光の余白 ―君に触れる日まで―
第3話 待たせてごめん
父に会った。
藤崎家にも行った。
理久は、言葉で説明する代わりに、ひとつずつ形にしていった。
そのことに気づいたのは、藤崎家を出たあとだった。
玄関で見送ってくれた理久の母の笑顔。
穏やかに交わされた会話。
将来の話をされているのに、押しつけられている感じはしなかった。
むしろ、知らないうちに足元を照らされていたような気がした。
ここに来てもいい。
そう言われているようで、美月はしばらく何も言えなかった。
隣を歩く理久は、いつもと変わらない顔をしている。
変わらない。
それが少しだけ、腹立たしい。
理久の姉が見立ててくれた服は、まだ少しだけ特別だった。
自分では選ばない上質な生地。
控えめなのに、きちんと目を引く形。
美月に似合うからと選んでくれたその服は、藤崎家の玄関でも不思議と浮かなかった。
だから余計に、落ち着かなかった。
「美月」
「はい」
「食事して帰ろうか」
「この服で、ですか」
「うん」
理久は少し笑った。
「せっかくなら、その服で行ける店にしようと思って」
美月は一瞬、返す言葉を失った。
服を褒められたわけではない。
けれど、その服を着ている自分ごと、きちんと扱われている気がした。
そして、既にお店を予約している事にも気付いた。
「……用意がいいですね」
「今日は、ちゃんと用意した」
その言い方に、美月の胸が小さく鳴った。
ただの食事ではない。
ただの寄り道でもない。
理久は、今日という日を最初から続きのあるものとして考えていた。
連れて行かれたのは、六本木の静かな店だった。
照明も、グラスの音も、運ばれてくる料理も、すべてが整っている。
理久はその場所に当然のように馴染んでいた。
けれど、美月だけを置いていくわけではない。
料理を勧めるタイミングも、会話の速度も、全部こちらに合わせてくれる。
悔しいくらい優しい。
「美味しいです」
美月が素直に言うと、理久の目元が柔らかくなった。
「よかった」
その微笑みだけで、胸の奥が温かくなる。
幸せだ、と思った。
こんなふうに思う日が来るなんて、少し前の自分には想像できなかった。
* * *
食事を終えて店を出る。
夜の空気は、少しだけ冷たかった。
「ごちそうさまでした」
「うん」
「いつも、ありがとうございます」
「美月が美味しそうに食べてくれるなら、十分」
「またそういう言い方を」
「嫌?」
「……嫌ではありません」
「じゃあ、いいね」
理久は楽しそうに笑う。
美月は、また言い返せなくなった。
歩き出して少ししてから、美月は気づいた。
家へ帰る方向ではない。
「りく?」
「うん」
「どこへ向かってるんですか」
理久は少しだけこちらを見た。
「もう少し、一緒にいたいと思って」
その言い方は穏やかだった。
けれど、曖昧ではなかった。
美月はそれ以上、聞けなかった。
やがて見えてきたのは、六本木の夜景の中に静かに立つ高層ホテルだった。
派手さはない。
けれど、入口に近づくだけで空気が変わる。
磨かれた床。
低く落とされた照明。
静かに動くスタッフ。
夜景を背にしたロビーは、非日常なのに騒がしくない。
美月は思わず足を止めた。
ここは、通りすがりに入る場所ではない。
理久は最初から、ここへ来るつもりだった。
その事実に、胸の奥が小さく鳴った。
「美月」
理久が立ち止まる。
「はい」
「行こう」
差し出された手を、美月は見つめた。
逃げ道を塞がれている気がした。
けれど、逃げたいとは思わなかった。
美月は、そっとその手を取った。
* * *
案内された部屋は、ただ広いだけではなかった。
角部屋らしく、二面に東京の夜が広がっている。
高層の光。
道路を流れる車の灯り。
遠くに見える街の輪郭。
人工的なのに、美しかった。
部屋の照明は柔らかく、家具も調度品も、すべてが静かに整っている。
