True Blue Line ~君は僕のたった一つの宝物~

EP32

 2009年10月。
 それは思わぬところから起きた。
 情緒不安定になり、日誌を書くときにも、漢字を間違えるなど些細なミスが増えた。
 書き間違いも体調不良のせいだろうと、誰も気に留めなかった。
 そのうち利用者さんの食事の配膳ミスが何度も起こった。
 書類の記入漏れも目立つようになった。

 自分でもおかしいと思い始めたのは、ハエがきっかけだった。
 仕事をしていてやたらハエの羽音が聞こえたり、ハエのような虫が見えた。
 でもそれは私だけに見えたり、聞こえたりするものだった。
 そんなハエを気にする私を、仲間たちは「疲れている」と心配していた。
 しかし次第にホームの入居者さんとのコミュニケーションにも支障が出はじめた。
 加えて私は耳鳴りに悩まされるようになった。
 どういうわけか通話ソフトで武と話している時だけは、それから解放された。
 気が付けば私は、この通話ソフトに、武の存在に頼るようになっていった。

「武……私きっと何か変……」
「それ、疲れだけって決めつけない方がいい。一度病院行こう」

 武がそう言ってくれる。
 行かなければと思った。でも、何を言われるのか怖くて、結局病院にも行けなかった。
 でも心の中はもうそんな台詞では安心できなかった。
 お願いだから私を嫌わないで。
 本当はそう言いたかった。
 なにかが崩れ始めていると思った。

 夜勤の日は一人になるのが怖かった。
 もし私のせいで、入居者さんが怪我をしてしまったら――
 そう思うと怖くて仕方がなかった。

 親に相談しようと思った。
 母にあれだけ忠告されたのに。
「だから言ったでしょう」と責められる気がして、相談できなかった。
 自分に起きていることを、誰にも詳しく打ち明けられなかった。

 そんな時だった。
 ある利用者さんのトイレ介助をしている間、別の利用者さんが何度も私を呼んでいたそうだ。
 けれど私は気づかなかった。いや、気づくことができなかった。
 呼んでも来ないと分かり、その人は自力でベッドを降りてトイレへ向かおうとしたのだろう。そこで転倒し大腿骨を骨折した。退院後も以前のようには歩けず、車椅子中心の生活になった。

 事故報告を書き、上司との面談を終えたあと、私は退職を申し出た。
 これ以上誰も傷つけたくなかったし、自分の限界を思い知ったから。
 仕事を辞めてしばらくすると、あれほど私を悩ませていた症状は嘘のように薄れていった。

 -*-

 ある日、ちょうど来月のシフトが出る頃だったためか、武が来月の予定を聞いてきた。

「……ないよ」
「由惟?」
「退職したの」

 武は一瞬何かを言いかけた。でも理由を聞くことはしなかった。
 何も聞かず、あるキャラクターのアスキーアートを、通話ソフトのチャット画面に送信する。

 それは、私と武が一番好きな青年漫画に登場するキャラクター。
 私が大好きなそのフレーズを武は覚えていてくれた。

「このフレーズのように、困難があってもさ、また頑張ればいいと思う」
「うん」

 会話が途切れる。
 何を言えばいいかわからない。
 それは武も同じなのかもしれなかった。

 その沈黙の中、
 カチ、カチ……とオルゴールを巻く音が聞こえた。
 それは「Blue Line」だった。
『君は僕のたった一つの宝物』と歌う部分の旋律が、繊細な音色で流れる。
 その音色が私の心に深く沁み込んだ。
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