ピカレスクに心酔
何で坂井なの。何で“忍”じゃないの。
あまりにも身勝手な嘆きだ。それでもまだ理性は保っていたからか、口には出さず胸中に留めることができた。
「俺はいつも通り、勉強してただけで……」
肩で息をしながら険しい顔で問う私に、彼は今日も困惑しきっている。
何でまだ残っているのか、と質問されていると解釈したのだろう。坂井がいる理由なんて、ましてやいるかどうかすらも、私にはどうだっていい。
「忍」
「え?」
「……忍、来て」
タブーだ。
坂井自身にこの呼称を投げかければ、彼を混乱させることになる。それがどんな結果に転ぶのか。全くの未知数だからこそ、安易に呼んではいけないことくらい、十分理解していたつもりだった。
『俺の名前、呼んでよ』
呼ぶよ。だから今すぐ来て欲しい。
私は君の前でなら、ちゃんと上手く泣ける気がするんだ。
「九栗?」
坂井は変わらず坂井のままだった。
何も影響がなくて少しほっとしたのも束の間、今度は目の前の男の人が無慈悲な敵にすら思えてくる。
「何でもない!」
勢いよく踵を返すと汗が舞った。急に寒くなってきて、歩幅を広める。
数段降りたところで不意に後ろから肩を掴まれ、心臓が跳ねた。
「――朱南」