特別な夜のために、理久が選んだ場所。
そう思った瞬間、美月はうまく息ができなくなった。
「りく」
「うん?」
「これは……」
理久は上着を脱ぎ、椅子の背にかけた。
その動作があまりにも自然で、美月はまた何も言えなくなる。
そして、理久の指が自分のネクタイに触れた。
結び目をゆっくりと緩める。
美月は、なぜかそこから目を逸らせなかった。
ネクタイが外される。
続いて、シャツの第一ボタンが開いた。
ほんの少しだけ見えた首元。
見てはいけない気がして、美月は慌てて視線を逸らした。
けれど。
一度逸らしたはずの目が、また戻ってしまう。
理久は、そんな美月の視線に気づいているようだった。
ただ、少しだけ目元を緩めた。
「美月のために、ちゃんと用意した」
「私のために?」
「うん」
静かな声だった。
今夜の理久は、いつもよりずっと静かに見えた。
「婚約して……」
理久が言う。
「両家にも挨拶して……」
美月は黙って聞いていた。
「……美月のお父さんにも、俺の家にも、ちゃんと向き合った」
「……はい」
「ここまで来てからにしたかった」
その言葉に、美月の胸が小さく鳴った。
それが何を意味しているのか、美月にも分かった。
理久は、何も考えずに待っていたわけではなかった。
曖昧なまま進めなかった。
美月が後から、自分の選択を疑わなくていいように。
今日のことを、後悔に変えなくていいように。
そのために、ひとつずつ順番を整えていた。
「そこまで、考えていたんですか」
「考えるよ」
理久は少しだけ笑った。
「美月のことだから」
ずるい。
そんな言い方をされたら、何も返せない。
理久の指先が、美月のジャケットに触れた。
一瞬、体が強張る。
「脱がせていい?」
美月は理久を見上げた。
自分で脱げる。
もちろん、そんなことは分かっている。
けれど。
美月は小さく頷いた。
「……はい」
理久の手が、ゆっくりとジャケットを肩から滑らせる。
触れているのは、ほんのわずかなはずなのに。
指先の位置が、ひどく鮮明に分かった。
ジャケットを椅子にかけると、理久は何事もなかったように美月の手を取った。
「夜景、見ようか」
そのまま窓辺まで連れて行かれる。
大きな窓の前で美月が足を止めると、理久はそっと手を離した。
美月より半歩ほど後ろ。
振り返らなくても、すぐ近くにいることが分かる。
「夜景、綺麗だね」
「……はい」
目の前には、東京の夜が広がっている。
高層ビルの光。
遠くを流れる車の灯り。
見ているだけなら、それで十分なはずだった。
なのに。
美月の視線は、いつの間にかガラスに映る理久を追っていた。
ネクタイを外したシャツ。
少しだけ開いた襟元。
端正な顔。
穏やかな目。
いつもの余裕をまとっているのに、どこか静かだった。
意識するな。
そう思うほど、目が離せない。
ふいに、ガラスの中の理久と目が合った。
美月の心臓が跳ねる。
気づかれていた。
たぶん、ずっと。
理久の目元が、ほんの少しだけ緩む。
何も言わない。
それが余計に恥ずかしい。
美月が視線を夜景へ戻した、その時だった。
理久が一歩近づく。
背中のすぐ後ろに体温を感じた。
それでも、まだ触れない。
「美月」
耳元に低い声が落ちる。
それだけで、肩が小さく震えた。
「待たせてごめん」
息が止まった。
待たせて。
何を。
分からないふりは、できなかった。
でも、素直な言葉も出てこない。
「ま……待ってません」
言ってから、すぐに後悔した。
また可愛くないことを言った。
どうしてこうなるのだろう。
理久が背後で、ふっと笑った。
「本当、強情だね」
「……」
「でも、そういうところも好きだよ」
美月は何も言えなかった。
理久の腕が、後ろからそっと美月を包んだ。
その腕の中で、美月はようやく分かった。
理久は、ずっと待っていた。
自分のためではなく。
美月が、自分で選べる場所に立つまで。
