光の余白 ―君に触れる日まで―
第4話 朝になってから

朝食は、窓際のテーブルに用意されていた。
白いクロス。
温かいコーヒー。
小さなバスケットに入ったパン。
綺麗に並べられた皿とカトラリー。
昨夜見た東京の夜景は、朝になるとまるで別の顔をしていた。
高層の窓の向こうで、街は静かに動き始めている。
夜の光よりも、朝の光の方が現実味がある。
だから余計に、美月は落ち着かなかった。
理久は向かいの席で、何事もなかったようにコーヒーを飲んでいる。
本当に、何事もなかったような顔をしている。
それが、なんだか悔しい。
いや。
何事もなかったわけではない。
美月は考えそうになって、慌ててナイフを取った。
考えてはいけない。
朝から、自分で自分を追い詰める必要はない。
そう思うのに、目の前の理久があまりにもいつも通りで、余計に意識してしまう。
カップを持つ指。
パンを皿に取る仕草。
こちらの食べる速度に合わせて、自然に会話の間を取るところ。
いつもなら、それを優しいと思う。
今日も、もちろん優しい。
けれど、今朝はそこに別の感情が混じっていた。
美月は、しばらく黙って理久を見ていた。
理久が顔を上げる。
「どうしたの」
「……りくって」
「うん」
「人の扱い方が慣れてますよね」
理久の手が、ほんの少しだけ止まった。
「それは、褒められてる?」
「経験豊富そう、という意味です」
言った。
言ってしまった。
朝から何を言っているのか。
理久は一瞬、美月を見た。
それから、その視線がゆっくりと下がる。
美月の手元で止まった。
「……美月」
「はい」
「ナイフ持ったまま言う台詞じゃないよね」
美月も自分の手元を見た。
確かに、右手にはナイフがある。
「……食事中なだけです」
「分かってるけど」
理久が少し笑った。
「朝からなかなか鋭いね」
「理久が余裕ありすぎるんです」
言ってから、美月は口を閉じた。
余裕がある。
何に。
そこまで考えて、また余計な方向へ思考が向かいそうになる。
理久は困ったように、けれど優しく美月を見る。
怒ってはいない。
呆れてもいない。
その余裕が、やっぱり腹立たしい。
「俺の恋人は、ヤキモチ屋さんなのかな」
「別に、過去に嫉妬してませんけど」
即答だった。
理久は少し笑う。
「そう」
「そうです」
「うん」
それ以上、理久は何も言わなかった。
否定しない。
ということは、やっぱりそういうことなのだろうか。
いや。
あえて何も言わないのが、理久なりの優しさなのかもしれない。
……でも、それはそれで怪しい。
疑い出すと、きりがない。
過去の理久を、全部知っているわけではない。
知りたいとは思う。
でも、知れば知るほど安心できるのかと言われたら、それも違う気がする。
距離が近くなれば、知らないことが気になる。
だから、もっと知りたくなる。
でも、どこまで知れば安心できるのかは分からない。
ややこしい。
とても、ややこしい。
美月が黙っていると、理久が静かに言った。
「面倒なことを考えてる顔してる」
美月は顔を上げた。
「顔に出てますか」
「出てる」
「不本意です」
「分かりやすくて、可愛いと思うけど」
「……そういう言い方を」
「嫌?」
「嫌ではありません」
「じゃあ、いいね」
またそれだ。
美月は少しだけ睨んだ。
理久は楽しそうに笑っている。
その顔を見ていると、また悔しくなる。
昨日までより近くなったはずなのに。
今朝も理久は、ちゃんと理久だった。
王子の顔で笑う。
余裕のある言葉を落とす。
こちらの逃げ道を塞ぐ。
でも、最後のところでは、必ず待つ。
美月はコーヒーカップに視線を落とした。
「はい。考えてます。とても、とっても」
「それで?」
「でも」
「うん」
美月は、少しだけ息を整えた。
