ピカレスクに心酔
坂井は黙ったまま真っ直ぐに私を見据えている。ふと強張りが解けて目尻を下げた彼が、「そうだった」と呟いた。
「……ごめん、変なこと聞いて。ちょっと眠たくてあんまり覚えてなかったかも」
「あ~、やっぱり? なんか眠そうな声してたもんね。逆に遅くまで付き合わせちゃって申し訳なかったな」
そんな感想を付け足した私に、坂井が安堵したように口元を緩める。気の抜けた微笑。久しぶりに見た彼の笑顔に、ほんの少しくすぐったい気持ちになった。
自分の知らないうちに自分の中の「誰か」が、周りの人へ影響を与えていたら――きっと怖くて仕方ないと思う。
得体の知れない何かが自分の中にあること。その何かが、自分の意思とは無関係に動いていること。動いた結果、自分の望まない結末に物事が進んでしまうこと。どれも軽く想像しただけで恐ろしくて震える。
坂井は“忍”の存在を知るべきではない。知ったら平穏な日常には戻れないだろう。だから忍も「秘密にして欲しい」と言っていたのだ。
私が坂井の代わりに知っておく。忍はきちんと存在していて、生きていること。誰も知らない彼のことを、私は忘れないし大事にしたい。
「ねえねえ、早速なんだけどさ。今日の数学の課題、さっぱり分かんないから教えて下さらない?」