「不安にさせた」
理久の声が落ちる。
「美月に、余計なことまで考えさせた」
美月は顔を伏せた。
思い当たることが多すぎて、何も言えなかった。
「りく」
「うん」
「もう、いいです」
「うん」
理久は、それ以上言わなかった。
言葉でほどこうとはしない。
ただ、腕の力が少しだけ強くなる。
その沈黙の方が、ずっと理久らしかった。
「待たせてごめん」
もう一度、理久が言った。
さっきよりも近い声だった。
美月の目に、じわりと熱が滲む。
全部を言われたわけではない。
理由を説明されたわけでもない。
それでも、分かった。
理久は、迷っていたわけではない。
逃げていたわけでもない。
美月を軽く扱わないために、待っていた。
その事実だけで、胸の奥がいっぱいになった。
「理久は……」
「うん」
「本当に、ずるいです」
理久が少し笑った。
「今さら?」
「今だから言ってるんです」
「そっか」
その声が、少し嬉しそうだった。
美月はゆっくり息を吐いた。
緊張している。
恥ずかしくて、胸が苦しい。
でも、逃げたいとは思わない。
しばらくして、理久の腕がゆっくりとほどけた。
離れてしまう。
そう思った瞬間。
なぜか、少しだけ寂しいと思った。
けれど理久は離れなかった。
すぐ後ろに立ったまま、美月を見ている。
ガラスの中で、二人の視線が重なった。
「美月」
「……はい」
理久は、すぐには続けなかった。
窓に映る美月を見つめている。
いつものように余裕があるように見えて。
でも、今はそれだけではないことが分かった。
「もう、待たなくていい?」
胸の奥を、強く掴まれた気がした。
何を。
なんて、もう聞く必要はなかった。
ずっと待っていた。
理久も。
たぶん、自分も。
美月はガラスに映る理久を見たまま、小さく頷いた。
「……はい」
理久は、すぐには動かなかった。
ほんの一瞬。
本当にいいのかと、最後まで確かめるように。
それから、片方の手がゆっくりと伸びた。
ガラスの中で、その指先が美月の頬に触れるのが見えた。
頬に、理久の指先の温度が届く。
美月は息を止めた。
指先が頬をなぞり、耳にかかった髪をそっと後ろへ払う。
その指が耳に触れた瞬間、美月の肩が微かに揺れた。
ガラスの中で、理久の目が細くなる。
全部、見られている。
自分がどんな顔をしているのかも。
触れられて、どんなふうに反応したのかも。
恥ずかしくなって、美月は目を伏せた。
「美月」
もう一度呼ばれる。
仕方なく顔を上げると、またガラス越しに目が合った。
「……そんな顔しないで」
「どんな顔ですか」
理久は答えるまでに、ほんの少し間を置いた。
「俺が、もう待てなくなる顔」
心臓が大きく鳴った。
そんなことを言うくせに。
理久は、まだ待っている。
美月が逃げないことを。
美月が自分から選ぶことを。
そのことが分かってしまった。
美月は一度だけ唇を結んだ。
そして、ゆっくりと振り返った。
初めて、ガラス越しではなく理久を見る。
近い。
それなのに、もう目を逸らしたいとは思わなかった。
美月は、ほんの少しだけ自分から理久との距離を縮めた。
理久の表情が変わった。
笑うのでもなく。
からかうのでもなく。
長く息を止めていた人が、ようやく息をしたような顔だった。
その顔を見て、美月はようやく気づいた。
理久もまた、ずっとこの瞬間を待っていたのだ。
理久の手が、美月の頬を包む。
さっきよりも、もう少し確かに。
優しくて。
慎重で。
けれど、もう遠くはない。
「待たせてごめん」
三度目のその言葉は、謝罪で。
告白で。
約束のようだった。
美月は静かに目を閉じた。
その先の言葉は、もう必要なかった。
窓の向こうでは、東京の夜が変わらず輝いている。
長い間、二人の間に残されていた最後の距離が、静かになくなっていく。
そして今夜。
もう、どちらも待たなくていい。
