True Blue Line ~君は僕のたった一つの宝物~

EP08

 初めてNOと言えた日の翌日から、職場では江口さんが妙に馴れ馴れしくなった。
 私が給湯室に1人でいると、後からきまって江口さんがやって来る。
 私は周囲を警戒しながら社交辞令を突き通す。
 人気者の江口を狙う女性陣の嫉妬は半端なかった。
 必要な連絡が回って来なくなった。
 私がしたミスではないのに私のミスにされる。
 ロッカーには明らかに蹴とばした跡。
 鍵をかけていなければ、何かなくなっていても不思議ではなかった。
 そして私の恐れていたことが起きた。
 江口さんに私が色目を使い、彼に迫っているという根も葉もない噂だ。
 その噂が立ってから、金森の態度がより一層ひどくなった。

「江口君は優しいから……、でもそれを利用するなんてサイテー」

 どうしてそうなってしまうのだろう。
 そして江口は苦笑しているだけだ。
 もうここまでなんだな、そう思った。
 いつか辞める日が来ることを、もう私は覚悟していた。
 それでもあの時NOと言えたことだけは、絶対に後悔したくはなかった。
 9月の上旬、私は部長に辞めることを告げた。
「資格を取るために学校に通いたい」という理由で。

「まだ若いしね、いいと思うよ。今までお疲れ様」

 社交辞令だった。
 結局どんなに仕事を頑張っても、人間関係を乱す人間は要らない。
 そう言われている気がした。
 それでもさほど気落ちしなかったのは、やっぱりTARさんのおかげだった。

 この職場では雇用保険に加入していた。
 TARさん曰く、ハローワークで手続きをして受講指示を受けられれば、給付を受けながら職業訓練に通えるそうだ。
 ただし筆記テストがある場合もあるから勉強は必要だそうだ。

『人生いろいろあるだろ。使えるモンは使わないとな』

 だから悲観することなく前向きになれた。
 人の役に立てる職に就きたい、その夢をTARさんは応援してくれる。
 あれから電話はしていなかった。
 彼からも電話が来ることはなかったけど、メールの頻度は、彼の仕事は大丈夫なのだろうかと私が心配になるくらい、以前よりずっと増えていた。
 でも一つだけ決めたことがある。
 学校が決まったら、彼に電話しようと。
 自分の立場が不安定なままで、彼の声を聞きたくなかった。
 いや、ほんとうは嫌われたくなかった。

 -*-

 1か月後、自宅で新聞を読んでいた時、郵送で筆記試験の結果が届いた。
 受講希望者は多かったはずなのに、無事に選考を通ることができた。
 その喜びを、TARさんに文字ではなくて、声で届けたかった。

『電話してもいいですか? 今じゃなくてもいいから……』
『うん。俺も、KIKKOさんの声が聴きたい』

 その言葉にドキッとする。
 今まで、こんなにダイレクトに言ってくれたことがあっただろうか?
 私は、勇気を出して通話ボタンを押した。
 彼はすぐに電話を取った。

「もしもし?」
「こんにちは、TARさん。改めまして、KIKKOです」

 私は胸を高鳴らせて言葉を紡ぐ。
 しかし数秒の沈黙。何か硬いものを置いたような音がする。
 そして椅子の引く音。慌ててドアを開いたような音も。
 私はタイミングが悪かったかと思って、かけ直すことを伝えようとしたときだった。

「こんにちは、KIKKOさん。……TARです」

 声が返ってきた。
 そして、ピコンと携帯が鳴る。
 誰かからメールが届いた? このタイミングで?
 とりあえず気にはなったものの、そのままにしておく。今は通話が絶対優先だからだ。

「KIKKOさんの名前……きいたらダメだよな?」
「え、何でダメなの?」
「名前で呼びたくなった」
「……由惟。仲崎由惟です」

 沈黙。
 カリカリと何かを書いている音が聞こえる。

「TARさんは? ……聞いても良かったですか?」
「栖藤武(すどうたける)……友達はタケって呼ぶよ」
「じゃあタケさん……って呼んでも?」
「うん」

 また沈黙。
 どことなく呼吸する音が聞こえる。
 息の吐く音が聞こえて、私は胸のドキドキが収まらない。

「由惟さん。いや、ユイユイにしよう。そう呼んでもいいか?」

 ユイユイ? パンダみたいだ。
 でもそう呼ばれるならもう一歩踏み込んで――。
 それは願望も入っていた。タケさんに名前で呼ばれたかった。

「それなら、由惟で、お願いします!」
「由惟ちゃ……由惟」

 言い直すタケさん。
 低い声が「由惟」と発音した時、どこか優しく聞こえた。

「はい!」

 明るく答える私。自然と顔がほころんでいるのがわかる。
 名前を呼ばれて嬉しいなんて、いままでなかったから。

「由惟」
「タケさん」

 私も彼の名前を呼ぶ。
 彼は実在する男性だった。そのことが嬉しい。

「ダメだ……ごめん、ちょっといったん切るね」
「う、うん」

 直ぐにタケさんからメールが届く。

『めっさやる気出た! ありがとう!!』

 その一言で仕事中だったと分かる。
 それなら通話を後にしても良かったのに――。

 さっきのメールを見る。
 それはウェブメールだ。
 リンクをクリックすると、「合格おめでとう!」とGIFアニメーションが展開された。
 白いアザラシが花束を差し出しているイラスト付きだ。

「もう……タケさんったら……」

 私は携帯端末をそっと胸に抱いた。
 もっとあなたを知ってみたいと思った。
 でも今は、私も自分にできることをしないといけない。
 ラジオからリクエスト曲が流れた。
『君は僕のたった一つの宝物』という歌詞が私の中に、静かな波紋を生んだ。
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