ピカレスクに心酔
坂井自身は本当のことしか言っていなかったのだ。だって、あの時私を引き留めたのは坂井じゃなくて、いま目の前にいるもう一人の「彼」だったのだから。
「これは俺と朱南との秘密。分かった?」
甘く無邪気に小指を差し出してくる彼の瞳は、獰猛でいっそ純粋である。
「……分かった」
恐る恐る絡めた小指は、触れた途端に強く引かれて解けなくなった。怖くて熱くて、それなのにどきどきする。
「俺の名前、呼んでよ」
これは悪魔の契約だ。美しい悪魔が私を唆している。
全て見透かされている。いい子じゃない私のことを、この人なら真っ直ぐに認めてくれる気がした。
根拠なんてない。そもそも悪魔とは、超越的存在とは、根拠を必要としないものだ。
「――忍」
代償は多分、心臓だ。もうすでに手にかけられているのかもしれない。
「もっと、たくさん呼んで。そうすれば、俺はここにいるって実感できるから」
静かに下される命令を、私は享受することしかできなかった。
彼は愉快犯のような笑みを浮かべているのに、一瞬だけ酷く寂しそうな顔をする。
いま目を瞑って寝てしまったら、もう二度と会えないのではないだろうか。不安にさせる儚さが彼にはあった。