ガラスに映る二人の影は、いつの間にかひとつに重なっていた。

藤崎家にも行った。
理久は、言葉で説明する代わりに、ひとつずつ形にしていった。
そのことに気づいたのは、藤崎家を出たあとだった。
玄関で見送ってくれた理久の母の笑顔。
穏やかに交わされた会話。
将来の話をされているのに、押しつけられている感じはしなかった。
むしろ、知らないうちに足元を照らされていたような気がした。
ここに来てもいい。
そう言われているようで、美月はしばらく何も言えなかった。
隣を歩く理久は、いつもと変わらない顔をしている。
変わらない。
それが少しだけ、腹立たしい。
理久の姉が見立ててくれた服は、まだ少しだけ特別だった。
自分では選ばない上質な生地。
控えめなのに、きちんと目を引く形。
美月に似合うからと選んでくれたその服は、藤崎家の玄関でも不思議と浮かなかった。
だから余計に、落ち着かなかった。
「美月」
「はい」
「食事して帰ろうか」
「この服で、ですか」
「うん」
理久は少し笑った。
「せっかくなら、その服で行ける店にしようと思って」
美月は一瞬、返す言葉を失った。
服を褒められたわけではない。
けれど、その服を着ている自分ごと、きちんと扱われている気がした。
そして、既にお店を予約している事にも気付いた。
「……用意がいいですね」
「今日は、ちゃんと用意した」
その言い方に、美月の胸が小さく鳴った。
ただの食事ではない。
ただの寄り道でもない。
理久は、今日という日を最初から続きのあるものとして考えていた。
連れて行かれたのは、六本木の静かな店だった。
照明も、グラスの音も、運ばれてくる料理も、すべてが整っている。
理久はその場所に当然のように馴染んでいた。
けれど、美月だけを置いていくわけではない。
料理を勧めるタイミングも、会話の速度も、全部こちらに合わせてくれる。
悔しいくらい優しい。
「美味しいです」
美月が素直に言うと、理久の目元が柔らかくなった。
「よかった」
その微笑みだけで、胸の奥が温かくなる。
幸せだ、と思った。
こんなふうに思う日が来るなんて、少し前の自分には想像できなかった。
* * *
食事を終えて店を出る。
夜の空気は、少しだけ冷たかった。
「ごちそうさまでした」
「うん」
「いつも、ありがとうございます」
「美月が美味しそうに食べてくれるなら、十分」
「またそういう言い方を」
「嫌?」
「……嫌ではありません」
「じゃあ、いいね」
理久は楽しそうに笑う。
美月は、また言い返せなくなった。
歩き出して少ししてから、美月は気づいた。
家へ帰る方向ではない。
「りく?」
「うん」
「どこへ向かってるんですか」
理久は少しだけこちらを見た。
「もう少し、一緒にいたいと思って」
その言い方は穏やかだった。
けれど、曖昧ではなかった。
美月はそれ以上、聞けなかった。
やがて見えてきたのは、六本木の夜景の中に静かに立つ高層ホテルだった。
派手さはない。
けれど、入口に近づくだけで空気が変わる。
磨かれた床。
低く落とされた照明。
静かに動くスタッフ。
夜景を背にしたロビーは、非日常なのに騒がしくない。
美月は思わず足を止めた。
ここは、通りすがりに入る場所ではない。
理久は最初から、ここへ来るつもりだった。
その事実に、胸の奥が小さく鳴った。
「美月」
理久が立ち止まる。
「はい」
「行こう」
差し出された手を、美月は見つめた。
逃げ道を塞がれている気がした。
けれど、逃げたいとは思わなかった。
美月は、そっとその手を取った。
* * *
案内された部屋は、ただ広いだけではなかった。
角部屋らしく、二面に東京の夜が広がっている。
高層の光。
道路を流れる車の灯り。
遠くに見える街の輪郭。
人工的なのに、美しかった。
部屋の照明は柔らかく、家具も調度品も、すべてが静かに整っている。
特別な夜のために、理久が選んだ場所。