「りくに大切にしてもらっていることは、分かったので」
そこまでは、言えた。
理久は黙って、美月の続きを待っている。
過去の理久を全部知らなくても。
知らないままの部分が残っていても。
今、目の前にいる理久が、自分を雑に扱わない人だということは、もう分かっている。
だったら。
今、自分が見ている理久を、大切にすればいい。
美月はひとつ、小さく頷いた。
「解決しました」
理久が、わずかに目を細める。
「……美月」
「はい」
「また、途中の大事なところを言葉にしてないよ」
「いいんです。私の中では解決しました」
「自己完結?」
「はい」
理久は、呆れたように笑った。
でも、その目は少しだけ困っていた。
美月はそれを見て、少しだけ満足する。
たまには、理久も困ればいい。
いつも余裕のある顔で、美月の逃げ道を塞いでくるのだから。
これくらいの反撃は、許されると思った。
「美月」
「はい」
「俺、今かなり大事なところを置いていかれた気がする」
「気のせいです」
「気のせいかな」
「気のせいです」
理久はコーヒーカップを置き、少しだけ身を引いた。
朝の光が、理久の横顔に落ちる。
呆れたような表情をしているのに、その顔はやっぱり整っていた。
朝日を浴びた顔まで王子なのだから、本当に困る。
美月は、ふと昨夜の言葉を思い出した。
ーー待たせてごめん。
思い出しただけで、まだ胸の奥が少し熱くなる。
けれど今朝は、昨日とは違うことを考えていた。
避難先。
仮住まい。
そういう言葉で、自分はずっと理久の部屋にいた。
火事のせいで。
仕方なく。
一時的に。
そういう理由を、何度も自分に言い聞かせていた。
けれど、本当はもう気づいている。
あの場所は、ただの避難先ではなくなっていた。
理久が帰ってくる場所で。
美月が眠る場所で。
朝、顔を合わせる場所で。
チェス盤が置かれていて。
少しずつ、美月の物が増えていった場所。
仮の名前をつけたまま、ずっと大事にしていた場所。
美月はカップを置いた。
理久がすぐに気づく。
「どうしたの」
「そうでした」
「何が?」
美月は膝の上で指を重ねた。
昨日の夜より、この一言の方が緊張する気がした。
「ずっと、仮住まいにしていましたけど」
理久の表情が、ほんの少しだけ変わる。
「うん」
「正式に、一緒に暮らしたいと思いました」
言えた。
美月はそこで一度、息を止める。
それから、理久を見た。
「……どう、でしょうか」
理久はすぐには答えなかった。
驚いたように、美月を見ている。
その沈黙に、美月の心臓が変な音を立てた。
急だっただろうか。
言い方が硬すぎただろうか。
正式に、などと言うから、契約書の話みたいになったのではないか。
そう思った時、理久の目元がゆっくり緩んだ。
「……今朝いちばん嬉しいことを言われた」
「大げさです」
「大げさじゃないよ」
理久の声は静かだった。
笑って誤魔化している声ではなかった。
「もう、かなり住んでいますけど」
「うん」
「荷物も増えていますし」
「そうだね」
「だから、今さらな気もします」
「今さらじゃないよ」
理久は、はっきりと言った。
「美月がそう言ってくれるのを、待ってた」
その言葉に、美月は何も返せなくなった。
まただ。
この人は、肝心なところでまっすぐ来る。
ずるい。
本当に、ずるい。
理久は少しだけ笑う。
「じゃあ、帰ろうか」
「はい」
「二人の家に」
美月の指が、カップの取っ手で止まった。
二人の家。
その言葉が、朝の光の中で静かに落ちる。
美月は少しだけ視線を伏せた。
「……はい」
今度は、それだけでよかった。
避難先だった場所が、帰る場所になる。
朝の光の中で、美月はようやく、その場所を自分の帰る場所として選んだ。
完

