ピカレスクに心酔
恐る恐る受け取って視線を上げれば、「どういたしまして」と彼が緩く微笑む。いつもよく見る、いつもと同じ、笑い方。
「坂井」
「うん?」
きっちりとボタンの留められたブレザー。その上からコートを羽織りながら、坂井はまた首を傾げた。
少しだけ心臓がうるさい。
だって、びっくりした。何のためらいもなくドアを開けたこと。あの空気の中、平然と忘れ物を回収してしまったこと。
彼ならもっと穏便に済ませそうなものなのに、意外だったのだ。
「えっと……聞かないの?」
「何が?」
「何がって……さっきの、ユキたちが言ってたこととか……」
ここまで何事もなかったかのようにされると、逆にそわそわする。気を遣ってふれないようにしているだとか、そういうふうには感じられなかった。
あくまで、本当に、何も聞かなかったかのように。
「あー……いや、別に九栗のことって決まったわけじゃないし」
彼が聞いていたのはほんの一部。それもあの子だなんて言い方の部分だけ。
でもさっきの彼女たちの反応を見たら一目瞭然だ。どんなに鈍くても私のことを言っていると気が付く。
「私だよ」
足元が寒い。きっと、外はもっと冷えている。
「私のこと言ってるんだよ。だから入れなかったの、ずっと」