偽りの婚約者さまは、この関係を終わらせる気がない!
「片瀬さん、L'ÉCRINに宿泊しましたよね」
「え?」
まったく予想していなかったことを聞かれ、私は思わず瞬きをした。
「はい。一度だけですけど。担当に決まって、ちゃんと自分で泊まってみたほうがいいかなと思って」
L'ÉCRINの担当になって少しして、私は仕事として資料を読み込むだけではどうしても足りない気がして、思い切って一泊の予約を取った。
もちろん社員割引は利用したけれど、それでも普段泊まるホテルとは比べものにならない金額で、予約画面を開いてから確定ボタンを押すまでにはかなり迷った。
仕事のためなら会社に申請する方法もあったのかもしれないけれど、私はあえて自分のお金で泊まりたかった。
会社の人間として見学するのではなく、一人の客として、このホテルにお金を払って泊まったときに何を感じるのか、それを知りたいと思ったからだ。
「どうでした?」
「どうって……」
聞かれて、あの日のことを思い出す。
「すごかったです。本当に」
「ずいぶん抽象的ですね」
「だって、全部すごかったんですよ」
思わず笑ってしまうと、南野さんは少しだけ目を細めた。
「エントランスに入った瞬間からいい匂いがするし、ロビーはすごく広いのに落ち着いてて。最近はチェックインもスマホ一つでできるところが増えましたが、ここはそうじゃない。チェックインのときに名前を呼ばれて、丁寧に荷物も運ばれて案内される。それだけでも、なんだか自分が特別扱いされたみたいで嬉しくなりましたし。」
話し始めると、次々に記憶が蘇ってくる。
部屋へ案内されて、扉を開けた瞬間に見えた景色。
何気なく触れたタオルの柔らかさ。洗面台に並んだアメニティの美しさや、ベッドに身体を沈めたときの感触まで、普段なら気にも留めないようなことに、いちいち感動した。
「部屋に入ったらカーテンが自動で開いて、それだけでも一人で『すごい』って言いましたし、お風呂も、ベッドも、冷蔵庫の中も、何を見るにもいちいち感動してました。ドライヤーも全然違う。部屋だけでも感動したのに、さらにホテル内を歩いた時だってスタッフがとても丁寧でホスピタリティにあふれていました」
自分で言っていて少し恥ずかしくなったけれど、これは大げさでもなんでもない。
ホテルに泊まるという行為自体は何度も経験しているはずなのに、L'ÉCRINで過ごした一晩だけは、いつもの宿泊とはまったく違っていた。
「たぶん、こういうホテルに慣れてる人なら普通なんでしょうけど、私はそういうわけじゃないので。部屋の中で何枚も写真撮りましたし、朝食が来たときも料理だけじゃなくて、食器まで写真に撮りました」
「楽しかったですか?」
「すごく」
そこだけは迷わず答えた。
「本当に高かったですけど」
私が笑うと、南野さんもわずかに口元を緩めた。
けれど、その表情はすぐに消え、少し考えるように視線を落とした。