そう思った瞬間、美月はうまく息ができなくなった。
「りく」
「うん?」
「これは……」
理久は上着を脱ぎ、椅子の背にかけた。
その動作があまりにも自然で、美月はまた何も言えなくなる。
そして、理久の指が自分のネクタイに触れた。
結び目をゆっくりと緩める。
美月は、なぜかそこから目を逸らせなかった。
ネクタイが外される。
続いて、シャツの第一ボタンが開いた。
ほんの少しだけ見えた首元。
見てはいけない気がして、美月は慌てて視線を逸らした。
けれど。
一度逸らしたはずの目が、また戻ってしまう。
理久は、そんな美月の視線に気づいているようだった。
ただ、少しだけ目元を緩めた。
「美月のために、ちゃんと用意した」
「私のために?」
「うん」
静かな声だった。
今夜の理久は、いつもよりずっと静かに見えた。
「婚約して……」
理久が言う。
「両家にも挨拶して……」
美月は黙って聞いていた。
「……美月のお父さんにも、俺の家にも、ちゃんと向き合った」
「……はい」
「ここまで来てからにしたかった」
その言葉に、美月の胸が小さく鳴った。
それが何を意味しているのか、美月にも分かった。
理久は、何も考えずに待っていたわけではなかった。
曖昧なまま進めなかった。
美月が後から、自分の選択を疑わなくていいように。
今日のことを、後悔に変えなくていいように。
そのために、ひとつずつ順番を整えていた。
「そこまで、考えていたんですか」
「考えるよ」
理久は少しだけ笑った。
「美月のことだから」
ずるい。
そんな言い方をされたら、何も返せない。
理久の指先が、美月のジャケットに触れた。
一瞬、体が強張る。
「脱がせていい?」
美月は理久を見上げた。
自分で脱げる。
もちろん、そんなことは分かっている。
けれど。
美月は小さく頷いた。
「……はい」
理久の手が、ゆっくりとジャケットを肩から滑らせる。
触れているのは、ほんのわずかなはずなのに。
指先の位置が、ひどく鮮明に分かった。
ジャケットを椅子にかけると、理久は何事もなかったように美月の手を取った。
「夜景、見ようか」
そのまま窓辺まで連れて行かれる。
大きな窓の前で美月が足を止めると、理久はそっと手を離した。
美月より半歩ほど後ろ。
振り返らなくても、すぐ近くにいることが分かる。
「夜景、綺麗だね」
「……はい」
目の前には、東京の夜が広がっている。
高層ビルの光。
遠くを流れる車の灯り。
見ているだけなら、それで十分なはずだった。
なのに。
美月の視線は、いつの間にかガラスに映る理久を追っていた。
ネクタイを外したシャツ。
少しだけ開いた襟元。
端正な顔。
穏やかな目。
いつもの余裕をまとっているのに、どこか静かだった。
意識するな。
そう思うほど、目が離せない。
ふいに、ガラスの中の理久と目が合った。
美月の心臓が跳ねる。
気づかれていた。
たぶん、ずっと。
理久の目元が、ほんの少しだけ緩む。
何も言わない。
それが余計に恥ずかしい。
美月が視線を夜景へ戻した、その時だった。
理久が一歩近づく。
背中のすぐ後ろに体温を感じた。
それでも、まだ触れない。
「美月」
耳元に低い声が落ちる。
それだけで、肩が小さく震えた。
「待たせてごめん」
息が止まった。
待たせて。
何を。
分からないふりは、できなかった。
でも、素直な言葉も出てこない。
「ま……待ってません」
言ってから、すぐに後悔した。
また可愛くないことを言った。
どうしてこうなるのだろう。
理久が背後で、ふっと笑った。
「本当、強情だね」
「……」
「でも、そういうところも好きだよ」
美月は何も言えなかった。
理久の腕が、後ろからそっと美月を包んだ。
その腕の中で、美月はようやく分かった。
理久は、ずっと待っていた。
自分のためではなく。
美月が、自分で選べる場所に立つまで。
「不安にさせた」
理久の声が落ちる。
