偽りの婚約者さまは、この関係を終わらせる気がない!
「私はこれまで、L'ÉCRINはそういう場所でなくてもいいと思っていました。今回のテーマも、これまで来てくださった富裕層の方たちがさらに優雅に楽しめる宿泊プラン。世界中のラグジュアリーホテルを知っていて、その中からL'ÉCRINを選んでくださる方々への感謝がメイン。これもとてもいいと思います。彼らは宿泊料金を見て迷う必要がない。いくらでもお金は支払うから利益も得られます。そのような人たちに、価格に見合う以上のサービスを提供する。それが、このブランドの役割であり、周年も延長線上であるべきだと……そう考えていました」
それは、私にもよくわかる。
L'ÉCRINは、そもそも誰にでも気軽に利用してもらうためのブランドではない。
価格を下げて客層を広げる必要もないし、安さや手軽さを売りにするホテルでもない。世界中のラグジュアリーホテルと比べられることを前提に、それでもここを選んでもらうための価値を提供する。
南野さんがずっと守ろうとしてきたものは、きっとそこなのだと思う。
「もちろん、今でもそれが間違っているとは思っていません」
「はい。そうだと思います」
「でも……あなたを見ていて、少し考えが変わりました」
「……え、私ですか?」
思いもよらない言葉に、私は南野さんを見返した。
「普段は仕事に尽力して手を抜かない。……それでもうちに泊まるにはかなり高いという感覚を持っている。あなたは、宿泊のためにかなり迷ったと言っていましたね」
「はい。金額を見て、一度予約画面を閉じました」
「それでも泊まった」
「担当になった以上、一度くらいはちゃんと客として体験したかったですし……それに、ちょうど仕事が大変な時期だったので、自分へのご褒美でもありました」
「そこなんです」
南野さんは、いつもより少しゆっくりと言葉を選ぶように続けた。
「L'ÉCRINは、日常的にラグジュアリーホテルを利用する人だけの場所でなくてもいいのではないかと初めて思ったんです」
私は何も言わず、その続きを待った。
「毎週泊まりに来てもらう必要はない。一年に一度でもいいし、数年に一度でもいい。仕事を頑張ったから。資格を取ったから。子育てがひと段落したから。何年も続けてきたことが一区切りついたから。そういうときに、自分のために少し背伸びをしてL'ÉCRINを選ぶ人がいてもいい。周年はそういう人に知ってもらえる、きっかけになってもいいのかなと思ったんです」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に彼の言葉がすっと落ちてきた。
私はまさにそうだった。
普段なら絶対に選ばない金額だったし、泊まったからといって何か形に残るわけでもない。
それでも、あの一晩は私にとって確かに特別だった。
チェックアウトしてホテルを出るとき、少し名残惜しい気持ちになりながら、それでもまた明日から頑張ろうと思えたことを、今でもよく覚えている。
「もちろん、価格を下げようという意味ではありません。ブランドの価値を崩すつもりもない。ただ、今回の周年企画を、これまでL'ÉCRINを知っている人だけに向けたものにする必要があるのかと考え始めました。知らない人に、日ごろの頑張りのご褒美としても使ってもらえるような……そんなふうなことを盛り込めないかと」
「……だから、今の案を変えたいとおっしゃったんですね?」
「はい。直前になって申し訳ありません。もっと上からも……これまでの富裕層向けの方向性でともともと言われていたので、それに大きく逆らうような気はなかったのですが……」
これまで進めてきた企画は、既存の富裕層や顧客をかなり強く意識したものだった。限定の宿泊プラン、ハイブランドとのコラボレーション、特別ディナー、会員向けの優待。
どれもL'ÉCRINらしいし、決して悪い企画ではない。
だからこそ、私たちもここまで大きな疑問を持たずに進めてきてしまった。
けれど南野さんの話を聞いていると、そこにもうひとつ違う方向を加えられるのではないかと思い始める。
L'ÉCRINの価値を知っている人だけではなく、まだ知らない人へ。日常的に泊まれる人ではなくても、何かを頑張ったあとの特別な選択肢として思い出してもらえるホテル……。