ピカレスクに心酔
私の腕を離した彼は、つと視線を床に投げて浅く息を吐く。
「最近生まれたって……どういうこと?」
「そのままの意味だよ。つい最近、あいつの中で生み出された人格ってこと」
「どうやったら元の坂井に戻るの?」
「さあ。大抵寝て起きたら朝には戻ってる」
「じゃあ、朝まであなたのまま?」
矢継ぎ早に質問を繰り返す私に、ふ、と彼が肩を揺らした。その横顔が、さっきまでの荒々しい笑い方とはうってかわって無防備で、少しだけ胸の奥が苦しくなる。
「興味津々だね」
「だ、だって! そりゃあ色々聞きたくなるよ、分からないことだらけだもん……」
「いいよ、いくらでも聞きなよ。答えてあげる」
再び妖しく微笑んだ彼は、私の頬を丁寧に指でなぞった。
きっと、涙の跡を拭ってくれているだけ。それ以上でも以下でもない。心の中で自分にそう言い聞かせないと、うっかり勘違いをしてしまいそうになる。
「俺には聞いていいけど、あいつには聞かないでね」
「え?」
「俺としての記憶は、あいつの中にはないから」
あいつ、というのは、普段の坂井のことを指しているのだろう。そして、彼の発言が正しいとするならば。
『知らんぷりも何も、俺は九栗を引き留めたりなんてしてない』