。来週になれば、この店へ来ることができる。モンブランを買って、自分で食べることができる。春樹を忘れるわけじゃない。むしろ、春樹が好きだったものを大切にしながら、自分も前へ進んでいいのだと思えた。
店を出ると、夕方の風が頬を撫でた。私はすぐに箱を開ける気にはなれなかった。今日は家へ帰って、母と一緒に食べようと思った。春樹の話をしながら食べたい。春樹ならきっと、もっと食べたかったと言うだろう。そんなことを考えると、少しだけ笑えてしまう。
商店街を歩きながら、私は空を見上げる。薄い雲の向こうに、夕暮れの光が残っていた。以前なら病院へ向かっていた時間だ。でも今日は家へ帰る。その違いに胸が痛む。それでも足は止まらなかった。
駅へ向かう途中、私は一度だけ振り返った。ガラス張りの店の中で、高瀬くんがこちらを見ていた。
私は小さく手を振る。高瀬くんも手を振り返した。それだけで、少しだけ歩きやすくなった。
来週も、この店へ来よう。
春樹がいない未来は、まだ怖い。
それでも、来週は来る。
そして私は、その来週を迎えてみようと思った。
朝になれば制服を着て、電車に乗り、教室へ入る。授業を受けて、友達と昼休みに話して、放課後になれば帰る。それまでと同じ毎日なのに、私の中だけ何かが抜け落ちたままだった。
金曜日が来るたびに、私は駅前の商店街へ続く道を思い出す。あの角を曲がれば、パティスリー・リラがある。ガラス張りの小さな店で、高瀬くんが働いている。ショーケースにはモンブランが並んでいるはずだ。そう考えるだけで胸が苦しくなり、私はずっと店の前を避けていた。
春樹がいた頃は、金曜日になれば自然と足が向いた。今は同じ道を歩くだけで、胸の奥に痛みが走る。もうモンブランを買う理由がない。もう病院へ持っていく必要もない。そう思うたびに、自分が春樹との約束を失ったことを実感してしまうからだった。
その日の放課後、私は駅へ向かう途中で足を止めた。目の前には、何度も通った商店街の入口がある。いつもなら右へ曲がって駅へ向かう。
でも、その日は違った。気づけば私は商店街へ入っていた。自分でも、どうして歩き始めたのか分からない。ただ、ずっと避け続けることにも疲れていたのだと思う。
人の声や自転車のベルが聞こえる中を歩いていると、やがて見慣れた看板が見えてくる。パティスリー・リラ。ガラス越しにショーケースが見え、その奥に高瀬くんの姿があった。私の胸が大きく跳ねた。引き返そうかと思った。でも、そのまま立ち去ったら、もう二度と入れない気がした。私はゆっくり扉へ手を伸ばし、小さなベルを鳴らした。
「いらっしゃいませ……」
「……こんにちは」
高瀬くんの声が止まった。私も何を言えばいいのか分からない。目が合っただけなのに、胸の奥に溜めていたものが一気に込み上げてきた。高瀬くんは驚いた顔をしていたが、すぐにいつもの表情へ戻った。その優しさが、今の私にはつらかった。何も聞かず、何も責めず、ただ私がここにいることを受け止めてくれている。それだけで涙が出そうになる。
「久しぶり」
「うん。久しぶり」
「学校、戻ってきたんだね」
「うん。先週から」
「そっか」
それ以上、会話が続かなかった。私はショーケースを見る。そこにはモンブランが並んでいる。四週間前まで毎週買っていたケーキだ。視線を向けただけで、春樹の顔が浮かんだ。病室のベッドに横になって、箱を開けると嬉しそうに笑った顔。小さなスプーンでモンブランを食べて、おいしいと言ってくれた声。最後に交わした約束。そして、その約束を守れなかった現実が胸を締め付ける。私はショーケースから目を逸らし、拳を握った。
「……」
「……ごめん」
「何が?」
「来週も買ってくるって、春樹と約束したのに」
口にした瞬間、涙がこぼれ落ちた。私は慌てて顔を伏せる。泣きたくなかった。ここで泣くつもりなんてなかった。それなのに、一度こぼれた涙は止まらなかった。高瀬くんは何も言わず、少しだけ距離を置いた場所に立っている。私が落ち着くまで待ってくれているのだと分かった。そのことが余計に嬉しくて、私は何度も涙を拭った。
「……私、約束したの」
「うん」
「来週もモンブランを買ってくるって」
「うん」
「なのに、来週が来たときには……もう、春樹はいなかった。いなくなっちゃったんだ」
声が震えた。言葉にすると、改めて現実が突きつけられる。私は春樹の最後の願いを守れなかった。そう思っていた。でも高瀬くんは、すぐには何も答えなかった。しばらくして、ゆっくり口を開く。
「桜井は、約束を破ったんじゃないと思う」
「……どうして?」
「春樹くん、最後の日にモンブランを食べたよ」
「うん……」
「おいしいって言ってた」
