ピカレスクに心酔


まるで誘うような甘い響きを混ぜて彼が促してくる。

頭の中で警鐘が鳴っていた。
危ない予感がする。彼が纏う甘さは、獲物を罠にかける時のそれと非常によく似ているのだ。

机の上にある、出来上がった冊子のうちの一つ。他のものと混ざらないように自分の名前を書いておいた。
彼は私の筆跡を指でなぞり、更に畳み掛ける。


「ねえ。朱南」


低い声で紡がれる「しゅな」の発音が何だか可愛くて、咄嗟に顔を上げる。再び目が合った瞬間、――自分の選択が間違っていたことに気が付いた。


「せっかく泣いてるのに、隠したらもったいないでしょ」


開いた瞳孔、高揚したように赤く染まる頬、悦びを滲ませる音吐。最初に感じた凶暴さは、その奥にしっかり健在だ。

危ない、なんてものじゃないかもしれない。頭の中どころではなく、全身の細胞が恐怖で震えている。
それなのにどうして、心臓は淡い恋の矢に射られたように疼くのだろう。


「や――やっぱり坂井、変だって! どうしたの? いつもの坂井じゃない……」


こんなの違う。突然だからどきどきしているだけだ。こんな乱暴に、強制的に跳ね上がる心音なんて紛い物なのに。


「そうだよ」


やけに真剣な表情で彼が頷く。


「俺(・)は坂井じゃない。“忍”だから」

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