ピカレスクに心酔
違う。そんな陳腐な理由じゃない。
どうして気が付かなかったんだろう。もっと片鱗はあったんじゃないのか。私が見逃していただけで、もっと。
放課後の階段を駆け上がる。急がなければいけない気がした。そうしないと、大切なものがぼろぼろと手の平から零れ落ちてしまうような予感がした。
息が上がっていく。身体的に苦しくて、でもきっと、それだけじゃない嫌な喧騒が自分の内側でどんどん大きくなっていくのを感じる。
最後の二、三段は足がもつれて転びそうになった。立て直した勢いのまま廊下を走って、縋るように自習室のドアを開ける。
――急いだことを、後悔した。
手すりに腕を預けて窓の外を眺める背中。ここからじゃ表情は一切見えないのに、どんな視線を送っているのか容易く想像できてしまう。
坂井は誰にでも優しく平等だ。そして誰にも深入りしない。
そんな彼がわざわざ窓越しに見つめるなんて、「特別」以外の何物でもないのだ。
その特別は私でありたいと願ってしまっている時点で、心臓の痛みの答えも、先の展開も分かりきっている。
「……九栗?」
自分の中の何かが耐え切れず溢れ出す前に踵を返した。背を向ける直前、坂井の私を呼ぶ声が聞こえた気がする。
それすらも、私の願望が聞かせた幻聴だったのだろうか。