「……うん」
「来週も食べたいって言ってた。でも、その前に桜井がちゃんとモンブランを持っていっただろ」
私は顔を上げた。高瀬くんはまっすぐ私を見ている。
「約束を守るって、ずっと先まで続けることだけじゃないと思う」
「……」
「そのときに大事な人のためにできることをする。それも、約束を守ることなんじゃないかな」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に張り詰めていたものが少しだけ緩んだ。私はずっと、最後の約束だけを見ていた。
来週も買ってくると言った。なのに、その”来週”が来なかった。だから私は、自分が春樹との約束を守れなかったと思っていた。
でも、最後の日に春樹はモンブランを食べてくれた。笑ってくれた。おいしいと言ってくれた。その時間を作ってくれたのは、私自身だったのだ。そう思った途端、また涙が出た。でも今度の涙は、少し違っていた。
私は涙を拭いてから、もう一度ショーケースを見た。そこには、春樹が好きだったモンブランが並んでいる。以前なら、その一つを買って病院へ向かっていた。今はもう、持っていく場所がない。そう思うと胸が痛む。それでも、今日はなぜか目を逸らしたくなかった。高瀬くんが隣に立っている。店の中には他のお客さんもいて、厨房からは店長さんの声が聞こえる。特別な場所ではない。いつものケーキ屋だ。それなのに、四週間前までとは見え方が違っていた。春樹がいなくなったことで、私はここまで来る道さえ失っていた。でも、ここには春樹と過ごした時間が残っている。モンブランの甘い匂いも、高瀬くんと話した時間も、全部消えたわけではない。私はショーケースの前に立ち、しばらく迷ってから、指を一本だけモンブランへ向けた。
「高瀬くん」
「うん」
「モンブラン、一つください」
「……うん」
「今日は、私が食べたいから」
自分で言って、少しだけ胸が苦しくなった。
春樹のためではない。
病院へ持っていくためでもない。
自分が食べるためにモンブランを買う。
それがこんなにも難しいことだとは思わなかった。高瀬くんは何も言わずにショーケースから一つ取り出し、箱へ入れてくれる。以前と同じ動作なのに、今日は一つ一つが妙にゆっくり見えた。箱を受け取ると、その重さが手のひらに伝わってくる。小さなケーキ一つなのに、ここまで来るまでに四週間かかった。そのことを思うと、胸の奥が熱くなった。会計を済ませても、私はすぐには帰らなかった。扉の向こうには夕暮れの商店街が広がっている。帰ろうと思えば帰れる。でも、今日はもう一つだけ聞きたいことがあった。
「高瀬くん」
「なに?」
「このモンブラン……来週もありますか?」
自分で言っておきながら、胸が少し震えた。以前と同じ言葉なのに、意味はもう違っている。春樹のために尋ねた言葉ではない。来週も自分がここへ来るために尋ねている。高瀬くんは少しだけ驚いた顔をして、それから笑った。
「あるよ」
「本当に?」
「うん。来週もちゃんと作るから」
「じゃあ……」
私は箱を抱きしめるように持った。
「来週も来るね」
「うん。待ってる」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に小さな灯りがともったような気がした。春樹がいなくなってから、私は未来のことを考えなくなっていた。
明日になれば学校へ行く。明後日になれば家で過ごす。それだけで精一杯だった。来週なんて考えるのが怖かった。来週が来れば、春樹がいないことをもう一度思い知らされるから。
でも今は違う。来週になれば、この店へ来ることができる。モンブランを買って、自分で食べることができる。春樹を忘れるわけじゃない。むしろ、春樹が好きだったものを大切にしながら、自分も前へ進んでいいのだと思えた。
店を出ると、夕方の風が頬を撫でた。私はすぐに箱を開ける気にはなれなかった。今日は家へ帰って、母と一緒に食べようと思った。春樹の話をしながら食べたい。春樹ならきっと、もっと食べたかったと言うだろう。そんなことを考えると、少しだけ笑えてしまう。
商店街を歩きながら、私は空を見上げる。薄い雲の向こうに、夕暮れの光が残っていた。以前なら病院へ向かっていた時間だ。でも今日は家へ帰る。その違いに胸が痛む。それでも足は止まらなかった。
駅へ向かう途中、私は一度だけ振り返った。ガラス張りの店の中で、高瀬くんがこちらを見ていた。
私は小さく手を振る。高瀬くんも手を振り返した。それだけで、少しだけ歩きやすくなった。
来週も、この店へ来よう。
春樹がいない未来は、まだ怖い。
それでも、来週は来る。
そして私は、その来週を迎えてみようと思った。