「美月に、余計なことまで考えさせた」
美月は顔を伏せた。
思い当たることが多すぎて、何も言えなかった。
「りく」
「うん」
「もう、いいです」
「うん」
理久は、それ以上言わなかった。
言葉でほどこうとはしない。
ただ、腕の力が少しだけ強くなる。
その沈黙の方が、ずっと理久らしかった。
「待たせてごめん」
もう一度、理久が言った。
さっきよりも近い声だった。
美月の目に、じわりと熱が滲む。
全部を言われたわけではない。
理由を説明されたわけでもない。
それでも、分かった。
理久は、迷っていたわけではない。
逃げていたわけでもない。
美月を軽く扱わないために、待っていた。
その事実だけで、胸の奥がいっぱいになった。
「理久は……」
「うん」
「本当に、ずるいです」
理久が少し笑った。
「今さら?」
「今だから言ってるんです」
「そっか」
その声が、少し嬉しそうだった。
美月はゆっくり息を吐いた。
緊張している。
恥ずかしくて、胸が苦しい。
でも、逃げたいとは思わない。
しばらくして、理久の腕がゆっくりとほどけた。
離れてしまう。
そう思った瞬間。
なぜか、少しだけ寂しいと思った。
けれど理久は離れなかった。
すぐ後ろに立ったまま、美月を見ている。
ガラスの中で、二人の視線が重なった。
「美月」
「……はい」
理久は、すぐには続けなかった。
窓に映る美月を見つめている。
いつものように余裕があるように見えて。
でも、今はそれだけではないことが分かった。
「もう、待たなくていい?」
胸の奥を、強く掴まれた気がした。
何を。
なんて、もう聞く必要はなかった。
ずっと待っていた。
理久も。
たぶん、自分も。
美月はガラスに映る理久を見たまま、小さく頷いた。
「……はい」
理久は、すぐには動かなかった。
ほんの一瞬。
本当にいいのかと、最後まで確かめるように。
それから、片方の手がゆっくりと伸びた。
ガラスの中で、その指先が美月の頬に触れるのが見えた。
頬に、理久の指先の温度が届く。
美月は息を止めた。
指先が頬をなぞり、耳にかかった髪をそっと後ろへ払う。
その指が耳に触れた瞬間、美月の肩が微かに揺れた。
ガラスの中で、理久の目が細くなる。
全部、見られている。
自分がどんな顔をしているのかも。
触れられて、どんなふうに反応したのかも。
恥ずかしくなって、美月は目を伏せた。
「美月」
もう一度呼ばれる。
仕方なく顔を上げると、またガラス越しに目が合った。
「……そんな顔しないで」
「どんな顔ですか」
理久は答えるまでに、ほんの少し間を置いた。
「俺が、もう待てなくなる顔」
心臓が大きく鳴った。
そんなことを言うくせに。
理久は、まだ待っている。
美月が逃げないことを。
美月が自分から選ぶことを。
そのことが分かってしまった。
美月は一度だけ唇を結んだ。
そして、ゆっくりと振り返った。
初めて、ガラス越しではなく理久を見る。
近い。
それなのに、もう目を逸らしたいとは思わなかった。
美月は、ほんの少しだけ自分から理久との距離を縮めた。
理久の表情が変わった。
笑うのでもなく。
からかうのでもなく。
長く息を止めていた人が、ようやく息をしたような顔だった。
その顔を見て、美月はようやく気づいた。
理久もまた、ずっとこの瞬間を待っていたのだ。
理久の手が、美月の頬を包む。
さっきよりも、もう少し確かに。
優しくて。
慎重で。
けれど、もう遠くはない。
「待たせてごめん」
三度目のその言葉は、謝罪で。
告白で。
約束のようだった。
美月は静かに目を閉じた。
その先の言葉は、もう必要なかった。
窓の向こうでは、東京の夜が変わらず輝いている。
長い間、二人の間に残されていた最後の距離が、静かになくなっていく。
そして今夜。
もう、どちらも待たなくていい。
ガラスに映る二人の影は、いつの間にかひとつに重なっていた。

