ピカレスクに心酔


頬を掻いて思わず口ごもる。
言えっこない。いま教室の中では私の愚痴大会が繰り広げられています、なんて。

坂井はますます首を傾げた。彼の真っ直ぐな黒髪がさらりと揺れる。


「さ、坂井こそ……何してるの? 帰らない、の?」


不自然に話題転換をしたせいで盛大にどもったけれど、相手の方はさして気にしていないようだった。帰るよ、と端的に頷いてから彼が続ける。


「教室にコート忘れたから、取りに来ただけ」

「あー、そうなんだ……」


そして沈黙。気まずい。

私にとって、坂井は一番掴めないタイプの人間だった。
というのも、きっと彼は根っからの「いい人」だからだ。いつもクラスのみんなのことをよく見ている。誰とも波風立てることなく会話ができて、先生からも好かれていて、通知表もオール5――いや、通知表は私の憶測でしかないけれど。

一年生の頃から学級委員をやっていたらしい。今年度もそつなく仕事をこなして、来年は恐らく学級委員長を務めるのではないだろうか。彼以上の適任はいないと思う。

それに比べて私は、学級委員という肩書き欲しさに立候補した浅い偽善者だから。本物の善人を前にすると、自分が惨めに思えて仕方がない。


「じゃあ、そろそろバスの時間だから」

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