ピカレスクに心酔
坂井が一歩近づいてくるのが分かったから、慌てて顔ごと後ろに逸らした。
「や、何でもない! そっかー、坂井にはお見通しだったか」
「九栗」
「じゃ、私も帰るね。お疲れ様!」
大丈夫。いつも通りに話せてる。明日も明後日も、私は頑張れるはずだ。
ずんずんと早歩きで坂井の横を通過して――しようとした時、思わぬ力強さで右肩を掴まれた。反動で後ろによろめいたと同時、目から水滴が落ちて焦る。
「九栗」
僅かに私より高い目線。こちらを見下ろす彼の瞳が、私の目を、それから頬を、涙の流れた跡を追いかける。
「こ、これは……目にゴミが入っただけで、」
見ないで。放っておいて。
さっきは私が切り出さなければそのまま帰ろうとしていたくせに、どうして今は引き留めるの。
無言で私を見つめ続ける坂井は、なぜか酷く苦し気な表情を浮かべていた。同情や憐みの類いとは違う、痛みに耐えるような顔。
それなのに、次の瞬間には薄い唇の端をつり上げて笑う。
その笑みが、まるで別人のように凶悪だった。
「――嘘つくの、下手だね」
突然低くなった声はやけに甘ったるい。彼の指先が私の頬をなぞる。
やっぱり私は、坂井忍という人をまだ全く分かっていないみたいだ。